渡辺京二「近代の呪い」(4)第3話「フランス革命再考」

 
 渡辺氏がフランス革命のことを再考するようになったきっかけは、氏が「黒船前夜」で大佛次郎賞を受賞したことで、受賞記念講演で大佛氏のことを話すことになり、そのために、大佛氏の「ドレフィス事件」「ブゥランジュ将軍の悲劇」「パリ燃ゆ」などを読み返すことになり、大佛氏が反軍国主義、反国粋主義世界市民主義の立場でフランス第三共和制を讃美する立場から出発しながら、戦時中は、大東亜戦争の熱烈な支持者、特攻隊の賛美者となり、そのため戦後には最早第三共和制は擁護すべきものとは思えなくなり、第三共和制がパリ・コミューンの男女2万5千の血の海の上にできあがったものであることを詳細に語る「パリ燃ゆ」を書くにいたったというその分裂を述べ、それらの歴史を調べているうちに第三共和制の出発点であるフランス革命について気になってきて、勉強しなおしたことが語られる。そこでだされる設問「フランス革命はほんとうに近代の発端だったのか?」。
 わたくしなどが学校で習ったフランス革命は、封建社会を徹底的に変革し近代市民社会を実現した典型的なブルジョア革命とみるものであり、そこで国民主権が確立され、市民ひとりひとりの人権と平等が確認されたとするものであった。この見方は19世紀末から20世紀の初頭にフランス史学界で成立し、ロシア革命の経験により強化され、神話化されたものなのであるが、1970年ごろから台頭した修正主義といわれる学派によって批判されることになったのだという。いまでは史学界でもこちらが主流になっているのだそうである。もちろん東欧やソ連社会主義圏の崩壊がそれに大きく影響しているのだろうと渡辺氏はいう。だが学界はそうであっても、一般にはまだ古典的なフランス革命像は生きていると渡辺氏はしている。
 フランス革命は旧体制を倒したとされているわけである。それなら旧体制とはどんなものだったか? 王政とは貴族の抵抗を打ち破ってできあがってくるものである。フランス王権が貴族を押さえ込めるようになったのはルイ13世のころからである。ルイ14世の時代に絶対的専制君主としての地位が固まる。
 絶対王政とはいっても王権は専制的な権力を行使したわけではない。王権のしたに多種多様な中間団体が存在した。貴族団体、教会、自治的な都市、村落共同体、職人ギルド・・・。これらは王権から特権を認められていた。
 この特権がすなわち自由であった。専制君主である王もこの特権を侵害はできなかった。しかし、王権は国際情勢に対応するためには中央集権化を必要とした。ルイ15世のときにイギリスに覇権を奪われたことが貴族やブルジョアのトラウマとなった。フランスはアメリカ独立戦争を支持して莫大な金を費やした。その対策のために中央集権化は必須であった。中間団体の解体や無力化が必要であった。しかし、その試みは貴族の反抗によって潰えた。パリ高等法院が貴族の抵抗の砦となった。
 さて貴族について。貴族には武家貴族(帯剣貴族)と新興の法服貴族の二種があった。フランスでは様々な国政のポストを金で買える制度があり、そのポストを何代か維持すれば貴族になれた。これを法服貴族といった。法服貴族となったブルジョアは帯剣貴族と通婚して上級貴族へと上昇していった。大貴族の一部は産業ブルジョアジーとなっていった。そうであるとすれば貴族とブルジョアの対立といったもの生じることはない。しかも帯剣貴族の多くは貧しく農民とそう変わらない生活水準であった。
 国王政権は財政赤字解決のために税制改革、つまり身分と関係ない課税を提案した。これはこれまで課税されていなかった聖職者と貴族の特権を否定するものであった。貴族の反抗がはじまった。第三身分である平民もこの反抗に加わった。なぜ身分をとわずに課税するという提案に平民が反対したのか? あとから考えれば国王政府の提案のほうが近代的な政策であり、それに反対し特権に固執した貴族や聖職者は反動の側である。もし貴族や聖職者が国王政府の改革に協力していれば、王政も立憲化され、革命などおきるはずはなかったのである。
 だが、すべての身分が新たな課税は国民の合意すなわち全国三部会の合意を必要とすると主張した。それで150年以上開かれていなかった三部会が1789年に召集されることになった。なぜ平民が王権と協力しなかったのか? 説1:パリにごろごろしていて三文文士によってかかれたマリ・アントワネットに対する中傷パンフレットに影響された? 説2:平民にもまた特権があたえらえていた(職人ギルドや村落共同体など)。それを守るため?
 貴族にしても平民にしても、特権をまもるということは利己主義によるものだったのだろうか? 王権に対して自由を守るというプライドを守る側面が強かったのではないか? そして三部会の中で対立が生じる。つねに三部会のなかで少数派となっていた第三身分が自分たちの立場を主張しはじめたのである。そして聖職者がそれに合流した。なぜなら聖職者のほとんどは貧しく、平民となんらかわることのない生活水準であったからである。
 しかし、この時点でも王政を廃して共和制にしようなどと考えているものは誰一人いなかった。国民議会は立法はするが、法の実行は王の政府の仕事と思っていた。とすれば立憲王制がめざすものであったことになる。そして国民議会は貴族の特権をふくむさまざまな社団の特権を次々と廃止していく。つまり王政の目指したものがここで実現されたのである。中間団体が廃止され、国民ひとりひとりが市民として直接国家権力と向き合うことになった。これが法の前の平等の意味するところである。
 そこから革命はひたすら過激化していく。その原因は? 一つは民衆の突き上げ。暴動が一種のカーニバルになった。そこに煽動者がいた。法曹家として一旗あげることを夢見てパリにでてきて挫折した不平不満に満ちた三文ジャーナリストたちである。しかし民衆自身にも不満はあった。街区という小宇宙での相互扶助の親密な世界に生きていた民衆はそれを食い物にする大貴族やブルジョア、特に悪徳な商人の懲罰を求めていた。それをするべきは本来王政であるべきなのに、王政がそれをしてくれていないという不満である。とすれば民衆はきわめて反近代の方向で動いていたことになる。
 革命の遂行者にはいろいろなものがいたが、法曹家やジャーナリストや文士、役者などが多かった。ブルジョワジーだけがいなかった。とすればマルクス主義史学がいうブルジョア革命という神話は嘘であることになる。
 フランス革命の遂行者たちは階級的利害を代表したのではない。彼らを動かしたのは「理性による人類改造の理念」であった。修正派はフランス革命の本質は(近代社会を生んだことではなく)新しい政治文化を生んだことであるとする。「過去は迷信と虚偽と悪徳の支配する暗黒であり、革命はその過去を一掃し、理性の光によって人間が光被される新しい社会を創造する」とする信念がそれである。
 「一切の利己心を否定してすべてを公共善の実現のために献身するのが市民の徳性」ということになった。国家に対してなんらやましいところのないので国家からみて「透明」である市民。これはルソーに由来する。
 これは個々人の利害、つまり利己心を肯定することから出発する近代市民社会にまったく逆行する思想である。ロビエスピエールの市民的徳性の観念はわれわれに「すばらしい新世界」とか「一九八四年」などを想起させる。ポルポト政権のしたことの先駆がフランス革命なのである。そのどこにも個人の自由とか人権などはない。ヴァンデ地方のジェノサイドがそれを象徴する。
 ではフランス革命の近代的側面は? それは近代国民国家を創設したこと。さまざまな言語を話すひとがいたフランスをフランス語で統一し、国民を創出したことである。
 フランス革命は新しい人間をつくることができるという知識人の思い上がりを示している。しかし民衆もまたすべてが新しく生まれ変わる弥勒の世を待望しているのではないだろうか? そのような夢がないとすれば、この世をほんの少しでもよくしていくささやかな現実的な行動さえも生まれてこないのではないだろうか?
 渡辺氏は問いかける。「利己心を克服した正義の人々のコミューンを求めるこの心情はいったい左翼なのでしょうか、右翼なのでしょうか。少なくともこれが近代の一面を忌避する心情であることは確かです。私はこの心情が幼いものだということに同意しますが、おとなの現実主義の奥底にこの幼い叫び声が、たとえかすかであっても鳴り続けていなければ、この世は闇だという気がしてなりません。」
 
 フランス革命をどう見るかについてわたくしが中学高校でならった話は現在では学界ではほとんど否定されてきているらしい。第三身分(サンキュロット)が第一第二身分の圧制に反旗を翻したなどという話は嘘の皮らしいのである。ひどい話であって、だから歴史の教育というのはあてにならない。
ドラクロアの「民衆を導く自由の女神」はフランス革命を描いたものではないらしいが、以前に多くのひとがフランス革命にもっていたイメージとはあのようなものなのではないだろうか?
「虐げられた民衆が圧制に抗して立ち上がり暴力的手段で権力を奪取する」というのはとても人々を鼓舞するイメージであるらしい。マルクス主義に基づくロシア革命によるソヴィエト国家の成立はこのイメージの現実化であると多くのひとびと(なかでも知識人)に思われた。フランス革命への新しい見方というのがソヴィエト崩壊と前後してでてきているのも、それと関係しているはずである。
 「利己心を克服した正義の人々のコミューン」と渡辺氏はいう。近代化というのは世俗化でもあり、経済化でもあり、利己心の肯定でもある。だから「利己心を克服した正義の人々のコミューン」を希求する心というのは当然、反近代の方向となる。近代化とは結局は利己心、つまり人間の醜い側面が鉄面皮にも肯定されてくる過程なのであり、人間の崇高とか偉大をあざ笑うような時代になるということと思うひとも多いのである。
 さらにコミューンである。人間がひとりひとりが個人としてばらばらに存在しているのではなく、ある目的にむかってみんなで力を合わせていくこと。わたくしがまだ大学生のころであるけれども、同級生が北朝鮮朝鮮民主主義人民共和国)の千里馬運動でのマスゲームを見てえらく感動していた。人々が共通の目的にむかって協力していくことはとても美しく見えるらしい。今から思えば、そういうマスゲームに背を向ける自由などというのは彼の地にはなかったのであり、自発的な参加ではなく、強制された喜びの表現であったのかもしれないのだが。
 さらにまた正義の人々である。この世で何が正しいのかを知っている人たちである。そういうものを想定するのは知識人の病なのかもしれない。歴史においてある正しい方向が存在し、それがどのようなものであるかは努力して学べば知ることができるとするひとである。こう信じるひとが数々の歴史上の惨禍をもたらしてきた。ロベスピエールなどはその代表の一人である。彼は間違いなく正義の人であったし、私心のない質素な生活で政治に挺身したひとであった。(もっとも、ここで渡辺氏が正義の人々といっているのは単に「利己心を克服した人々」というだけの意味なのかもしれないのだが・・。)
 ある時期にファシズムが多くの知識人にあたえた魅力は、ファシズムがまさに反近代の思想であったからなのだと思う。ファシズムは歴史上の事実としては敗北した。またそのおこなっていたことをみればどう強弁しても弁護のしようもないことがほとんどであった。こういう事実をみて、ファシズムは思想としては正しかったが、たまたまヒトラーという人間が問題であったというような形でファシズムを擁護する議論はあまり聞かない。しかしソヴィエトについてはそういう議論が多くきかれたものである。スターリンという人間には問題があるがソヴィエト共産主義のめざす方向は間違っていないというような。
 こういう議論が可能であったのは、ナチスドイツとは違ってソヴィエトという国家が物理的には継続して存続していたことが大きいのだと思う。ソヴィエトという国家が自壊してしまうと、反近代の思想としてのマルクス主義という方向は維持することが困難となった。
 今日、反近代の思想が現実の存在する国家と結びついているのはイスラム国家においてのみであろう。イスラム圏から見れば現代の西欧国家群は滅ぼされるべきソドムであり、退廃の極致であり、地上から消滅すべきものと見えるであろう。9・11はその実践であったはずである。
 その行動は個人の生命をなによりも優先する近代の原理からは理解できないものである。しかし、命が何よりも大事という思想は唾棄すべきものであり、個人の生命をこえるもっと大きな何かに結びつかない限り個々の生命は輝かないという思想もまた根強くある。たとえば三島由紀夫の死を思い起こせばいい。あの行動からわかることは三島というひとは(少なくともあの当時の三島は)近代という時代について反吐のでるような嫌悪感をしか持てなくなっていたということである。そこには何ら偉大なものはなく、凡庸がすべてを支配している。英雄は英雄であることによって揶揄され、色を好むといった側面ばかりが話題にされる。しょせん、英雄といわれるひともわれわれの同輩である欲深き人間の一人でしかないではないかといった見方しかされない。
 近代がかりに飢えという人類につねにつきまとっていた問題を解決したのだとしても、それと引き替えに、何の理想も持たず、ただ腹が満ち足りることだけで満足する人間だけを多量に生み出しただけなのであるとすれば、近代化することにどのような意味があるというのか? それは単に人間が一個の動物になってしまったということに過ぎないのではないか? 人間とは本当はもっと美しいものなのではないか? もっと偉大なものではないかのか?
 そしてナチスが現実に政治権力を持っていた時代には、そこには何か偉大と通じるようなもの、人間を凡庸ではなくするもの、人間に生きる意味をあたえるものものがあるように見えていたかもしれないのである。アーリア民族には歴史的使命があたえらていると信じることができれば、自分もまたその一員として世界の歴史の運動のなかに参加していると感じられるひともたくさんいたはずである。今から70〜80年前には、一部のひとにとっては、ファシズム国家群が近代の退廃の克服のための希望の光と見えていたはずなのである。
 ナチスが連合国に敗れ、たまたまソ連もまた連合国の一員であったから、結果としてソ連は西側という近代国家群と連帯したことになったが、戦後すぐに東西冷戦となり、ソ連は西側と対峙することになった。西側から見れば、まずナチスドイツという全体主義と戦い、ついでソ連という別の全体主義と戦うことになったのかもしれないが、ソ連を支持したひとたちから見れば、全体主義にもいい全体主義を悪い全体主義があり、アーリア民族の使命というような何の根拠もない妄想に立脚したドイツは悪い全体主義であったのだが、プロレタリアートという科学的社会主義によって歴史の未来を担うことの必然がすでに証明されている存在が権力を握ることはいい全体主義であるということになったのかもしれない。あるいはそれを全体主義と呼ぶのは西側陣営の陰謀であって、それはプロレタリアート個々の利害を単に集約した存在であるということになったのかもしれない。
 さて、それならば渡辺氏の立ち位置はどこにあるのか? 少なくとも近代の全肯定でも、全否定でもないことは確かである。近代化だけがもたらすことのできた飢えの克服というかけがえのない成果をきわめて高く評価する。本来、資本制の社会においてはプロレタリアは鉄鎖のほかに失うものは何もないはずであったのだが、実際には飢えのない世界をまがりなりにも実現できたのは資本制あるいは市場経済の体制だけであったようなのである。かつて共産党員であり、現在もまだ左翼であるという渡辺氏にとって、そうであるならば、飢えの克服はきわめて重要ではあっても第一義的に重要なものであるとはいえないことになる。
 おそらく氏にとってもっとも大事であるのはコミューンというものなのではないかと思う。共産主義はコミューン=イズムである。共産の産よりも共なのである。氏がしばしば中間団体と呼ぶもの、それこそがひとの生を生きる甲斐あるものとするであるとするのである。「逝きし世の面影」で氏が描いた江戸時代はコミューンがまだ生きていた時代なのであり、明治以降の近代化はそれを破壊してしまった。中間団体は破壊されて、ひとは直接に国家と対立するようになった、それは国家の生き残りのためにおこなった止むをえない選択ではあったのだが、コミューンの喪失という非常に大きな痛手を副作用としてともなうことになった。
 フランス革命はまず何をおいても国民国家創造への動きであったのであり、それにより人々は直接国家の管理下におかれることになった。ここで紹介されるヴァンデ反乱の鎮圧(後のポルポト政権のしたことを想起させるようなジェノサイド)は中間団体の国家への抵抗への鎮圧なのであった。ヴァンデ反乱のことについては不勉強にも長谷川三千子氏の「民主主義とは何なのか」ではじめて知ったのだが、長谷川氏はこのようなジェノサイドをおこすものこそが民主主義なのだとしている。長谷川氏の民主主義嫌いは徹底していて、民主主義とは「われとわれが戦う」病んだ制度であるとしているし、人権などというものも大嫌いなようである。長谷川氏は「人間の不和と傲慢の心とを煽りたて、人間の理性に目隠しをかけて、ただその欲望と憎しみを原動力とするシステムが民主主義なのである」という。
 氏が民主主義に対置するのが文化、伝統、歴史でありそれを保持するものとしての国家なのである。長谷川氏のこのような主張は保守主義に典型的なものであり、個人主義というものへの嫌悪がはっきりと表明されている。わたくしは長谷川氏がいうことが端的に嘘だと思ってしまうのだが(文化とか伝統とか歴史とかは言葉に過ぎないと思ってしまう)、フランス革命当時においてさえフランスと一応みなされていた地域内においてフランス語を話すひとは1/4くらいしかいなかったというのであるから、文化とか伝統というのは実体のない言葉であるとしか思えない。「最後の授業」などはまったくの嘘話であるらしい。
 渡辺氏は文化とか伝統とか歴史とかとはいわずに、中間団体という。国家という目にみえない、手触りのない、実感としてはとらえようもないものではなく、具体的で実感を持て連帯が可能である仲間たちとともに作り上げていく世界、それこそが人の生を生たらしめるものであると信じる。
 しかし、近代は国民国家の方向にむかうのであり、それはそういう中間団体を破壊していくことでしか樹立できないものであるのだから、近代は不幸な呪われた時代ということになる。
 近代化、国民国家化は必然のものである、それは了承する。しかし、その中でなんとか中間団体のようなものを維持していけないか、それが渡辺氏の夢なのであろう。
 近代は合理主義の時代である。しかし合理主義からは抜け落ちるものがある。最近岩波現代文庫で復刊された「歴史・祝祭・神話」で山口昌男氏は次のようなことをいっている。
「人は、理性の言葉(世界を細分化する言葉)と合理主義的世界観というモデルを駆使して、外的世界を説明することができると信じている。しかし人間が生きているのは、究極的には内的世界なのであり、この内的世界を通して人は世界を理解する。理性という公認の言葉だけで打ち立てられた世界像は、人間の内的宇宙に深い統一感を与えることはできない。なぜならそれは、内的世界の中で、因果律に合致するものだけを残して、因果律に合致しないものを切り捨てた人為的な説明体であるからである。この場合恒常的なもののみ残されて、恒常的でないもの、つまり絶えず別の相貌を示すものは捨てられる。後者は不快なもの、恒常的でないもの、幻影として捨てられる。」 渡辺氏もまた理性の言葉だけは到底納得できないデーモンを内にかかえるひとなのである。山口氏はまたいう。 
 「政治的世界がもっとも喚起しやすいのは、世界を脅かしている隠れた世界からの諸力がこの世界に侵入し、この世界を攪乱し、秩序を崩壊させ、死がこの世界を支配するが、そこに神の子たる聖痕を帯びた英雄が立ち現れ、この魔性の者を斃し、世界に統一と光明を回復するという説明体系である。なんだ、それなら毎日、テレビで放映されている怪獣ものではないかと人はいう。その通りである。」 ゾロアスター教は不滅なのかもしれない。
 政治の魔力というのはこういうもので、フランス革命が神話化したのもそれによるのだし、マルクス主義というのがあれほど多くのひとをとらえて離さなかったのもそのためである。ファシズムの持った魔力も同様である。渡辺氏の分裂(そして氏が言及する大佛次郎の分裂)というのは、このような精神の昂揚が結果としてほとんどの場合には惨禍と悲惨をもたらすものであることを熟知していながら、それでもこのような昂揚を持てない精神をどうしても好きにはなれない点にある。
 「いかなる国制でも、それを考案し、そのさまざまな権力の制御抑制装置をつくり上げる場合、人間はすべて悪党であり、そのすべての行動において私利以外の目的をまったくもたないと推定されるべきである。この私利によってわれわれは、人間を支配しなければならず、それを通じて、その飽くことを知らない貪欲と野心にもかかわらず、彼を公益に協力させなかればならない。・・人間は、一般的に公人としての資格におけるよりも、私人としての資格においてより正直である」とするヒュームの見解を正しいとは認めながらも、どうしてもそれだけとは思いたくないのである。ヒュームはスコットランド啓蒙のひとであり、フランス啓蒙派に影響をあたえ、フランス革命啓蒙思想の産物であるとされるのだが・・。そしてヒュームは哲学の歴史上、もっとも高潔で私心のないひととして知られる、ルソーなどとは正反対の人であるのだが・・。
 私人にはたとえ利己的であっても名誉心というようなものでブレーキがかかる。しかし政治の中にワンノヴゼムの一員として参加してしまうと名誉心などというものは機能しなくなり、平気で私利私欲を公憤と思い込んでしまう。そして実際には私利私欲から行動している人々の集団の上に、私心をもたない理想主義者がいるような場合に、最悪な結果がしばしばもたらされる。
 集団が国家というような顔のみえない大きな規模になってしまうと問題がおきる。中間団体のようにもっと規模の小さい互いに顔の見える集団であれば、そういうことはおきないと渡辺氏はしているのかもしれない。しかし、共同体はつねに内と外を峻別する。内での倫理と外での倫理は異なったものとなる。
 「知の逆転」で、J・ダイアモンドは「「人生の意味」というものを問うことに、私自身は全く何の意味も見いだせません。人生というものは、星や岩や炭素原子と同じように、ただそこに存在するというだけのことであって、意味というものを持ち会わせていない」といっている。渡辺氏はこの強さ(とわたくしは思う)を持たない。それで「女子学生、渡辺京二に会いに行く」では「人間原理」のようなことをいい、「利己心を克服した正義の人々のコミューンを求めるこの心情はいったい左翼なのでしょうか、右翼なのでしょうか。少なくともこれが近代の一面を忌避する心情であることは確かです。私はこの心情が幼いものだということに同意しますが、おとなの現実主義の奥底にこの幼い叫び声が、たとえかすかであっても鳴り続けていなければ、この世は闇だという気がしてなりません」という。渡辺氏は人間がただの動物であることには耐えられないのである。
 J・ダイアモンドと渡辺氏の違いは何なのだろうか? ダイアモンドは科学の側のひとである。一方、渡辺氏は自分が文科の側の人間であることを自認している。少しでも科学を学べば、人間が一個の動物であることは明らかなのだが・・。
 フランス革命は「理性教」をつくった。理性が宗教になると最悪の結果を生む。理性狂となる。ロシア革命は理性狂の産物である。ファシズムは理性などというものには一向重きを置かなかったはずで、それゆえに反近代思想のもう一つの砦となることができた。
 渡辺氏は近代の即物主義を超え、国民国家のもたらす害毒を中和できる何らかの形態がどこかにあることを信じたいとする夢をどうしても捨てることのできないひとである。だからこそ「利己心を克服した正義の人々のコミューンを求めるこの心情」への共感を隠すことができない。「おとなの現実主義の奥底にこの幼い叫び声が、たとえかすかであっても鳴り続けていなければ、この世は闇だという気がしてなりません」という。
 しかし、この世は闇であるのかしれないのである。非常に多くのひとはこの世は闇であっても一向に構わないと思っているが、一部の人(特に知識人)がそういうひとにむかって、お前の生き方は間違っている。人間とはもっと崇高なものなのだと言いだし、旗を振り、ハーメルンの笛吹き男になって、ひとびとをさらに深い闇、さらに大きな悲惨へと導いていく。
 「われわれ知識人は何千年来となく身の毛のよだつような害悪をなしてきた・・。理念、説教、理論の名のもとでの大虐殺 ― これがわれわれの仕事、われわれの発明、つまり知識人の発明でした。人々が相互に迫害しあう ― しばしば最良の意図をもってなされているわけですが ― ことがやむならば、それだけでも確かに多くのことが獲得されるでしょう」というポパーの言明にわたくしは賛同する。「わたくしは、自分が何も知らないということ、そしてそのことをほとんど知っていないということを知っている」という「ソクラテス的洞察」こそが寛容をもたらすのであり、それこそが啓蒙の基礎なのであるとポパーはしている。ヴォルテールが「寛容は、われわれとは過ちを犯す人間であり、誤りを犯すことは人間的であるし、われわれのすべては終始あやまりを犯しているという洞察から必然的に導かれてくる。としたら、われわれは相互に誤りを許しあおうではないか。これが自然法の基礎である」といったことをポパーは紹介している。
 「過ちは繰返しませぬから」などというのは寛容の言葉ではなく、そういいながら相変わらず過ちを繰りかえして、相互に批判しあうことを続けるための言葉なのである。
 

フランス革命 (ヨーロッパ史入門)

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