I・ブルマ&A・マルガリート「反西洋思想」

   新潮新書 2006年6月
   
 偶然、本屋で見つけた本。たいへん面白かったが、去年6月の発刊である。とくに評判になっているようでもないが、わたくしにだけ面白いのだろうか?
 原題は「OCCIDENTALISM:the West in the eyes of its enemies 」である。Orient の対としての Occident であり、サイードの「オリエンタリズム」という見方を意識した題名のようである。
 本書を読んですぐに思い出したのが、池内恵氏の「書物の運命」(文藝春秋 2006年4月)に収められたB・ルイス『イスラム世界はなぜ没落したか?』への書評とそれに付された『「中東問題」は「日本問題で」ある』という長文の補足説明である id:jmiyaza:20060806。そして、もう一つ思い出したのがE・トッドの「帝国以後」(藤原書店 2003年4月)id:jmiyaza:20030525である。前者はイスラムの現状への日本人知識人の視点の歪みについて論じたものであり、後者はもっと長期的な展望からのイスラムへの視点を含む本である。
 そういう連想を生むのだから、本書は、直接には、現代イスラム世界における反米思想、を中心に、さまざまな反西洋思想をあつかった本であるが、視野はとても広い。なにしろ、日本人向けに書かれた本ではないにもかかわらず(すでに10ヶ国語以上に翻訳されているらしい)、書き出しが(日本では有名な、しかし世界的にはほとんど知られいないであろう)1942年におこなわれた「近代の超克」と名づけられた座談会である。
 この座談会について、わたくしは名前を知っているだけで内容はよく知らないのだが、河上徹太郎の提唱で、小林秀雄河上徹太郎中村光夫林房雄亀井勝一郎三好達治西谷啓治鈴木成高、菊池正士、下村寅太郎、吉満義彦、諸井三郎、津村秀夫ら十三人が参加した会(参加者の数名については、わたくしにはどういう人なのかを知らない)であり、対米戦争当時の日本知識人の対米、対西欧への姿勢を如実に示したものとしてよく知られている。
 わたくしが私淑している吉田健一のお師匠さんである河上氏が主導した会であるので、わたくしとしても他人事ではないところがある。というか、吉田健一が「ヨウロツパの世紀末」で示した、18世紀ヨーロッパの優雅対19世紀ヨーロッパの俗悪という図式における19世紀ヨーロッパというのが、この座談会で論じられる『超克されるべき「近代」』と通じるところがあり、本書で「反西洋思想」という言葉で論じられる「西洋」の像とも重なるところがあるのではないかということを、読んでいてつねに感じていた。もちろん、18世紀ヨーロッパの優雅などというのは、反西洋思想の側からいえば西洋の頽廃そのものということになるのであろうが。
 とにかく、この「近代の超克」座談会の雰囲気は反「西洋」、反「近代」なのである。「西洋化とは日本精神に取り憑いた病気のようなもの」であり、「近代的なものとは、ヨーロッパのもの」であり、「知識の専門分化が東洋の精神文化に危機をもたらし」ているので、「科学」「資本主義」「先進技術の日本への浸透」「個人的自由という概念」「民主主義」などはすべて「超克」されるべきものである、などということが延々と議論された。西洋文明は「有毒な物質文明」であり、軽薄で根をもたないのに対して、伝統的な日本文明は精神的かつ深遠であり創造的であるとされた。アメリカへの宣戦から半年くらいで行われたこの座談会で、この戦争は「日本の血」と「西洋の知」の戦いであるとされたのである。
 このような見方が、現在のイスラム急進派の思想に通じるものがあることはすぐにみてとれる。以上のような《「敵」によって描かれる非人間的な西洋像》のことを、著者たちは「オクシデンタリズム」と呼んでいる。非人間的というところが大事で、非人間的であるということから、すぐに人間以下となり、そういう奴らは滅びてしまえばいいとなるのである。
 本書の主張の眼目は、「オクシデンタリズム」もまた西洋起源なのだということである。たとえば、「近代の超克」座談会の出席者の一人である西谷啓治(哲学者)は、宗教改革ルネサンス、自然科学の台頭の三つをヨーロッパ精神文化の崩壊の理由としている。政教分離がヨーロッパの頽廃の原因となったというのである。西洋の中にいても宗教の側にいる人間にとっては、ヨーロッパが頽廃の道を転落しているように見えるのは当然である。
 この座談会で、西洋全体ではなくアメリカを「魂のない機械化された社会」として嫌悪するものもあった(これは、ハイデガーなどの反=アメリカ主義とも通じる)。
 要するに、西洋には《物質》はあるが《魂》がない。とすると《魂》のない西洋人は、上に述べたように人間以下であるという見方がすぐにでてくる。しかし、こういった見方の根は深いものであり、決して近代に始まったものではなく、起源ははるか昔にさかのぼりうるものなのである。
 退廃的な「都市」、科学と理性を過信する「思考」、自らの保身に走り英雄的な自己犠牲を示すことはない「ブルジョア」、純粋な信仰をもたない「不信心者たち」などはみな《西洋》の悪として批判されるのであるが、これらはみな西欧世界が形成される以前からすでに地球上に存在していたものであることはいうまでもない。
 たとえば、古くから知られているバベルの塔の話である。9・11のツイン・タワー・ビルの破壊は、バベルの塔の破壊を容易に連想させる、と著者たちはいう。「人間が作った罪深き都市」という概念はきわめて古くから人のこころをとられえてきた。火を盗み、智慧の木の実を食べ、金を蓄え、天に届く塔を建てたりすることは、己をわきまえない厚かましい人間の神への大胆な挑戦であるので、いつかは神の逆鱗に触れるのではないかという恐れを、多くの人が抱いてきた。人間が自分の力を過信して神に挑戦し、神なしでも自分たちだけでやっていけると思う傲慢に神罰がくだるというという物語は、ほとんどすべての宗教でみられる。
 大都会は売春婦にしばしば擬えられてきた。それは売春婦が《商売によってなりたつ都市社会》の比喩でもあり象徴でもあるからである。都市が罪深いのは、信仰を忘れ快楽に走る人たちがそこに集っているからである。
 本書には、T・S・エリオットの「『岩』の合唱」からの引用がある。(田村隆一訳で引用されているが、以下は上田保訳(「エリオット全集 1 詩」中央公論社 1971年)による。)

主といっしょに建てるのでなければ、私たちが建ててもむだです。
主がみなさんの手をかりずに守っている都市を、みなさんは守ることができますか。
交通整理をするたくさんのおまわりさんも
みなさんがどうして生まれ、どこへゆくかを教えることはできません、
ひとむれのテンジクネズミや活発なモルモットの方が
主なしでつくる人間たちより、りっぱなものをつくります。
私たちは永久の廃墟のなかを、足をもちあげながら歩くのですか。

 やはり、原文を示そう。

We build in vain unless the LORD build with you.
Can you keep the City that the LORD keeps not with you?
A thousand policemen directing the traffic
cannot tell you why you come or where you go.
A colony of cavies or a horde of active marmots
Buiid better than that without the LORD.
Shall we lift up our feet among perpetual ruins?

 信仰を持たない人間はネズミやモルモット以下なのである。この詩劇は、英国国教会ロンドン主教区の教会建設募金募集のために書かれたものなのだそうで、護教的であるのは当然なのではあるが、それにしてもである。ここにもバベルの塔の物語が潜んでいると思う。神への信仰なしに建てられた建物は、廃墟なのである。
 ここに引用されているので思い出して、久しぶりに、このエリオットの詩を読み返してみたが、そこで示されている心情は、まさしく、オサマ・ビン・ラディンがニューヨークに抱く呪詛ととても近しいのではないか、あるいはほとんど同じものなのではないか、ということを感じた。西洋の腐敗の攻撃に、そのままこのエリオットの詩は使えるのである。

Where is the Life we have lost in living ?
Where is the wisdom we have lost in knowledge ?
Where is the knowledge we have lost in information ?
The cycles of Heaven in twenty centuries
Bring us farther from God and nearer to the Dust.(Faber社 )

 しかし、都市は西洋だけのものではない。世界中に存在するものである。かつては北京や江戸のほうが西欧の都市よりも、はるかに大都市だった。それでも都市嫌悪が西欧嫌悪に結びつくのは、最初のオクシデンタリストたちがヨーロッパ人であったからである、そのように著者らはいう。西欧への嫌悪もまた西欧から起きたのである、と。たとえば、ワーグナーは徹底的にパリを嫌った。
 一方、西洋擁護の啓蒙思想の雄であるヴォルテールはイギリスに自由を見た。彼は商業こそが人間の自由を担保するものと考えた。金銭は信条や人種の違いを超える。市場では規則、契約、法律が人を結びつける。それは神が作ったものではなく、人間が作ったものである。そこでは氏や育ちは関係ない。それが自由を保障するのである。
 ヴォルテールは同時に、商業がイギリスを潤し、イギリスの海軍力の礎となっていることをも認めていた。商業は「自由」と「帝国主義」の両者と関係する。都市は光と影を持つのである。もちろん、自由が西洋の光であるなどというのは、西洋人の愚かな自惚れであると、反西洋思想の側の人たちは言うのであるが。
 言うまでもなく、ロンドンに自由をみたひとばかりがいたわけではない。そこに利己心と貪欲を見、金のために走り回っている、蓄財の悪魔に魂を売った、精神性のかけらもない人をみた人も多いのである。つまり、そこには「詩」がないのである。自分勝手に利益を追求する孤立した人々がいるだけであり、連帯とか団結などは、まったく欠如している。このエリオットの詩がいっているのもそういうこであろう。
 だが、都会は変人を許容する。個人の奇癖に寛容である。だから多くのものが「自由」をもとめて都市に殺到したが、都会には村にはあった生活の安定、親戚や教会のつくりあげる共同体などがないことを知って大きな喪失感を感じるものも多く、都会で敗残者となって、強烈な怨恨を抱くようになるものも少なくなかった。
 本書にはエリオットの「ゲロンチョン」からの引用もあるが、これは今読めばまさにユダヤ人蔑視の詩である(「わたしの家は、ぼろ屋です、/おまけに主じは窓の敷居に蹲るユダヤ人、/アントワープの酒場あたりで放下され、ブリュッセルで水疱吹き、/ロンドンくんだりで膏薬貼り、かさぶたむいたユダヤ人。」(深瀬基寛訳)) そして、ここに見られるように都市への嫌悪もまた露わである。この詩の主人公は言う。

I have lost my passion: why should I need to keep it
Since what is kept must be adulterated ?
I have lost my sight, smell, hearing, taste and touch:
How should I use them for your closer contact ?

 本当にエリオットの詩には I have lost が多いなあと思う。
 エリオットと同じく(などといったら怒られるが)、ナチス・ドイツもまた反=都会、反=西洋(フランス的な軽佻浮薄な西洋)であったのであり、「近代の超克」座談会に出席した知識人たちもまた、ドイツから輸入した反=都会、反=西欧の思想に大いに影響されていた。またかれらはアメリカ嫌いでもあったが、それはアメリカが大衆化した社会であり、知識人の地位が低いからだった。反=都会、反=西洋を唱えたひとたちは田舎の農民ではなく、都会の知識人であったのである。都会に住みながら都会を嫌う人、そういう人たちが反西洋思想の持主になった。
 都市の機能である商業はヨーロッパの発明ではないが、近代資本主義は西洋起源である。資本主義は普遍性を持つのであり、固有の伝統、文化、信仰を破壊していく。西洋対反西洋は、普遍的なものと地域的なものの対立という側面をもつ。
 一方、故郷から追放され、故郷をもたないユダヤ人にとっては、合理主義にもとづく法律は、自分を護ってくれるもっとも頼りになる道具であった。フランス革命が掲げた「普遍性」や「理性至上主義」は、ユダヤ人にとっては歓迎すべきものとなったたが、それ故に、これらのフランス革命思想の背後にユダヤ人がいるという「ユダヤ陰謀説」は根強く残っている。《普遍》と《理性》のちょうど対極にあるものが、《民族の共同体》とその《有機性》の主張であった。
 トロツキーは、資本主義の歴史を「田舎」に対する「都市」の勝利の歴史といっている。都会を嫌い自然を愛するドイツロマン主義者は、ドイツという国を詩人、職人、農民の住む「田舎」であるとした。国家は有機的な共同体であり、その共同体に組み込まれたものは、古代の英知や暖かい人間の美徳をもつとした。だから、その反対の都市の文化は冷たく非人間的なのである。自由とは非人間性と無機的な物質主義と同義ということになった。
 だが、実際には、ヨーロッパの政治思想は世界に広がっていき、資本主義と民主主義は非西洋社会を大きく変えていった。西洋の直接支配を逃れるためには「西洋そのものから思想を借りる」ことが必要となった。そこで借りてこられたものが二つあった。一方は「ゴリゴリの普遍主義」であり、他方は「極端なナショナリズムや宗教原理主義」であった。後者の典型が毛沢東中国である。
 そもそも非西洋世界において、マルクス主義は、西洋的な資本主義的帝国主義以外のやりかたで西洋の普遍性をとりいれるやり方を、非西欧の国々に提供したのである。そうしながらも西洋に汚染されないためにはどうしたらいいのか? そこで毛沢東は「田舎に対する都市の勝利」を「都市に対する田舎の勝利」へと逆転させようとしたのである。ブルジョア的西洋を嫌悪していた人たちが毛沢東路線に熱狂したのはけだし当然であった。毛主席のもとで、暖かい人間の絆が蘇り、人生には深い意味が与えられ、相互の信頼が回復するとされたのである。
 毛沢東の言ったことは、現在のイスラム過激派の言っていることに通じている。その毛路線の戯画がポル・ポトによるクメール・ルージュである。ポル・ポトはフランスに留学しており、そこで反西洋、反植民地、反帝国主義の思想を学んでいる。彼らにとってプノンペンは「邪悪で堕落した」西洋文化そのものであった。タリバンがカブールでしたこともまた同様である。彼らは都市自体を破壊しようとしたのではない。「都市」という思想を破壊しようとしたのである。
 タリバンの兵士はこんなことをいっていたのだそうである。「アメリカ人はペプシコーラを愛しているが、我々は死を愛しているから、われわれはアメリカを打ちまかせるのだ」と。西洋は軟弱で、病的で、快楽中毒の頽廃的文明であるから弱いという見方は、真珠湾を攻撃した爆撃兵もまたもっていたであろうし、「すぐれた日本精神の発露」によって軟弱なアメリカに勝てるという考えが、カミカゼ特攻を発明させたのである。
 ゾンバルトは「商人と英雄」という本を書いている。そこで、「店主と商人の国」イギリスや共和主義のフランスと違って、自分たちドイツは高い理想のために自らを犠牲にすることをいとわない「英雄たちの国」であるとした。一見すると、フランス革命の精神と商人意識は相反するもので共通点はないようにみえる。しかし、「自由・平等・友愛」は商人的理想、個人優位の思想であり、商人は物質的、肉体的快適さという側面しか人生には求めないのであるが、そういう快適主義は受身のものであり、また生命にしがみつくものであり、高い理想のために死ぬことから逃走するものであると、ゾンバルトは主張した。商人たちは高い理想をもたず、人生の悲劇的な要素を理解できない人たちであり、要するに英雄的でない人たちなのである。そこには貴族社会の偉大さなどかけらもない。
 ここでもまた、エリオットを思い出す。「ゲロンチョン」の主人公は、「われひとたびも激しき戦いの城門に立ちしことなく/はた降りしきる雨を浴び/塩沢に膝ひたし、だんびら刀振りかぶり/ぶとに噛まれて戦いしことさらにない」のである。「寺院の殺人」とか「カクテル・パーティー」(「エリオット全集 2 詩劇」中央公論社 1960年)には、殉教への希求、英雄的な死への憧憬が、充満している。エリオットのような伝統主義者、貴族主義者、大衆嫌悪者は、本書で描写される「反西洋思想」と通底していることは明白である。
 《民主主義は凡庸であることを肯定する》ものであるということへの嫌悪が、多くの知識人たちを、スターリン毛沢東、あるいはヒットラームッソリーニを支持させることとなった。エリオットの師匠のエズラ・パウンドムッソリーニ擁護に走ったはずである。民主主義には犠牲も英雄的行為もない。偉大さへの意思を欠いている。リベラルな社会では、「すべてのひとに凡庸になる自由」があたえられ、「際だった人生よりもありふれた日常」に重きがおかれることになるのである。それは人間のもつユートピア的理想追求という美しさを根絶やしにしてしまう。それへの対抗が、ドイツ・ナショナリズムなのであった。
 西洋が嫌われるのは、なによりもまず「西洋の物質」ではなく、「西洋の心」によってなのである。批判者から見れば、それはサヴァン症候群のようなものであり、数学的な能力だけはあるが人生というものについては白痴同然の子供なのである。西洋の心には魂がなく、効率はあっても、人間として本当に重要なことについてはまったく無能である。それは経済的成功は達成するかもしれないが、この世における高邁なものは何一つとして理解できず、自分のものとすることはできないのである。
 知性を重視しすぎると、直感や非推論的思考の力がなくなってしまう。19世紀知識人が構築した《神話》として「ロシア魂」あるいは「スラブ魂」とでもいうものがある。実はその根はドイツロマン主義なのであるが。その典型として、ドストエフスキーがいる。そこでは粗野な農夫は洗練された知識人より善良なのである。知性とか理性とかでは解決できないものがあり、それは素朴な心の知恵によってのみ理解されるのである。
 ロシア正教では、神学は発達せず、儀式・典礼・修道生活が重視された。宗教は精神的なものであって、知的なものではないと考えられたからである。西方の教会は教義を解釈し、東方の教会は慣例を継承した。ロシアにおいては、論理的思考より神秘主義のほうが高く評価されたの。トルストイはクトゥーゾフをロシア精神の象徴とし、ナポレオンを人工的で不自然なものの代表としたのである。
 ドイツロマン主義者のシェリングは、宇宙を一定のゴールをめざす有機体として描き、ニュートン的な機械的な時計仕掛けの宇宙観を否定した。
 合理主義は理性のみが世界の謎を解けるとし、科学だけが自然現象を理解するための鍵であるとするのであるから、そこでは宗教は単なる迷信ということになる。
 1951年のパリ万国博における水晶宮は「西洋」の象徴となった。
 マニ教的な善悪二元論偶像崇拝禁止のような一つの神への絶対的帰依と結びつくと、「サタンの米軍と彼らと同盟を結んだ悪魔の支持者との聖戦」というような見方がでてくる。
 初期キリスト教にあった物質を低く見、肉体を否定的に見る姿勢は、キリスト教イスラム教双方に影響をあたえた。人間の肉体は性欲に支配されており道徳的な堕落に傾きがちであるので、肉体は神にふさわしくないものであり、人間にとってさえ桎梏であり、自らの内にある神性と魂によってのみ、人間は物質的存在から引き上げられる、という見方である。他の創造物と違い、人間は魂をもっているために、高貴であり崇高であり、精神的に生きることができる、とする見方は、宗教的なオクシデンタリストの根底にあるものである。
 要するに、西洋は近代化、すなわち世俗化していかざるをえないのであるが、世俗化こそが人間の不幸の根源であるとすれば、西洋は絶対的に否定されなければならないことになる。現在の西洋には神がいないように見えるが、そうではなくて、実は「物質主義という神」がいる。西洋ではもう「宗教は終焉している」のではなく、「間違った神々への偶像崇拝」が今なおおこなわれている。西洋は、肉欲、貪欲、自己本位に染まった巨大な売春宿なのであるということになる。
 敬虔なイスラム教徒のほとんどは政治には関心がない、しかし、公衆道徳には関心がある。イスラム世界では、宗教は、伝統的で集団的なモラルの唯一の源泉なのである。そこでの最大の関心は女性の性道徳であり、またそれにかんする男性の名誉という問題である。だから女性という問題は、実はオクシデンタリズムの中心に位置することになる。
 女性の顔を覆うベールは、きわめて大きな問題なのである。このベールは肉体労働をしないというシンボルでもあるのだという。その根底には、男は女に対して狼であり、抛っておけばかならず男女の間にはセックスが生じるという見方がある。ベールだけが女性をまもり、女性に精神性を与える。肉体と精神は不断の緊張状態にあるという見方をとるならば、これは必然の論理的帰結である。とすると、人目にさらされて平気でいる西洋の女性はみな「売春婦」なのであることになる。西洋には性道徳が欠如しいて、西洋は堕落しており、西洋人は動物と化しているという見方が当然のようにでてくる。女性をまもることさえしない西洋の男性は、名誉の観念すら持たない人間、つまり人間以下の存在ということにもなる。西洋の《寛容》という道徳も、オクシデンタリストから見れば、《名誉》という人間に最も基本的な感情を欠いているからこその思想と映る。
 
 本書で、オクシデンタリズムという見方を知り、この補助線を引くといろいろなものが見えてくるなということを考えた。
 本書ではまったく触れられていないが、いわゆるポストモダンといわれる思想も明らかに《反西洋》である。また《ニュー・サイエンス》と呼ばれた運動も同様である。《サイエンス・ウォーズ》で告発された側もまたそうであろう。《社会生物学論争》においてのグールド陣営などもまた然りであるのかもしれない。全共闘運動もこの視点から見ると見えてくるものがあると思われる。おそらく、全共闘運動もまた反西洋思想という側面をももっていたのだと思われる。
 本書でもいわれていることだが、反西洋という思想もまた西洋から生まれるというのがポイントである。ポスト・モダンもニュー・サイエンスもサイエンス・ウォーズも社会生物学論も、結局は、西洋思想界でのできごとなのであり、ある意味ではコップの中の嵐なのである。
 わたくしは自分のことを文明開化派であり、啓蒙主義側の人間で、「洋学派」(林達夫@「新しき幕開き」)であると思っているので、反西洋思想陣営の標的となる側の人間であるなあと思うのではあるが、同時に本書での反西洋派の主張にも大いに同調できるところがあると感じたるも、また事実である。
 それにしてもT・S・エリオットはとんでもない反動なのだなあ、ということをあらためて感じた。かつてT・S・エリオットを結構真面目に読んだのは、福田恆存にいかれていたからであり、エリオットの詩劇などを福田氏が賞賛していたからである(そういえば、丸谷才一氏もまたエリオットの文学論・伝統論をもちあげていた)。
 中央公論者の「エリオット全集2 詩劇」の解説において、福田氏はさかんに「全体感覚」ということをいっている。全体感覚というのはオクシデンタリストにいわせれば、西洋には徹底的に欠落しているものなのである。西洋には全体はなく、部分しかないのである。
 Shall I part my hair behind ? Do I dare to eat a peach ?
 I shall wear white flannel trousers, and walk upon the beach.
  (The Love Song of J. Alfred Prufrock 部分)
 こういうプルフロックの臆病や逡巡を後のエリオットは否定したわけだが、一方、フォースターは、その初期のプルフロックの詩をはじめて読んだ時の感激を語り、後期のエリオットを否定的に見る(「T・S・エリオット」(「フォースター評論集」岩波文庫 1996年)。「エリオット氏は、怠け者、愚か者、雑駁な者など相手にしない」というのがフォースターの批判の要である。反西洋思想の側の人間にいわせると、西洋の人間はみな愚か者、雑駁な者ということになる(怠け者という点についてはどうだろう。どうでもいいことに勤勉であるということになるのだろうか?)。それに対して、啓蒙思想は、怠け者、愚か者、雑駁な者を擁護するのである。エリオットの書くものは「冷たい」とフォースターはいう。とすれば、啓蒙思想は「暖かい」といえるのだろうか?
 福田氏を読んでいた当時、わたくしは明らかに反西洋思想の側にいたのだと思う。西尾幹二氏が今のようになる前(というのも変ないい方だが)のまだ若いころの本に「悲劇人の姿勢」(新潮社 1971年)というのがある。そこでは西尾氏は悲劇人という言葉をはっきりとは定義していないが、小林秀雄福田恆存ニーチェといった人たちが悲劇人なのだそうである。そこでの「福田恆存」という文に、「(福田)氏はかつて竹内好氏との対談で、自分はカトリックだと語っていたことがあるが、私はむしろロレンスをへてニーチェにさかのぼる悲劇人の系譜に方に氏の本質がある」ということをいっている。この悲劇的という姿勢が問題なのだと思う。孤立への志向、孤高への希求というようなものに、わたくしは若い時には(若気に至りで?)共鳴し、今は(大人になったから?若さがなくなったから?)共鳴しない。というよりも、むしろ反撥をすら感じるようになっている。とはいってもドストエフスキーは、相変わらず、凄いと思うのだが。
 西尾氏のこの本の「小林秀雄」の中に「近代の超克」座談会での小林氏の発言が紹介されている。「近代の毒を一番よく知つた人が、一番よく毒に当つた人だ。それはニイチエの事を見ればよくわかる。僕はニイチエの事を考へると毒を克服する方法は、毒に当る外はない。毒を避けるといふ様な方法はない。どうもさう思はれる。外国でばかりではない、日本だつて実はさうなのではないか」というものである。典型的な小林節であるが、こういうのが悲劇的な姿勢なのである。若いときにはこういうのにしびれた。しかし、今は疎ましい。若いときは、西洋の中での反西洋派に肩入れし、段々と西洋における保守本流?である啓蒙派の方に移動してきたということなのだろうと思う。
 吉田健一の「ヨオロツパの世紀末」(新潮社 1970年)の「後記」に「ヨオロツパは或る意味で我々が最も知らない世界の部分で我々は先ず誤解することでこれに接し、誤解が習熟に取り違へられて既に久しいことに気付いた時にはそれまでヨオロツパを我々が誤解したり習熟した積りでゐたりしていた原因である世界でヨオロツパが表向き占めてゐた位置、そこでヨオロツパに割り振られて役が厳密にはヨオロツパではないアメリカとソ聯のものになつてゐた」とある。つまり反西洋思想派が西洋だと思っているものは、ヨーロッパにとっては少しも本質的なものではないのだ、ということである。現在のアメリカにわれわれが感じるようなものを、われわれはかつてはヨーロッパに感じていたのだが、それは本当のヨーロッパとは何のかかわりもないものなのであり、ヨーロッパの精華はヨーロッパ18世紀に花ひらいた何かなのである、というのである。科学と進歩のヨーロッパも、宗教的リゴリズムのヨーロッパも本当のヨーロッパではない、と。
 ところが、「十八世紀には女といふのが肉体的に労らなければならないものであるからそこに多分に情事の含みも残して女に優しくしたのに対して、十九世紀になるとそれに自由、平等、博愛の観念が加つて自分が女といふものを軽蔑してゐないことを誇示する為にも女に対して男が慇懃な態度を取る一方、女は道義心といふこれも公認されたものに繋る貞淑の観念に縛られてゐたからそれは男女の何れにとつても自由でも博愛でもなくて、その窮屈なことは今日の日本で知識人と呼ばれてゐる階級の生活を思はせる」というあたりが問題となる。はやり「女」が問題になるのである。少なくともイスラムでの反西洋思想での女性の扱いは、十九世紀ヨーロッパ、あるいはヴィクトリア朝風道徳にマチズモを掛け合わせたようなものであり、その見地からすると、十八世紀の優雅などというのは堕落そのものとされてしまうのだろうと思われる。
 西洋とイスラム圏の女性の扱いの差は、何に起因するのだろうか。「帝国以後」においてトッドは、「風俗慣習を研究するのに慣れた人類学者に言わせれば、アングロ・サクソン・システムとアラブ・システムとは、絶対的対比関係になるのだ」といっている。かたや核家族個人主義的、こなた父系の拡大家族であるのだから、紛争をおこすようにプログラム化されているようなものなのだという。同じイスラムであっても、インドネシアやマレーシア、アフリカ大陸のインド洋沿岸地域のイスラム化された諸民族はアングロ・策論・システムとは対立関係にはならないのだという。つまり、対立は宗教に起因するものではないということである。
 トッドは基本的に世界は否応なしに近代化していくという立場で、たとえば、アフガニスタンにおいても風俗慣習の変化は進行してという。しかし、それはきわめてゆっくりしか進まない過程であるにもかかわらず、それを性急に軍事攻撃をしかけることによって変えようなどと試みることは、かえって西欧の女権擁護と思想と軍事的獰猛さが一体化しているとの信念を相手方に与えることになり、結果としてはアフガンの戦士の超雄性化したエトスとでもいうようなものに、高貴という印象を付与することにしかならないのだという。
 事実として、現在、イスラム圏においても少子化は進行している。それは教育の普及により女性が自分自身で子供を産むかどうか決めることになってきたことによるのであり、それによる少子化は父系的な伝統をいやでも壊していくことになるのだという。トッドによれば近代化の進行は、識字率が向上にともなう必然なのであるが、出生率が低下して、大衆が政治に参加するようになり、伝統の破壊により心性的故郷離脱の真理が生じる結果、一時的には混乱が生じ、移行期の暴力が生じる、という。今イスラム圏でおきている反西洋の動きは、心性的故郷離脱の結果の移行期暴力の現象なのであり、いずれ(といっても数十年後)には落着くものなのである。「今日アラブ・イスラム圏は最後の足掻きのように西欧との差異を劇的に強調してみせる。特に女性の地位について強調するが、現実にはイランやアラブの女性は受胎調節によって解放されつつあるのだ」というのがトッドの見立てである。爆弾より受胎調節のほうが世界を変えるということなのである。
 「近代の超克」などということが言われたのも、心性的故郷離脱期のヒステリー現象だったのだろうか? そして女性が子供を産まなくなったことのほうが、どのようなイデオロギーよりも日本を変えていくのだろうか?
 
 わたくしが、本書のような反西洋思想といったものに関心があるのは、それが現代医療への批判とどこかでかかわっているようにと感じるからなのだと思う。
 医療への批判には、一方では、科学というものへの過信からくる批判がある。もう一方では、科学というようなものは人間の大事な部分にはかかわることはできないのだから、医療はもっと人間全般に目をむけろといった方からの批判がある。反西洋思想から言えば、科学を盲信するなどというのが愚かであることは明らかであろう。もう一方で、人間全般に目を向けられないのは西洋思想に内臓されたメカニズムからくる必然であり、そんな当然のことに気がつけないのもまた愚かであることになろう。
 明らかに西洋の思い上がりとでもいうべき現象は多々あるのだから、それに水をかけてくれる反西洋思想は、間違いなく有効性をもつのである。ポスト・モダン思想が、ある時期には大きな有効性をもったように。しかし、アンチはどこまでいってもアンチであると思う。西洋では東洋に対するアンチではない自前の思想がある。最初のほうに述べたように、反西洋思想さえ西洋起源なのである。エリオットもまた西欧の人である。そして反科学の思想もまた西洋からくる。
 医療という行為は、愚かな行為、雑駁な行為という側面を間違いなくもっているのであり、それを崇高な行為、英雄的な行為、気高い行為であるなどと思い込むととんでもないことになっていく要素を持つ、ということなのではないかと思う。科学というのはその程度のものということなのだが、それは右(人間中心主義者?)からも左(科学至上主義者?)からも攻撃される中途半端な立場なのである。

反西洋思想 (新潮新書)

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