渡辺京二「細部にやどる夢」(3)ユゴー・ゾラ・ディケンズ

 
 「世界文学再訪」にはシュティフターというきいたことのない人の「晩夏」、ホーソンの「緋文字」、ディケンズいろいろ、ユゴー「九十三年」、ゾラいろいろが論じられている。
 中学生くらいの時に、ゾラの「居酒屋」と「ナナ」は読んだと思うのだが、何も覚えていない。ディッケンズは「デヴィッド・コパーフィールド」が挫折、「大いなる遺産」が挫折で、読んだのが「クリスマス・キャロル」だけという情けない状態だったが、昨年「荒涼館」に挑戦した。しかし4分の1ほどで挫折したままになっている。ユゴーは何も読んでいない(ミュージカルの「レ・ミゼラブル」は観たが・・)。「緋文字」も読んでいない。
 このディッケンズやゾラを渡辺氏は面白い面白いと奨めるのだが、その氏にしてもこれらの多くを読んだのは70歳過ぎであるらしい。若いころは、そんなものは高級大衆文学にすぎぬと馬鹿にしていたのだそうである。内面の探求とニヒリズムを一度通っていない文学などちゃんちゃらおかしくて読めないぜ、ということであったらしい。氏の少年時の文学観念を形作ったのは、小林秀雄とジイドとシェストフという昭和十年代の流行だったという。ゾラは花袋や藤村には読まれたが昭和になって凋落したのは、東大仏文科のご本尊がマラルメ、ヴェレリーに変わったからであるともいう。小林秀雄の文壇制覇がゾラへの弔鐘となったのだ、と。
 小林秀雄が日本の文学にあたえた影響は本当に大きかったのだなあと思う。ひとことでいえば文学をおそろしく真面目なものとした。昨日、ロシア文学の真面目ということをみたが、その点であきらかに日本文学はロシア文学の系列である。ジイドは現在全然流行らない作家になってしまったが、中学生のころ「狭き門」とか「田園交響楽」とか「背徳者」とかは読んだ気がする。そのころは流行っていた。これまた真面目というか考えすぎの文学者なのではないかと思う。シェストフは「虚無よりの創造」を読んだ記憶がある。たしかチェホフ論で、ニヒリズムというのかペシミズムというのか、というようなものであった。こうしてみると、わたくしの読書もまた時代の流行にしっかりと影響されていたのだなあと思う。本棚にはだいぶ以前刊行の立派な小林秀雄全集(背表紙が革のやつ)が全巻ではないが鎮座している。
 こういうものが流行らなくなったこととソヴィエト東欧圏の凋落とがどのように関係するのかわからないが、案外、無関係とはいえないように気がする。日本においてマルクス主義は真面目系の代表選手であったのかもしれないから。
 共産圏がなくなって、高度消費社会が世界を席巻するなかで、近代の主題が労働と生産であったのに対して、現代は消費が主導的地位に立ったというようなことをポストモダンの言説がいっているが、そんなことは19世紀後半にゾラがとっくに描ききっていたと渡辺氏はいう。
 若いころ戦闘的なマルクス主義者であった(ひょっとすると現在でもマルクス主義者であり続けているかもしれない)渡辺氏はそのような高度消費社会を今から20年くらい前には非常に批判的にみていたようにみえるが、現在では、そのような状態が先取りされていた19世紀パリを描くゾラを、自分の若いことには見えなかった資本制の根っこにある動力をとっくに活写していた小説家として、あらためて見直しているのかもしれない。
 最近、鹿島茂氏などがゾラやバルザックを読め、面白いぞというようなあちこちでいっている。そのためか「ゾラ・セレクション」とか「バルザック「人間喜劇」セレクション」とかが出ている。今までの経験では、こういうものは目についた時に買ってしまわないと、あっという間に市場から消えてしまう。だから買っておこうかとも思うが、一方、そう思っていつか読むだろうと思って買ったまま結局読まないままとなってしまう本も多い。どうしたものだろうか? それに部数がでない本だから結構高いし。
 「荒涼館」もそうだったが、読んでいる途中は面白いと思っていても、何かの拍子で中断すると、その後続けられなくてそのままとなってしまう本も多い。長編小説というのはコンスタントに読み続けられる環境が読了のためには必要なようである。
 渡辺氏が70歳を過ぎてこれらの本の多くを読んだというのはうれしい話である。こちらは70歳くらいまでを目標に、これらの本をぼちぼち読んでいくという手もあるかもしれない。さすがに「レ・ミゼラブル」を読もうとは今のところ思わないが。
 

細部にやどる夢―私と西洋文学

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荒野に立つ虹―渡辺京二評論集成〈3〉

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