森山優「日本はなぜ開戦に踏み切ったか」(1)

    新潮選書 2012年6月
 
 臨床の場で、ときに以下のような症例に遭遇することがある。ある人に病気が見つかった。すでに進行していて、このまま放置すれば1年の余命も厳しい。根治出来る可能性があるとすれば非常に副作用の強い治療を選ぶしかないが、その成功率は5%くらいである。それをしてうまくいかないとかえって命を縮めることになり、その場合の余命は1月か2月となる。どのような選択がベストなのだろうか? しかし、正しい答えというのがこの場合あるのだろうか? どうやってそれを決めたらいいのだろうか?
 本書を読んでいて連想したのがそういう場面である。太平洋戦争開戦前の日本のおかれていた状況は、もしも開戦しなければじり貧となるいうものであった。三流国に転落してしまう。そのころ一流国であったのかは議論があるところであるとしても、確実に地位が低下する。一方、開戦しても、ほとんど勝ち目はない。その場合、予想されるのは三流国に転落というようなこととは比較にならない悲惨な未来である。その両者をくらべたら、まだじり貧を選んだほうが増しというのは理性的な判断である(上の症例のように命がなくなる、国がなくなるというのではないのだから)。
 しかしその理性的判断は現在よりも悪化する状況を自ら選択する責任を負うことでもある。一方、開戦を選べば、“とりあえず”現状よりも悪い方向にいくことを自ら選択するという事態を“一時的には”回避することはできる。たしかに開戦により予想されるのは悲惨としかいいようのない未来である。われわれは結果を知っているので、米内光政のいったように「ジリ貧を避けんとしてドカ貧にならない様」という警告が正しかったことを知っている。しかし当時は100%そうなると決まったわけではないとされた。神佑天助ということもある。世界情勢が変わるかもしれない。未来は確定はしてないのだ。ひっとして勝てる、あるいは引き分けに持ちこめる(長期不敗体制の構築)、講和に持ちこめる(ドイツがイギリスに勝ってくれれば)ことだってないとはいえない。
 現在目の前にせまられているいやな選択をしたくないために、その選択をする責任を負いたくないために、時間を先延ばしにするために開戦をした、本書から見えてくのはそんな筋書きである。
 とにかくアメリカとの戦争をのぞんでいるものはあまりいないのである。できれば避けたいと多くのものが思っているのである。世間一般に流布している「狂信的な「軍部」の横暴」といった説明では、とても開戦にいたる過程は説明できないというのが著者の本書での基本的な主張である。そもそも「軍部」とは具体的には何を誰を指すのかさえ明かではないではないか? 何を指すかも不明な「軍部」などという言葉で、開戦の主体を説明することは、学問的な態度とはいえない、そう著者はいっている。
 なぜそうなってしまったか。明治憲法の規定に問題があるというのが森山氏の論の根幹である。明治憲法下ではすべての組織が天皇に直結していた。各大臣も総理大臣の下にいるのではなく、天皇に直属している。現在の憲法では自分に従わない大臣を総理大臣は罷免できるが、明治憲法下ではそれができなかった。そもそも明治憲法には首相の選び方の規定がない。実際には憲法に規定されていない特定の個人、すなわち明治維新の主体となり後に元勲とか元老といわれたひとたちが決めたのである。
 この問題は片山杜秀氏の「未完のファシズム」でも「しらす」と「うしはく」という言葉を使って説明されていた。ともに国をおさめることを指す古い大和言葉で、「うしはく」は強権政治を指すのだが、日本では政治をすることをいうときに「うしはく」が用いられることは非常に少なく、大部分の場合は「しらす」が用いられる。
 「上に立つ者の心はただひたすら鏡そのものでなければならない。」 自らの意見を通すのではなく(いちばんいいのは自分の意見はもたず)、下の意見をよく映して最上の妥協点を見つけていく、それが日本の政治なのであり、いちばん角のたたない落としどころを探っていく、それが政治である。
 明治憲法の規定上は天皇が最高権威者であるが、それに期待されている役割は「しらす」ことであり、天皇もまたその期待される役割通りに行動したのだから、日本では「軍部」の独走などというファシズムは生まれようもなかったというのが片山氏の論であった。「しらす」では実際には何も決められないことが多い。それを補完するものとして明治には元勲という存在があった。しかし元勲がいなくなってしまうと誰も決めることができなくなってしまった。誰も決めない誰も責任をとらないとろうとしない体制、それが開戦前の日本なのであり、そうであればファシズムなど生まれようがないではないか、そう片山氏は論じていた。
 わたくしがこのような問題をはじめて考えたのは橋本治氏の本を読んでであった、たとえば、「さらに、ああでもなくこうでもなく」(2001年)の「総理大臣の決め方」、「ああでもなくこうでもなく、「日本が変わっていく」の論」(2002年)の「日本の政治、日本の組織」、あるいは「権力の日本人」(2006年)の「権力構造の錯綜」といったものによってである。さらには一見関係ない問題を論じているように見える「上司は思いつきでものを言う」(2004年)だって、実はこれにかかわっているのだろうと思う。
 「上司は思いつきでものを言う」の一番の読みどころは、副葬品としての埴輪を作っていて時流の変化で左前になってしまった会社での会社再建の議論というシュールな設定の場面である。若手が副葬品としてではなく、美術装飾品としての埴輪に転換するべきという至極まっとうな提案をする。それについていろいろの議論のなかで突然、誰かが空き地にコンビニを作ろうということを言い出すと幹部がそれに同調してあっというまに議論がそこに収斂していく。美術装飾品としての埴輪への転換という路線はそれまでの副葬品としての埴輪路線からの転換である。ということは副葬品路線をとってきた今までの幹部への批判ということを当然にふくんでしまう。しかしコンビニ路線であれば幹部は誰も傷つかない。開戦前、アメリカとの最大の抗争点は日本の中国からの撤兵についてであった、それまで莫大な人員と費用をつぎ込んできたにもかかわらず、日本は中国で目に見える成果をあげていたわけではなかった。しかし、それで撤兵してしまうならば、今までに出た犠牲者は犬死にであり、つぎ込んだ費用は無駄金になってしまう。そしてそのことについて誰かが責任をとらねければいけなくなる。開戦ということになれば、今まで中国ででた犠牲者やそこで使われたお金などというものと比較にならないくらい大きな犠牲がでることが非常に可能性が高い未来として予想されているにもかかわらず、開戦すればとにかく現在までの事態に責任をとらなくてよくなる。いやなことに直面しなくてすむ。現在の決定を先延ばしにできる。として別のとんでもない決定をしてしまうわけである。しかしその決定の正否がわかるのは2〜3年先なのである。時間が稼げる。
 橋本氏の論のユニークなところは(同じようなことをいっているひとはほかにもいるのだろうと思うが、不勉強でわたくしは知らない)、森山氏も片山氏もともに指摘する明治の元勲制度の異常というものを、日本の伝統的な政治あるいは統治の形態のなかに位置づける点である。森山氏も片山氏も、まず明治憲法をみる。しかし、そこにはどう見ても欠けているものがある。その欠けているものを補うものとして元勲制度の存在が指摘される。しかし橋本氏によれば、最初に存在するのが元勲なのである。明治憲法も議会も元勲たちのために存在するのであって、元勲は明治憲法の不備を補完するものとしてあるのではない。元勲たちは徳川幕府における老中である。江戸幕府において徳川将軍は老中がいただくシンボルであった。明治の元勲たちにとって明治天皇が自分たちがいただくシンボルであったのと同じに。そしてこれは藤原氏以来の日本の伝統的な政治形態なのである。元勲たちは藤原氏の摂政政治と同じことをしたのである。「天皇を主権者ということにして、我々が“これを補佐する”という形で政治を行えば、政府は我々のものになる。」 元勲たちは、自分たちの権力基盤を侵されないように明治憲法をつくった。元勲たちは藤原氏のように天皇に后を贈ったりはしない。かわりに自分たちが決めた総理大臣を差し出すのである。「明治維新政府を作った人間達は、「国民の政治参加=議会開設」をOKする代わりに「自分たちの既得権」を保証する制度を作ってしまった。」 橋本氏によれば、軍部もまた元勲のひとり山県有朋がつくったものなのである。山県の庇護のもとでの特権になれた軍部は山県の死後暴走をはじめる。すべての元凶は元勲たちである。しかしそれでは敗戦後の日本は変わったであろうか? 小渕首相急死後の森喜朗首相の選出過程をみれば同じことが続いていることがわかる(橋本氏のこれらの論は2000年〜2002年に書かれている)。
 伊藤博文が日本の最初の総理大臣であるが、それがどうやって決まったのかは誰にもわからない。決まったのは明治18年で、明治憲法の公布は明治22年、実際に総選挙がおこなわれ第一回の帝国議会が招集されたのが明治23年である。「憲法もなく議会もなく、・・誰がどうして総理大臣を選び出せるのか? つまり、日本で最初の総理大臣は、政治を牛耳っている“実力者達”の間で、「君がやれ」「俺がやるのか?」的な議論の結果誕生してしまった・・」 元勲たちが作った明治憲法下では、議会とは無関係に存在する内閣や総理大臣があって、議会は総理大臣を選べない。だから与党が政権担当者を出すのではなく、政権担当者が与党を作るということになる。
 元勲は9人であったが、なにしろ明治維新の功労者なのであるから、それ以外のものはなれないし、今後増えることもない。しかし、恐るべきことに、彼らは自分たちが死んだ後に誰が総理大臣を選ぶかはまったく考えていなかった。元勲は1940年に西園寺公望の死によって途絶える。死ぬ前に西園寺は「重臣会議」というものを開いたが、それが制度化されたわけではない。しかし、なんとなく重臣会議が天皇に総理大臣を推薦するということになった。
 さて、森山氏によれば、このような権力不在状態を克服するものとして構想されたのが大政翼賛会なのである。しかし右翼の一部はそれは天皇と国民のあいだに割り込む幕府となると反対した。統制経済の推進は日本の共産化に通じるとして大政翼賛会はアカであるという攻撃も執拗に続けられた。そのなかでまがりなりにも機能したのが1940年末から開催された大本営政府連絡懇談会であったと森山氏はいう。日本の対外政策は実質的にはここで決定されていったという。出席者は首相・陸海軍相、外務大臣、陸海軍統帥部の代表であった。そこで「国策」が決定された。これらは閣議以上の拘束力を持つとされたが、法制上の根拠を持つものではなかった。そこでは10件以上の国策がさだめられている。
 主としてその「国策」の決定の過程とその内容を見ていこうというのが本書の内容となっている。森山氏によれば、「国策」の内容は、矛盾したものであったり、何とでも解釈できるものであったり、実際の行動については具体性を欠いていたりで、奇怪きわまりない文章のオンパレードである。それならば「国策」作成者が無能であったのだろうか? しかし当時の軍は人材調達において国民にもっとも門戸を開いた組織であった。優秀な人材が集まっていた。決して無能であったわけではない。案文は多く陸海軍(とくに特に陸軍参謀本部)から出されたが、それを起草したのは中堅層と呼ばれる幕僚クラスだった。森山氏によれば、「かたや一所にじっとしていることができず盛んに情勢を動かそうと策動する陸軍の中堅層と、それに手を焼きながらも制御しつつ利用する陸軍省の首脳。これに対して、穏健に物事を運ぼうとする事なかれ主義の海軍首脳と、その下で切歯扼腕しながら組織的利害の拡充を模索する海軍中堅層、このような陸海軍の危ういバランスの上に成立したのが「国策」だったのである」ということになる。
 このように内部の利害が対立していたため、「国策」は内容が玉虫色となり、「両論併記」「非決定(あるいは避決定)」「同時に複数の文書を採用することで「国策」を相対化し、機能を相殺する」といったことがしばしばおこなわれた。政策担当者の対立が露呈しないレベルの内容でとりあえず「決定したことにする」ことになった。国策が白紙還元されることもあった。このような意思決定システムは「船頭多くして船山に登る」であって、独裁政治の対極にあるものであった。そのような体制のなかでなぜ日米開戦になったのか? 「効果的な戦争回避策を決定することができなかったため、最もましな選択肢を選んだところ、それが日米開戦だった」というのが森山氏のとりあえずの結論である。
 
 橋本治氏の論で道草してしまったため、とりあえず「第一章 日本の政策決定システム」で終わってしまった。森山氏の論も片山氏と同じく、日本はファシズムどころか、誰も強力にひっぱる存在がいないなか、うまく開戦回避を決めることができなかったために、こころならずも日米開戦にいたってしまったというものである。
 本書を読んでいると、なぜ米国と戦争をすることになったのかがほとんど理解できない。ここに書かれているのは日本側の経過だけで、アメリカ側の政策決定過程は一部しか紹介されていない。本当はその両方を見ないで判断してはいけないのだろうと思うが。
 

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