片山杜秀「中今・無・無責任」in 「日本思想という病」

   光文社 2010年1月
   
 今、片山氏の「クラシック迷宮図書館」正・続を読んでいる。クラシック音楽関係の本の書評集なのだが、思想史研究者でもある片山氏の本なので、政治あるいは西洋史の視点からの論が多い。それでそれについての感想を書くためにはまず片山氏のそちらの方面の論点をみておかないといけないと思い、以前高田里恵子氏の「文系知識人の受難」を読んだときに一度読んでいたが、あらためて読み直してみた。70ページほどの論から片山氏の全貌をみることは不可能なのだが、それでもその一端は知ることができると思われる。
 それで「中今・無・無責任」だが(中今は「なかいま」。戦前の右翼団体の原理日本社の用語)、反=丸山眞男かつ反=司馬遼太郎という微妙な路線であるように思う。日本特殊論を排し、昭和前半の日本の歴史もそうでない可能性もあったものとして相対的にみようとしている。
 
 以下、片山氏の論。
 日本は三権分立である。しかし三権分立というは誰も責任をとらないということではないのか? 実は日本の議院内閣制というのは内閣に力をもたせることで、そこに最終の責任をおわせようという体制である。立法府が行政府を支配し2権を兼ねるというものである。
 しかし日本では実際にはそうなっていなかった。官僚が威張っていた。それを本来の議員内閣制にもどそうとしたのが小泉純一郎首相であった。しかし小泉政権への批判もまた根強いものがあった。それは明治憲法の呪いによる。戦前戦中の体制において、国会の力が強くなってくると当然それは天皇大権に触れることになった。それでそうならないよにしてきた、その歴史が現在までわれわれを縛っているのである。
 日本は誰が責任をもっているのかそれがはっきりしないままで中国やアメリカと大戦争をした。強力なリーダーシップなしに大戦争をするなんて無茶苦茶である。それが戦後、丸山眞男氏などから「無責任の体系」と批判されるようになった。
 総力戦をやるためにはそれでは駄目だということはみなわかっていた。それでいろいろな仕掛けをつくろうとした。しかしそれがことごとく挫折し、「ありのままでいい」というとんでもないところにいきついたのである。
 右翼思想といっても「強力な国家社会主義体制をめざす」方向から「日本は今のままでいい」派までいろいろあった。それを右翼ということでくくろうとするから議論が混乱する。
 「今のまま」派は、世の中の仕組みをいじれるのは天皇だけだとする。下々がそれをしようとするのはけしからん、ということになる。それが実は丸山学派の日本論と方向は違え発想は同じなのであるというのは片山氏の論の肝になる。どういうことか? 日本の政治は結局は、天皇が「しらす」政治でなのである。「しらす」は「知る」に通じる。天皇が臣下や人民の気持ちを知り、そして自分の気持ちも「しらす」。お互いが「知り合って」お互いの意思や意向に齟齬がなくなったところで、政治行為をおこなう、それが「しらす」である。みんなが納得してそれがいいということになってはじめておこなうのが政治である。しかし日本にはもうひとつ「うしはく」という統治を意味する言葉があった。これは反対者は追放するのだ政治であるとする強権的なイメージのものである。しかし、天皇は「しらす」ものであって「うしはく」ものではないとされた。
 第日本帝国憲法の「万世一系天皇大日本帝国を統治す」という条文は、もともとは「しらす」だったのだという。しかし「しらす」などという言葉は欧州語に翻訳不可能である。それで「統治す」となった。
 日本ではだれかが強力なリーダーシップを発揮するのではなく、皆がお互いに意見を知らせあうものなのである。それで落ち着くところに落ち着くというのが政治である。さてそうすると司馬遼太郎などが問題とする統帥権も問題がでてくる。その源は西南戦争である、と片山氏はいう。戦争の最中にいちいち太政官で合議などしていては勝てない。それで山県有朋などが本当に統帥権を独立させてしまった。
 しかし「しらす」などという古語が日本の政治を決定したなどというと、いつまでも「曖昧な日本の私」というようなことになってしまう。明治憲法の仕組みだけをみるとたしかに誰もリーダーになれない体制である。しかし実際には元老政治だった。維新の元勲・元老たちがリーダーシップをとるものだった。しかしそれは憲法上の規定にはなく、三権のどこにも属さない公然たる黒幕(ということは白幕?)である。とすると元老がいなくなると明治のシステムは「しらす天皇とその下の分権体制というとんでもないものとなる。だからこのあたりの重視すれば、日本の無責任体制は超歴史的なものではなく、大正から昭和にかけての歴史的なものであることになる。司馬遼太郎は明治まではよかったがその後が駄目だったというが、一番悪いのは明治のシステムなのではないか?
 日露戦争を経験し第一次世界大戦を横目でみていた日本は、これからの戦争は総力戦になるであろうことはよく理解していた。それを考えたのが陸軍の統制派と呼ばれる人たちである(田中義一宇垣一成永田鉄山・石原完爾・・・)。本当は明治憲法を変えればよかったのである。しかしそれは不羈の大典である。それをいうことは天皇の権限をおかすことになりできない。そこででてきた苦肉の対策が大政翼賛会である。しかしそこに「ありのまま」派がでてくる。みながそれぞれの分をわきまえ、職域を守って黙々とやっていれば自ずとうまくいくというような勢力が勝ってしまうのである。「ありのまま」派の雄が原理日本社。計画や統制などという理性偏重の計画ではなく、天皇陛下のもとでそれぞれの職分をまもって無心に働いていけばいいとした。
 統制派に対したのが皇道派。強権的で強力な政治に疑念をもち、身の丈にあった、無理のない、国民みながつましく幸せにくらせる社会や国家を夢想した。一種の農本主義的な国家社会主義とでもいうもので、伝統的な暮らしを守り、都市などで文明を追わずに、助け合って素朴に逞しく、貧しくとも美しく暮らしていければそれでいいではないかといったイメージである。
 強いリーダーシップを作ろうとする運動が次々に挫折していくなかで、最後に「ありのまま」派が残る。それは一種の諦念でもあり、やけっぱちでもあり、晴れ晴れとした感じでもある奇妙なものであった。
 総力戦指向はどうなっていったのか? 石原完爾が挫折した後、たとえば酒井という陸軍中将は総力戦など無理だとした。片山氏の要約によれば「日本は小兵の力士のようなもので奇手奇策でたまに横綱に勝つくらいのことはできるが、それ以上は荷が重い」としたのだと。
 しかし最後にでてきたのは石原とも酒井とも犬猿の仲であった東条英機という普通人・常識人なのである。確かに酒井中将のいうように総力戦には勝ち目がありそうもない。ものでは勝てない。それではどうするか? 精神力で補えばいい。これは職域でそれぞれが頑張れば道が自ずからひらける、の戦争版である。なんでも「闘戦経」というものがあるのだそうで(偽書ともされているらしいが)、戦うというのはただ戦うということで、戦ってみなれけば勝敗はわからない。死んだらそれでおしまいというだけであるし、相手が気圧されてひるむこともあるかもしれない、というとんでもないものであるが、足りないものがあるので、それを精神で補うというのは、これまた一種の合理主義であると片山氏はいう。その文を引けば「理性的に神がかる」。
 東条英機は困った。こんな体制では勝てるはずはない、それでどうしたか。いくつもの役をみな自分が兼ねることにより何とかリーダーシップをとれる体制にしようと考えた。しかしすぐに足をひっぱるものがでてくる。東条などという思想も胆力もないものがなんでといってつぶしにかかるものがでてくる。
 昭和天皇立憲君主制をよく理解し、なるべく政治主体として機能しないようにしていた。その下にあるのは細かくわかれた分権のシステムだけ。権力はどこにも集中しない。その体制を、また肯定的に語る哲学者まででてきた。いわく「無の政治」。大陸でも太平洋でも赫々たる戦果があがっているではないか? これは「無の政治」が機能しているのである。アメリカもソ連もナチも飛び越えた近代を超克したシステムが日本にできてきているのではないか? 高坂正顕の「世界史の四段階説」。第一段階:自然を世界の中心とするギリシャの自然神の世界。第二段階:キリスト教文明。第三段階:ヨーロッパ近代の人間中心主義の時代。そこでは人間は歯車となり疎外される。第四段階:自然とか神とか人間とか特定の一者に中心をおかず、世界の中心は不在であるとしてきた日本の歴史、それは中心がないという意味で無の世界なのである。それは原始的と考えられてきたのかしれないが、実は近代の後をうける究極の解答なのである。それがこの大戦に勝利することで世界にいきわたり、世界は第四段階に入るのである。中心などいらず、主体などもいらず、責任者がいないということを積極的に肯定した。
 さらにそれを批判するひとがいる(佐藤通次ら)。高坂らの京都学派は無などという観念に依拠している点でまだ西洋流の観念論をひきずっている。だから駄目だ。生身からの思考に転換せよ。無でなくて有。生身という有。
 そこで丸山眞男。京都学派の無だとか原理日本社の今中とかいうのは、総力戦思想や国家社会主義の立場からすれば、ただの無責任である。この批判は丸山眞男の無責任体制批判とまったく同じものなのではないかというのが片山氏のいおうとするところである。
 もちろん丸山は総力戦派も批判する。しかし丸山の「歴史意識の「古層」」は原理日本社の時間意識なのではないだろうか、と。片山氏がいいたいのは、昭和前期の日本を覆った思考は何も日本につねに存在する固有のものではなく、その時期に特殊なものだったということである。もし明治憲法さえ変えられれば、そういうことはおきなかったのだ、と。
 
 明治のあるいはそれに由来する昭和の問題点は元老制にあるのだということは橋本治氏もいっていた。ポツダム宣言受けいれで問題になった国体の護持というときの国体というのが何をさすのかがどうしてもよくわからないのだけれど、もちろんそれが天皇制をさすのだとしても、その天皇制という言葉でどういう体制が考えられていたのだろうということである。それは一種の賢人政治のようなものだったのではないだろうか? とにかく民衆への不信、民主主義への不信があって、少数のものが指導する体制、愚かな民衆に政治に口をはさませない体制がそこで目指されていたのではないかと思う。ついでにいえば倉橋由美子氏晩年の桂子さんもので描かれていた世界もそういう賢人政治の世界であったように思う。同じ「日本思想という病」にある植村和秀氏の「思想史からの昭和史」で個人商店的な明治国家と大企業的となった昭和国家ということがいわれる。元老政治というのは個人商店的な発想である。単に元老が不老不死ではなかったということだけでなく、日本という国家が大きくなったきてしまったことそれが問題なのだと思う。「しらす」などということが可能であるのは、ある程度の規模の集団までである。
 日本という国での組織運営ということについては山本七平氏の著作から多くを学んだ。そこでは、日本の組織というのはトップダウンではなくボトムアップであって、下からあがってきた提案を受けいれて責任をとるのがトップの仕事であるというようなことが書かれていた。まさに「しらす」の世界なのである。日本の軍隊はトップがだめだが現場が強いということはさまざまなところでいわれていたらしい。司馬遼太郎氏が愛したのも個人商店的に運営できる規模の国家での出来事ではなかったかと思う。
 強力なリーダーが統率するという仕組みが明治憲法の制約があったのでできなかったのか、かりにそういう制約がなかったとしても、日本という国では強力なリーダーというものが成立しにくいということがあるのかが問題であろう。後者であるなら片山氏がきらう日本特殊論、日本の歴史意識の「古層」という論議に通じてしまうのであるが。
 「しらす」という言葉を見てどうしても連想してしまうのが、例の「和をもって尊しとなす」である。伊沢元彦氏は「逆説の日本史 1」で、倭=輪=和という奇抜な説を披露している。そこに伊沢氏は日本の「話し合い至上主義」を見いだしている。
 西洋の諺に「地獄への道は善意の石で敷きつめられている」というのがあるがこれは日本人がもっともきらうもので、日本人が逆に好むのは「至誠、天に通ず」の類なのだという。「話しあいの成果」よりももっと大事な「不変の」「普遍の」原理があるとする考えは日本人にはないのであると。法治主義とか基本的人権というような考えにはどうしても日本人はなじめないのだが、それは造物主につくられたという意識がないからなのだという。外部の法的規範=法律よりも「ムラの論理」が優先する。ムラの論理すなわち「話し合い至上主義」である。ここでの伊沢氏の説は山本七平氏の論をそのまま紹介しているのだが、この「和」論もまた日本特殊論である。伊沢氏の「逆説の日本史」は一貫して日本特殊論を展開しているのだから当然なのであるが。
 《みながそれぞれの分をわきまえ、職域を守って黙々とやっていれば自ずとうまくいく》という論を読んで思い出すのが小室直樹氏の「危機の構造」にあった「盲目的予定調和説」というものである。それは「特定の行動」に他の一切のことは無視して全身全霊で打ち込むと、「その他の事情」は自動的にうまくいく、という信仰?である。これは連合赤軍事件の分析で示されるのであるが(20余名の行動で革命をおこせるという信念をなぜもてたのか)、これは戦前の軍事官僚の行動原理でもあったのだという。ここで小室氏が論じるのもまた日本の無責任体制である。小室氏は丸山眞男氏の弟子でもあるので当然の議論なのであるが、氏はいう、真珠湾の奇襲はまことに独創的な作戦であった。しかし、その作戦の成功をアメリカとの講和にどう結びつけるかという方向はだれ一人考えてもいなかった。戦術や戦略は研究するが、大局的な検討は誰もしていない。つまり太平洋戦争の遂行は日本赤軍の作戦と変わるものではなかったのだと。それこそが官僚の思考の典型なのである、と。官僚は分業のパーツとしては最高である。しかし全体のリーダーとなると最悪のリーダーとなるのだ、と。「機能集団としての共同体が人間の作為の産物であることが忘れられ、自然現象のごとく所与とみなされる」という指摘はまさに丸山氏の論と同じで、「日本の思想」の「である」と「する」である。
 小林秀雄が敗戦の後、悧巧なやつはたんと反省すればいいだろう。おれは馬鹿だから反省などしないというようなことをいったのは、戦争はほとんど自然現象であり、人間の理性(小林氏の用語では「賢しら」)で防げるようなものではないという認識である。
 皇道派の「身の丈にあった、無理のない、国民みながつましく幸せにくらせる一種の農本主義的な国家社会主義」というような話をきくと、最近の反=グローバリズムといった議論を想起してしまう。「貧しくとも美しく暮らしていければそれでいい」というのは、最近の橋本治氏の論などにもどこか通じるところがあるような気がする。
 高坂正顕の「世界史の四段階説」の第四段階の中心がないこと、責任者がいないことがかえって利点になるのだという考え、何となく河合隼雄氏の「中空国家日本」とかいう話を思いだしてしまった。そういえば河合氏も京都の人だったような。そしてまた木田元氏の(ハイデガー経由の?)ソクラテス以前の自然なギリシャプラトン以降の不自然なギリシャニーチェによるソクラテス以前への回帰という説もまた思いだした。その根底にあるのはどちらもヘーゲル的な何かなのではないだろうか? ヘーゲルというのはあちこちに害毒を流したひとだなあとつくづく思う。
 「日本は小兵の力士のようなもので奇手奇策でたまに横綱に勝つくらいのことはできるが、それ以上は荷が重い」というのも何だか身につまさせられる話である。日本は自信がなく謙虚である時がよく、自信をもって傲慢になると駄目になるというのは天谷直弘氏の論だったように思う。「坂の上の雲」と「坂の下の沼」。
 昭和前期の日本を覆った思考は何も日本につねに存在する固有のものではなく、その時期に特殊なものだったのだろうか? もし明治憲法さえ変えられれば、そういうことはおきなかったのだろうか? どうもわたくしは日本特殊論をすてきれないところがある。というか、本当は西洋特殊論なので、その特殊にいやおうなく巻き込まれてしまった普通の国である日本ということなのだと思っている。それで西洋の特殊ということはクラシック音楽によくあらわれていると思っている。おそらく片山氏が西洋のクラシック音楽を論じるときにもそのような視点がいつもあるに違いない。それで今度は片山氏でのクラシック音楽談義をみていく。
 

日本思想という病(SYNODOS READINGS)

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逆説の日本史1 古代黎明編(小学館文庫): 封印された[倭]の謎

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日本の思想 (岩波新書)

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ノブレス・オブリージ―天谷直弘主要論文集

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