内田樹「日本辺境論」

  新潮新書 2009年11月
  
 巻頭の「はじめに」になんだか奇妙なことが書いてある。この本には独創性はなく、体系性がなく、厳密性もないが、それについての批判には一切答えるつもりはないというのである。独創性がないというのは、すべて先人の説の受け売りであるということであり、体系性がないというのは、思いつきで書いていくので起承転結とか序破急とかの構成を期待するなということであり、厳密性がないというのは大風呂敷で大雑把な話であるということで、大雑把であればあそこも抜けている、これについては考えていないというところが多々あるのは当たり前、したがってそのような当たり前の批判には答える必要などない、そういう論理展開である。
 最近の内田氏は東奔西走、講演をしたり、インタヴューに答えたり、とんでもなく忙しい生活を送っているようである。そうであるなら勉強する時間はない。仕込みをする時間がないから、過去に勉強した先人の説を利用するしかない。またゆっくりと考える時間がないから体系的な本は書けない。とにかく書き始めてみて、頼まれた原稿の枚数になったら終わりにするしかない。この本のテーマは内田氏の専門分野とは関係がない。だから学問的厳密性などといわれても困る。こうも考えることができるのではないかといったほとんど思いつきに近い大振りな話しかできるわけがない。そういうことは何よりも内田氏自身がよく知っていて、内心の不安となっている。それが俺は批判に答えるつもりはないという虚勢になっているのだと思う。
 しかし、それでも本が書けるのは、過去の仕込みのお陰である。ほとんど売れずに無名でいて学問に没頭していた若い時代があり、その期間の膨大な蓄積が氏の現在を支えている。しかし、それでは蛸が自分の足を食べているようなもので、いずれ枯渇してしまうかもしれない。勉強にいそしんでいた時代に、氏はレヴィナスという先人から何かを受けとった。氏が本当に書きたいことは、その何かである。氏が書いている多くの諸作の根底に響いているのは、そのなにかである。
 氏が本当にしたいことはその何かを厳密に学問的に論じることなのだと思う。今のように忙しくただただ追われるように過ごしている日々の中で、適当なことを書き散らしていると、本当に書きたい本はかけずに終ってしまうのではないかという不安が、氏にはあるように思う。同時に自分が本当に書きたい本はほとんど読者のいない、自分のためだけに近い本になってしまうということもわかっている。そうであるならば今、相当数の読者を得た僥倖を利用して、いいたいことの周辺を書いていくほうが意味があるのではないかとも思えてくる。
 氏は今のままでいいという方向とこれではいけないという方向との間で日々揺れているのだと思う。だからこの「はじめに」も実は読者に対してのものではなく、自分のために書いているのだと思う。こんな本を書いていてはいけないのではないかという批判は外からではなく自分からくる。そういう内なる批判を押さえ込まないと本を書き始められないから、まずこの「はじめに」が書かれる、そういうことなのではないだろうか。
 
 などと、内田氏に大変失礼な、ほとんど思いつきにひとしいことを、大雑把かつ非学問的になんら検証もなく書いてきた。やはり本に即して論じていくことが礼儀というものであろう。
 本書は日本論ないしは日本人論である。
 最初は、なぜ自分が大雑把な話をするのかというところから。それは「大きな物語」の消失という現代の動向へのささやかな異議申し立てなのであるという。具体的にはマルクス主義の凋落。マルクス主義が信用をうしなうと同時に歴史の方向性という感覚もまた失われた。それでいいのか? 専門研究も必要である。しかし同時に(たとえば司馬遼太郎のように)「大きな物語」を書く知識人もまたいてもいいのではないか? (これは内田氏が学者から一般向けの本を書くひとに転じたことの弁明のための自己説得文であるように思う。司馬氏はとんでもなく勉強した人であったと思うのだが。)
 さて、今まで数多の日本論が書かれてきている。しかし、それが伝統になっていないのが問題であるという。一時話題になるが忘れられることの繰り返しである。過去の有益な書が忘れられている。そうであるなら、それらを忘却の淵から呼び戻すだけでも本書を書く意味はあるだろう、そう内田氏はいう。
 この「日本辺境論」の主張の要約は以下であるといって梅棹忠夫氏の『文明の生態史観』の一部を引用する。要するに、日本人は文化的劣等感をもっていて、ほんとうの文化は、どこかほかのところでつくられるものであると思っている。それは大文明の辺境諸民族のひとつであるという自己規定に由来する、というものである。
 梅棹氏のこんなに優れた説が忘れられているのは、「日本についての本当の知はわれわれのところではない、どこか別のところでつくられている」とわれわれが思っていて、すぐに別の新しいものを探しはじめるからだ、と。梅棹氏の説自体が梅棹氏の論の忘却を説明するというロジックである。そうであるなら、この内田氏の本もまた一時話題になってすぐに忘れ去られる運命にあるという自己予言でもある。
 日本文化というものはなく、あるのは日本文化とは何かという問いかけだけなのだという。そのもの自体に価値があるのではなく、そのものが他のものとどういう関係があるかということが価値を決めるのだ、と。
 で、次に丸山眞男がでてくる(「原型・古層・執拗低音」)。外からくるものをどのように変えるかという仕方のなかにこそ日本文化がある、という説。昔は中国から、明治以降はヨーロッパから、何かいいものが来る。しかし、それをそのまま受けいれるのではなく、変容させて受容する。
 次が川島武宜の「日本人の法意識」。和の精神であり、「和を以て貴しと為す」である。そこで紹介されている戦後制定された調停制度を普及させるために委員に配られた「調停かるた」には笑ってしまった。いわく「論よりは義理と人情の話し合い」「権利義務などと四角にもの言わず」「なまなかの法律論はぬきにして」「白黒を決めぬところに味がある」。このカルタを知っただけでも本書を読んだ意味はあった。内田氏は、これは自分が学内外のトラブルに遭遇して調停にはいるときにいつも口にしている言葉なのだという。
 私たちは変化するけれども、変化の仕方は変化しない。そうでないと、外来の思想を受容するときに自己同一性が保てない。「つねに自信が持てず、つねに新しいものに遅れまいときょろきょろしている」というのが日本人の自己規定であり、つねに伝統や個人の智恵を平然と捨て、一時も同一であろうとしないのが、日本人の自己同一性なのである、という。
 吉田満戦艦大和ノ最期」での青年士官の未来への付託の希望を引用しながらも、そういう未来への過去からの手渡しは日本ではおこなわれず、つねに他国との比較を語るのが日本人なのだという。
 次が、ルース・ベネディクト菊と刀」。自己のアイデンティティよりも場の親密性を優先させる日本人。その場における支配的な権力との親疎を最優先に配慮する「長いものには巻かれる」受動的な日本人。何が正しいのかではなく誰と親しくすればいいのかが優先される日本人。自分自身が正しい判断を下すのではなく、「正しいはずの判断を下すはずの人」を探り当て、その身近にあることを優先する日本人。
 山本七平のいう「空気」。誰も責任をもった決断をしないまま戦争をはじめてしまう日本人。受動的で能動性のない日本(丸山眞男「日本の思想」)。
 辺境は中華の対概念である。だから日本人は、一度も自前の宇宙論をもったことがない。日本人は他国に追いつくことを目指すときは卓越した能力を発揮するが、自分が先行者となり他を導くことが問題となると思考停止に陥る。日本人は弟子の発想のなかにいつもいる。それが辺境人ということである。しかしそれでいいではないか、それが日本なのだから、日本はとことん辺境でいこうではないか、というところまでが、第一章「日本人は辺境人である」。
 さまざなな日本人論を引用しながら、従来いわれてきた、『だから駄目なんだ』ではなく、『それしかないのだからそれでいこう!』に変更したのが本書である。梅棹氏の論の引用からはじめているのは示唆的である。梅棹氏の「文明の生態史観」は日本肯定史観の嚆矢であるのかもしれないから。
 内田氏が当初構想した「日本辺境論」はこの第一章の部分なのではなかったのかと思う。本でちょうど100ページである。しかし実際は250ページほどで、だから第二章以下は悪く言えば水増し、良く言っても長大な註であるという印象をあたえる。

 第二章は「辺境人の「学び」は効率がいい」で、以前からの教育論の使い回しの部分も多いのだが(もう何回でてきたかわからない「張良」ネタなど)、論旨が混乱していて、何がいいたいのかがよくわからない。
 最初は司馬遼太郎とか吉行淳之介とか吉本隆明とか江藤淳とかががなぜ外国語に(ほとんど)翻訳されないのかという疑問からはじまる。あまりにその論理や叙情が日本人固有なので外国語に移植できないのだろうともいい、その著書のめざすものが、前近代のエートス(端的には武士道)と欧米文明との接合というドメスティックな主題をあつかっているせいでもあるという。じゃあ村上春樹はどうなんだ、という疑問にはそれは日本という固有の問題をあつかうのではなく、人間あるいは世界の成り立ちを主題的に考究する世界文学なのだと答える。何だか「村上春樹にご用心」でいっていたことと整合性がない。村上文学はドメスティックではないという批判に対して、ドメスティックな文学を志向するひとを自閉的と批判していたのである。川端康成三島由紀夫は世界文学なのだろうか? ドメスティックな文学ではないだろうか? チェーホフもまた世界文学なのだというのだが、それはきわめてロシアにドメスティックな文学で、ロシア正教という前近代のエートスと欧米文明の接合という問題をあつかっているのではないだろうか? もちろんドストエフスキーも。
 アメリカ人は「われわれはこういう国だ」という名乗りからはじめるという。しかしそれはアメリカに特殊なことであって、アメリカがきわめて人工的な国だからである。中国人もそうだし、フランス人もそうだというのだが、中国やフランスは中華思想の国である。世界の中でむしろ例外である。
 「私が日本人である。日本人を知りたければ私を見ろ」といい切る日本人はいないという。しかし「武士道」だって「茶の本」だって「代表的日本人」だってみなそういうことを言おうとする本なのではないだろうか? あるいは西郷隆盛はそういったのではないだろうか?(もちろん、そういう名乗りをしないのが日本人なのであるが)
 そしていきなり「起源からの遅れ」の論がでてくる。これが内田氏がレヴィナスからうけとったものの中心なのだと思われるが、「私家版・ユダヤ文化論」では「始原の遅れ」としてでてくる。レヴィナス自身の言葉であり、原語は initial apres-coup らしい(e の上にアクサングラーヴ)。「そのつどすでに遅れて世界に登場するもの」ということなのだが、おそらく分かっているのは内田氏だけで、読者にはさっぱり通じていないのではないかと思う。絶対的な神がすでに作ってしまって世界に、わけがわからないままに(しかも神に召命されて)後から参加させられるというような感覚ではないかと思うが、絶対的な神というものをありありと感じ取ることのできる人間でないと「始原の遅れ」とか「起源からの遅れ」などというのは単なるたわごと、言葉の遊びに過ぎないものとなってしまうだろう。レヴィナスユダヤ教のラヴィらしいから、そういうものを感じ取れて当然であるし、内田氏は日本人には珍しくそういうものを感じ取れるアンテナをもっている人なのだろうと思う。しかし、そういう絶対的な超越者を想定するのでなければ意味をもたない「始原の遅れ」という生硬で熟していない、こなれの悪い言葉を、内田氏は中国と日本、西欧と日本の関係に持ち込んでくるのである。
 そこから新渡戸稲造が「日本人はなぜ宗教教育なしに道徳的でありうるのか」という疑問に答えるために書いた「武士道」を論じる。武士道は啓典宗教ではないから成文化した教典はない。そこから武士道は(山本七平のいう)「空気」なのだといいだすのだが、「空気」@山本七平は絶対的なものがなく、すべてその場の相対的な関係がものごとを決定するということをいっているのだから、まるで無茶な議論である。「武士道」に『「或るものに対して或るもの」という報酬の主義を武士道は排斥する』とあるのを、これこそが学びの原点というのだが、これは利によって動くこと、功利を求めることをしないということでありながら、なぜそうなのかを示さない点では絶対的なものであり、「空気」とはまったく異なるものである。ここでの武士道は絶対的なものではある、しかしそれは超越者が命じたからではない、あくまでも文化の産物である。
 内田氏は自分の外側に上位文化があるという信憑を強引に宗教性と結合させようとする。そうしないと自分の土俵である「始原の遅れ」にもってこられないからである。そして、その宗教性をこそ望ましいものとするから、日本人の「道」への探求は緊張感のある宗教性の発達を阻み、成熟へと至る道を閉ざし、自己の未完成を正当化してしまう、とする。霊的成熟という切迫感がなくなり、自己超越への緊張感が失せてしまう、という。それが、第三章の「「機」の思想」の主題になるのだが、武道の例をとって語られる「機」という概念がわたくしにはよく理解できなかった。
 最終章の「辺境人は日本語と共に」の章も何がいいたいのかよくわからなかった。
 「終わりに」で、『「日本文化の特殊性」だと思ってあれこれ書き込んでゆくと、どうもユダヤ思想に出くわすことが多々ありました。そう思うと、山本七平さんが案出した『日本人とユダヤ人』という枠組みはなかなか侮れないものであることがわかります。』などと書いている。しかし山本氏の論は日本人の対極にあるものとしてユダヤ人を提示することにより、日本の特殊性をあぶりだそうとしたものなのだから、日本文化がユダヤ思想と通底するなどという話とは正反対である。どうも内田さんの言っていることは変である。
 この本は日本の地理的辺境という空間論を、レヴィナス由来の始原の遅れという時間論に置き換えるという思いつきによる一発芸の試みなのだろうと思う。ユダヤ教キリスト教の元なのであり、何よりも絶対的な超越者を前提とするものなのだから、それが日本人に近いなどとするのは土台無理な論である。「論よりは義理と人情の話し合い」「権利義務などと四角にもの言わず」「なまなかの法律論はぬきにして」「白黒を決めぬところに味がある」などとユダヤ人がいうだろうかと思うのである。徹底的に議論するのがユダヤ人なのではないだろうか?
 日本教の中心には神ではなく人間がいる。「人の世を作ったものは神でもなければ鬼でもない。やはり向う三軒両隣りにちらちらする唯の人である」と思うひととユダヤ人がどうして似ていたりすることがあろうか? 「草枕」を読まずに日本を語ってはならぬと、かのイザヤ・ベンダサンさんもいっている。
 どうも内田さんは霊的成熟とか自己超越の緊張とかが本当は好きなようなのである。日本人にそれが足りないのが不満らしい。そうだとすると、西洋という本場にホンマモノがあって、われわれにはそれがないとする、文明開化以来の(あるいは中国を本場と仰いだ遙か昔からの)日本人のやりかたの、また一つのヴァリエーションが提示されたということなのかもしれない。
 それでわたくしもたった今思いついた日本人論を書いてみようと思う。だたの思いつきであるから、厳密性がないとかいわれても困る。なにしろ大雑把な話で、「日本人=女性性格説」とでもいったものである。男性性格、女性性格などというものがあるという説自体、フェミニズム陣営からはトンデモといわれるであろう。ここは先人の背に隠れることにして、バロン=コーエンの「共感する女脳、システム化する男脳」の威を借りる。「女性型の脳は共感する傾向が優位になるようにできている。男性型の脳はシステムを理解し、構築する傾向が優位になるようにする」とバロン=コーエンはいう。「論よりは義理と人情の話し合い」「権利義務などと四角にもの言わず」「なまなかの法律論はぬきにして」「白黒を決めぬところに味がある」に共通するものが共感でなくてなんであろうか? その反対、論を重んじ、四角四面にものを言い、法律で白黒を決めようというのが男性的というものなのである。アメリカのような人工国家をつくるものこそ男性原理である。社会契約説などというものを女性が思いつくわけがない。そうであるなら原理主義こそは男性性の極地である。思想世界におけるアスペルガー症候群である。
 などと書いてきたが、これはなんのことはない、丸山眞男さんの「する」と「なる」の話の変奏に過ぎない。「する」のが男、「なる」のが女。「能動性」と「受動性」。それであるなら、丸山さんのいっていたことは「日本よ男たれ!」ということだったことになる。内田さんのいっていることも、日本はつねに受動的であって、能動的であったことはないというだけのことになる。それならば太平洋戦争は何だということになるが、もちろんそれは自発的意志の発動ではなく、追い詰められたあげくの爆発であるのだから、悪いのは追い詰めた《能動側》であって、追い詰められた《受動側》ではないということになる。
 などなど、われながらなかなかうまい説のような気もするが、「日本人=女性性格説」の最大の欠点は、その説の生物学的基盤がないことである。つまり学問的に成立しない。そうだとすれば、フェミニズム陣営に譲歩して生物学的にではなく文化的に説明しなくてはならなくなる。それならば「一神教」対「多神教」というのはどうだろうか? あるいは啓典宗教とそれを持たない宗教。法律の根源は啓典であるに違いない。日本人の多くは法律などは所詮、単なる紙切れにすぎないと思っているのではないだろうか? ある法律が有効であるかどうかは時と場合による、とか。
 「日暮硯」は日本人の政治感覚を語るのに逸することのできない本なのだそうであるが(知ったのは「日本人とユダヤ人」によって)、今でもよく覚えているのが、その主人公である信州松代藩家老の恩田木工が何度も「斯く言ふは理屈といふものなり」というところである。「なまなかの法律論」は理屈なのであって、それが人情に反するならば無視してもいいし、むしろ無視しなくてはいけないのである。「論よりは義理と人情の話し合い」が大切なのである。
 この「啓典宗教」論は儒教や仏教が啓典宗教ではないのだから、日本の実際の歴史に適応するとすぐにぼろがでる。しかし、少なくとも儒教も仏教も論であることは確かである。「論よりは話し合い」主義の人間が世界に冠たる世界に発信できる首尾一貫した思想を構築することがあろうとは思えない。
 それで問題は、なぜ日本が「論より話し合い」主義になったかである。それは日本が辺境に位置するためなのだろうか? いいものは中央にあるとして中央を崇拝する心情と、中央から来るものも所詮は理屈なのだから全部を本気で受けとらなくてもいいとする心情は背馳するものだろうと思う。おそらくそのどちらも日本にはあるのだから、どちらか一方のみで一貫して説明しようとすると、かならず無理がでてくる。
 その両方が辺境人の心理なのだろうか? しかし内田氏は前者を辺境人の心理としているように思う。それなのにどこかから後者ももってくる。それで一貫性を欠くことになる。ということで本書の主張はそうとうな無理筋の上にできあがっているように思った。
 通読すると、ここに紹介されている本のかなりは読んでいた。わたしもまた日本論や日本人論が好きなのだなあと思った。はじめの方に、『世界的に見ても、自国文化論の類がこれほど大量に書かれ、読まれている国は例外的でしょう』とある。
 それで思い出すのが、村上龍氏が「寂しい国の殺人」の「もう国家的な目標はない、だから個人としての目標を設定しないといけない、その目標というのは君の将来を支える仕事のことだ」という一節である。「(昔に)あったのは、近代化という国家的な大目標、それだけだ。だから、あの時代には絶対戻ることはできない。あの時代にあったものを取り戻すことも不可能だし、あの時代を基準にして今を考えるのは、卑怯だ。」「フランス人はこれからどう生きるべきか、などとフランス人はけっして考えない。今、日本全体のことを考えられる日本人など本当はどこにもいない。『これからの日本をどう変えていけばいいのか』などと言っている人をわたしは信用しない。そんなたわけたことを言う前にまずお前が変われ、といつも思う。システムを変えることで個人が変わる時代は終っている。」
 わたくしが決定的に影響をうけた日本人論は山本七平氏のものだが、その山本氏にしてもあるいは司馬遼太郎氏にしても、それぞれの戦争体験から日本人について徹底的に考えることになったのだと思う。そして山本氏は砲兵隊の計測部隊、司馬氏は戦車部隊と理系の部隊にいたことが決定的だったように思う。理系=男性脳である。日本人の持つ弱点というのは軍隊の中で濃縮して顕在化するのだと思う。日本人の女性性が端的にそこにでてくる。山本氏も司馬氏も戦争で徹底的に懲りた。彼らがもった批判的視点は理系の目なのである。丸山真男氏だって軍隊にいって徹底的に農村出身者にいじめらた、それが「日本の思想」の原点なのだと思う。農村共同体的なものへの嫌悪である。村上龍氏などは共同体への嫌悪をばねに創作をおこなっているひとであるから、上記のような強い言葉になる。ようやく大きな組織がこわれて個人の時代になろうとしているのに、過去へのノスタルジーにすがるひとへの嫌悪を隠せない。
 内田氏はそれなのに「大きな物語」をとりもどすことも大事であるなどという。それも司馬遼太郎氏を山車にして。日本の組織はたしかに共同体的に運営するとうまくいく。だから学問の世界では民主主義の論陣をはる大学教授が教室の運営においては封建的暴君としてふくまうなどということがいくらでもみられる。教室の“伝統”を守ったりするのである。
 日本の組織は恩田木工的に運営するとうまくいく。あるいは過去にはうまくいった。そして、そういう共同体的運営の中では息苦しく感じるひとが、日本とは何かと考えるのである。日本の中で何の違和感もなく生きているひとは日本人とはなどと考える必要はない。日本人論がこれだけ多く書かれてきたのは、ものを考える人間にとって日本は生きづらく苦しい国であったということなのである。
 日本は辺境かもしれないが、知識人は日本の中のまた辺境にいる。辺境と辺境をかけあわせることで、マイナスの二乗がプラスになるように、知識人は中心へ、中華へとむかうのかもしれない。
 村上龍氏は近代化したらさびしくなるのは当たり前だという。内田氏は、身の丈にあわない「あちら」の思想などは無理にとりいれることなく、世界の片隅でひっそりと生きてきた知恵でこれからも生きていけばいいのではないかという。「鎖国」のすすめ、なのである。
 近代化=西欧化である。村上氏は日本は近代化を終えたという。国家目標を語る時代は過去のものとなったという。内田氏は、もう近代化など目指すのはやめようよ、という。ということはまだ近代化は終っていないとしている。
 明治以来日本がめざしてきた方向をこれまでも続けていくのか、それとももうやめにするのかということである。そして、そもそも、続けたりやめたりすることを決める誰かがいるのかということである。誰か上のほうのひとがもうやめようと決めたり、これまで通りでいこうと決めたりするのだろうかということである。一人一人が自分で選んでいくしかないのか、国家の方向を決める誰かがいて、そのひとが日本の方向をこれからも決定していくのかである。
 

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