養老孟司「宗教の現代」

  万物流転24 「考える人 2008年春号」 新潮社
  
 養老氏が「考える人」に連載している「万物流転」の今季号の論考。
 宗教に対する現代人の感覚をよく示すものとして、わたくしの知らない「サン・ジャックへの道」という映画を紹介して、以下のように述べる。
 そこでは、西欧でも、
 1)カトリックではお遍路がいまだに普通におこなわれていることがわかり、
 2)教会を代表する、既成の組織宗教への懐疑と軽蔑があることもわかり、
 3)カトリックイスラムも同じようなものではないかという宗教的普遍性への「重くない」主張があることもわかる、
 として、そこに、現代の「日常としての宗教」がよく表されている、という。
 今は鎌倉時代のような厳しい時代ではない。だから、本当はいま宗教について考えてもムダなのかもしれない。宗教の必要性の実感を現代は欠いている、ともいう。
 西欧の人間には、宗教を唾棄すべきものだと語る、強い反宗教の立場の人がいる。一神教の世界では、無神論も宗教と等しい強い信条となるところがある。とすれば、無神論もまた宗教の一派ともみなせる。こういう強い宗教反対者は固有の心的外傷をもつにであろう。養老氏にとって、それと相応するような心的外傷は昭和二十年八月十五日である、という。ある種の心的外傷は、科学や宗教というイデオロギー性にひとを導く、ひとつのルートなのかもしれない、と。
 主観としての宗教と、客観としての科学は対立する。現代では若いひとほど「客観」信仰が強い。しかし、客観がダメだと思うといきなりカルトに走る。主観とは、自分の意識のなかだけにとどまらざると得ないもの、客観とは、外的な世界に持ち込むことができるもの、であると。
 ならば、主観は脳内、客観は感覚的といえるが、それなら脳と感覚を切断できるか、というような議論を、自分は若いころに周囲の「科学的思考」に反発し反論して、していた。科学者を相手に議論していたのである。しかし、自分が若いときに反発していた「科学的思考」は科学の世界だけのものではなく、いまや一般人の常識となってしまった。だから今度は自分が反=科学の側の人間ではなく、科学者として、世間一般の素人に、科学はあてにならないのだと説かねばならなくなっている。なぜなら、公には認めていなくても、多くの科学者は、科学の「アテにならなさ」を、もうよく知るようになっているのだから。
 若いときは、福田恆存小林秀雄の「本居宣長」を評した「自分にしかわからないと思った」に反発した。この言は「本居宣長」がどういう本であるかにつしては、何もいっていないではないかと思ったのである。しかし最近では「自分にしかわからない」という気持ちがわかるようになった。「共鳴」とそれを自分は呼ぶが、脳が共鳴することがあると思うようになった。そこに社会的視点と個人的視点、客観と主観をつなぐ鍵がある。それを脳生理学ではミラー・ニューロンという。
 自分は宗教にかんしては、つかずはなれずできた、という。触らぬ神に祟りなし、である。信じてしまうと、自分がやることに距離感がもてなくなるのがいやである。距離感がない典型が恋愛である。だから恋愛は病であると思う。そういう見方は以前は、冷たいとかインテリの自意識過剰であるとかいわれて非難の対象になった。しかし、今のわかものはクールである。それが逆転するとストーカーになるのだが。
 
 随分と乱暴な議論の連続で、だいたい養老氏が主観と客観のどちらの側に与しているいるのかすらよくわかない。だから最後でミラー・ニューロンがでてきて、それを止揚?するのだが、このミラー・ニューロンのあたり、脳科学者が読んだら、なにを言っているのだと憤慨するであろう部分である。なにしろ、本文中で、養老氏自身が、ある人文社会学者と脳科学者が同席する会で、人文側から「主観」とか「客観」とかいう言葉がでてときに、ある脳科学者が浮かべた軽蔑の表情ということをいっているのである。
 ここでの養老氏の議論を脳科学者が読めば、養老氏はたちまち軽蔑すべき人文学者の一員に分類されてしまうであろう。「知の欺瞞」で、多くの人文科学者が理解もしていない自然科学や数学の用語を、嬉々として自説の補強に使っていることが揶揄されているが、養老氏の本にも、自説に一見都合のよさそうな脳科学の知見をつまみ食いしていると非難されそうな部分が多くみられる。
 屁理屈をいえば、恋愛もまたミラー・ニューロンの所産として、脳科学の立場からみて、病でははく、人間のあたりまえの現象であるとみなされるのかもしれない。ミラー・ニューロンは「心の理論」の基礎を説明できるかもしれないものとして注目されているであろうと思う。それは「共鳴」一般のある部分を説明できるのかもしれないが、ある人が、誰に共鳴し、誰には共鳴しないかということについては何も説明しないなずである。恋愛もまた男女一般ではなく、特定の個人間におきるのであり、科学は特定の個人の間に生ずる現象を説明することはできない。スミスの「道徳情操論」の解説を、ミラー・ニューロンを用いてするような本が将来でるのだろうか?
 などと悪口を書いたが、わたくしにとって、養老氏は人文科学と自然科学の中間にいる人間としてとても興味深いのである。人文系の人間からみれば、養老氏は理科系の人間であろう。自然科学系からみれば、養老氏は俺たちの仲間じゃないね、ということになるのだろうと思う。養老氏のいう距離感というのはそのことではないかと思うので、氏は人文系、自然科学系双方から距離をとることを自分の立ち位置としているのである。
 わたくしが医療の世界にはいって驚いたことのひとつに、医療人のもつ哲学や宗教への劣等感ということがある。医療は病気をあつかうのであるから、哲学とか宗教とは別の仕事をしているのであり、劣等感もなにも、関係がないのであるが、医療の世界にいると、死と無縁でいるわけにもいかない。それにもかかわらず、医学の中にはそれへの回答は一切ないため、となりの芝生である哲学とか宗教とかが美しくみえ、そこには「生きる意味」とか「死といかに向き合うか」といったことへの答えがあるように見えるらしいのである。
 あるいは今では精神科を頼るのかもしれない。精神科の医者が「生きる意味」とか「死とどう対処するか」についての特別な見解をもっているとも思えないが、とくかく肉体(あるいは物質)にかかわらないことについてはお手上げで、心の問題については誰か別の専門家が答えを知っていると思ってしまうらしい。
 養老氏がその出発のはじめから一貫して言っていることは、自然科学というモノをあつかう学問があるが、その学問をするのは人間である、ということなのだろうと思う。だから解剖学とは何かというようなことを言い出す。しかしそれが解剖学会の中で評価されるかといえば、そんなことはないので、それは哲学である、解剖学とは関係ないということにされてしまう。
 通常、学問とは人間の手を離れたその成果を論じるものである。いわば人間を消すことで学問は成立する(つまり客観)。それなのに、なぜわれわれは解剖学を学ぶのかというような議論はそこにふたたび人間を登場させてしまう(主観の再登場)。クーンの言い方を借りれば、ノーマル・サイエンスに従事している人間に、パラダイムを疑えといいだすようなものである。というか、パラダイムなどということを意識せず、自分は万古不易で普遍的な物質を研究していると思っている人間に、メタの視点をもてといいだすわけなのである。距離感とはメタの視点ということであるのかもしれない。
 さて、宗教である。宗教は主観なのか? 一神教を信じるものの立場からすれば、宗教は究極の客観であろう。それは人間を超越してあって、人間の解釈を拒むものである。宗教を主観とすれば、それは人間の脳の産物であることになってしまう。わたくしはそうであると思うけれども、それはわたくしが信仰をもたない人間であるからで、信仰を持つものには、宗教が主観であるというのは、きわめて冒涜的な議論と映るであろう。
 わたくしは無神論者ではなく不可知論者ということになるのかもしれない。科学ですべてを説明できるとは思わないし、宗教がすべてを説明してしまう、というのもいやである。S・J・グールドは「神と科学は共存できるか?」という奇妙な本で、NOMA(Non-Overlapping Magisteria)[非重複教導権]原理という奇妙なことをいっている。科学の領域は経験的な領域である。宗教の領域は究極的な意味と道徳的な価値の領域である。両者は重ならない、というのである。「カエサルのものはカエサルに、神のものは神に」といった話である。橋本治氏は「小林秀雄の恵み」の中で、「近世という時代は、「神をちゃんと存在させて、しかしそれとは関係なく―」という形で平気で合理性を存在させてしまう時代なのである。(中略)人はそのようにして大問題から自由であった」という驚嘆すべき見解を述べている。どうもグールドのいうNOMA原理というのは、この近世の思考法の再現であるとしか思えない。しかし、橋本氏もいうように、近代になると「それとは関係なく」はもう成りたたなってしまうのである。
 科学と宗教は両立しえない―わたくしにはそうとしか思えない。「科学の領域は経験的な領域である。宗教の領域は究極的な意味と道徳的な価値の領域である」という部分の後者が曲者で、「究極的な意味と道徳的な価値の領域」にはさまざまな見解があるだけで正解は存在しないのである。宗教もそのワンノヴゼムの答えの一つで、かつては大きな権威をもっていたが、それが過去に世界を統一的に説明しようと試みたことが仇となって、今ではあちこちに綻びが目だってきており、維持がもはや困難になってきている体系なのだと思う。「究極的な意味と道徳的な価値の領域」に正解がある、というのが一神教の前提で、問題はその前提を「経験的な領域」に応用して、科学の探求が驚異的な成功をおさめてきたことで、西欧科学の背景にはキリスト教が存在したことなのである。
 であるから逆に西欧においては、今度は自然科学が「究極的な意味と道徳的な価値の領域」にも正解を提供しうるという領海侵犯がはじまる。そうしないと宗教の側が「経験的な領域」にまでふたたび逆襲してくるのではないかという恐怖心が西欧の自然科学者には少なからず存在するのではないだろうか。
 日本の自然科学者にはそういう恐怖心は存在しない。つくづくと日本はいい国なのである。まだ近世でやれているのである。だから「触らぬ神に祟りなし」なんて暢気なことがいえる。西欧の神は触らなくても、向こうから侵入してくるのである。
 養老氏もいうように現代に宗教は必要ない。だから、江戸時代から宗教なしで生きることが可能であった日本は大文明国なのである。わたくしには一神教は野蛮にみえて、それに対抗する無神論者というのも同じく野蛮にみえる。「無神論も宗教と等しい強い信条となる」というのが野蛮なのであって、わたくしはとにかく強い信条というのが苦手である。距離をとらせてくれないからである。

 私は政治について人から宣伝されることも人に宣伝することも好まない。どぎつい政治的宣伝は、たといその中に幾分の正しさを含んでいる際にも私にとってはやりきれない心理的攻撃であって、ことに共産主義者のそれは私を決して中立的にじっとさせておいてくれない点で身にこたえる。このわかり切った「真実」を自分で考えてみるなどはもっての外だといわんばかりにぐんぐん肉迫してきて、有無を言わさず「イエス」を言わせようとするのである。(林達夫共産主義的人間」)