戸田山和久「哲学入門」(1)
ちくま新書2014年3月
前に「宇宙が始まる前には何があったのか?」の感想で、どうもこの本には理解できないところがあるといったことを書いたところ、この「哲学入門」を読んでみたらというご指摘をいただいた。
それで読んでみたのだが、正直、読むのが非常に苦痛だった。よほど途中で放り投げてしまおうかと思ったのだが、自分がなぜこの本に違和感を感じるのかということを考えてみるのは、自分にとっては意味があることのように思え、全部を読まずにそうするのはいけないと考え、無理して読んでいった。後半、デネットがでてくるあたりで、ようやくとりつく島がでてきたように思えてきたが、それはわたくしがデネットを少し読んでいたためで、それまでは著者が一体どういう方向にいこうとしているのかがさっぱり見えなかった。
印象としては、2〜3年前に読んだ青山拓央氏の「分析哲学講義」の読後感に近い。この本にもまったくなじめなかった。分析哲学というのは現在の欧米の哲学を席巻しているということなのだが、もしそうであるならわたくしは哲学とは縁なき衆生なのであるなあと思った。分析哲学というのは言葉に徹底的にこだわるのである。言葉にこだわるというのは、それだけで観念論の方向であるとわたくしには思えるが、本書は唯物論でいこう!という主張なのである。本書の第2章で分析哲学への批判というか疑念の提示がなされているけれども(「これってもろプラトニズムじゃん。その通り。哲学的概念分析なるものは、そのやり方を見る限り、現代によみがえったプラトン主義だと言ってもいいんじゃないかな。」(p123)、しかし、わたくしには本書もまたごりごりのプラトニズムのように思えるのである。
実は本書を読んで一番よくわかることは著者が自分が論じていることに心底ワクワクしているということなのだが、ところが読者は(少なくともわたくしは)なぜ著者がワクワクしているのかがさっぱりわからないのである。つまり著者がもっている問題意識がわれわれが生きていて直面するさまざまな問題とどのように関係するかがさっぱり見えてこない。
通常、こういう本は、今われわれはこのような問題に直面している。それにかんしては従来はこのように説明されてきたが、わたくしはそのようには考えない。というようなイントロダクションがあり、その後、著者の考えが開陳されるという方向に進むのだと思う。ところがいきなり「本書は、哲学の中核にみなさんをいきなり誘いこむことを目論んでいる」とはじまる。つまり、開巻早々に、哲学の存在が何の証明もなく宣言されてしまう。で、哲学の中核は「ありそでなさそでやっぱりあるものの本性について考える」ことにあるのだとされる。そして、著者が考える哲学の本道は「科学の成果を正面から受け止め、科学的世界像のただなかで人間とは何かを考える哲学」なのだという。
「ありそでなさそでやっぱりあるもの」というのは、「深く考えないとあるように思うが「科学」という見地からよく考えてみると、ないようにも思えるが、やはりそれでも、それなしで済ますことはできそうにないように思えてならないもの」のことをいうとされる。そして、その代表例として「意味」ということを挙げる。その他にも、情報、目的、機能、価値、道徳、意思の自由、美、人生の意味、などもみな「ありそでなさそでやっぱりあるもの」なのだという。ここで「科学」の見地から考えるとということでいわれているのが、「唯物論」あるいは「物理主義」のことなのである。
著者が「哲学」というものが存在することに毫も疑いを抱いていないように見えるのが不思議である。多くの読者はそこで躓いてしまうのではないだろうか? 「唯物論」からみれば、「哲学」は「ありそでなさそで」「やっぱりないもの」ではないかという疑念は想起されないようなのである。
「哲学」というものがある、というのはプラトニズムではないだろうか? イデア界に存在している「哲学」。氏は「哲学のメインの仕事は、われわれの実践に有用な概念をつくること、あるいは概念をより有用なものに改訂すること」という(p146)。
本書は「序」のあとに「意味」「機能」「情報」「表象」「目的」「自由」「道徳」「人生の意味」という各章が続くのであるが、これをみてわかるように、ここに挙げれているのはすべて「モノ」ではなく「概念」「言葉」である。しかも言葉の定義とか解釈といったことが延々と論じられる。
戸田山氏はそれらの言葉をモノとの連続性の中にマップしていくことを試みる。モノから「意味」とか「機能」とかが湧いてくるようにする。モノと不連続でどこか中空に浮かんでいる「意味」とか「機能」ではない「二元論」を超克した「モノ一元論」のマップの中に位置をもつ「意味」とか「機能」を探求しようとする。
しかし、これは議論が転倒しているように思える。「意味」とか「機能」とかがあることが前提となって、それが出現してくる歴史を探究していこうというのだから。「意味」とか「機能」が先にあるとするのは観念論なのではないだろうか? 「意味」とか「機能」などというものがあるわけではなくて、われわれが生きていくうえでたまたまそのような言葉を用いることが有用である場合が多いから、そのような語があるというだけであって、そのような実体があるわけではない、とわたくしは思う。調べたわけではないから違っているかもしれないが、「意味」とか「機能」という言葉は大和言葉にはないもので、明治以降に西洋の体系を受け入れるときに必要上つくられたものではないのだろうか? 「哲学」だって西周の造語だったように思う。言葉ができると実体ができるというのは観念論でプラトニズムに通じるように思う。
言葉の意味の穿鑿というのは「観念論」に傾くのだと思う。本書が「唯物論」に対立するとするのが「二元論」である。その二元論は「もの」と「こころ」の二つからなる。しかし、「唯物論」に対立するものは「観念論」でもあって、わたくしからみると本書は観念論そのものに思えてしまう。唯物論についての観念的な議論である。あるいは唯物論原理主義とか。唯物論というのはモノについて観念的に考えることという見解だってあるだろうと思う。
本書で著者が想定する二元論は、「もの」と「こころ」の二元論である。しかし、二つの区分は「もの」と「こころ」のあいだに引かれるべきではなく、「物質」と「生きもの」の間に引かれべきものなのだ、とわたくしは思う。もちろん「生きもの」は最終的には「物理化学的」に「物質のふるまい」として説明できるであろう。しかし、それができたからといって、「生きもの」が「物質」と同じになってしまうわけでない。
「生命の起源と問題の起源は一致する」とポパーがいっている。「物理学的過程と細部にわたって相関していない生物学的過程は存在しないが、物理学化学的過程は「問題」の発現を説明できず、問題も解決できない」ともいう。生物は「生き残る」という問題を背負わされる。一方、生命のない物質は「生き残る」という問題をもたない。変化してもあいかわらず物質である。それは「死なない」。
また、G・ベイトソンは、生ある世界(区切りが引かれ、差異が一つの原因となるうるような世界)とビリヤード球や銀河系のような生なき世界(力と衝撃こそが出来事の原因となる世界)をわける。ポパーもベイトソンも二元論ということになるのだと思うが、戸田山氏が批判する二元論とはかなりずれたもののように思う。
「意味」「機能」「情報」「表象」「目的」「自由」「道徳」「人生の意味」というのはすべて「生きもの」が生まれたからこそ発生したものである、とわたくしは思うが、しかし戸田山氏は生命のないところでも「情報」は存在するというような方向で、物質と生命のあいだに連続性を保証しようとする。
養老孟司氏は「身体巡礼」で「いくらデータがあったところで、受け取る人間がいなけりゃ、なんの意味もない」という。また「十九世紀の自然科学の中で、生物学が特殊だったのは、情報という概念がほとんど無かったのに、情報を扱わなければならなかったからある」ともいう。物理学や化学は「モノ」学である。しかし生物学は「イキモノ」学である。「モノ」学には「情報」は不要で、「イキモノ」学には必須である。だから「モノ」と「イキモノ」は違う。これはポパーの変奏であるのかもしれない。
一元論をつらぬくために、「モノ」だけの世界にも「情報」は萌芽的な形では存在するという方向に戸田山氏は議論を進める。しかし、「情報」というのはモノではなく「コト」であり「言葉」であるのだから、結局は解釈の問題となり、解釈というのは生命の存在しないところで発生する余地はないのだから、議論がわからなくなる。
「ありそでなさそでやっぱりあるもの」というのは「人生に大切な「存在もどき」」であると戸田山氏はいうのだが、これをあつかうときのダメなやりかたはわかっているとして、ダメなのは、世界を二つに分け、モノの世界と存在もどきをふくむ世界(生の世界、精神界、ココロの世界)に二分するやりかたで、モノの世界をあつかうのが科学、ココロの世界は哲学(ひろくいえば人文学)があつかうとするいきかたであるとする。「生の世界」が「モノの世界」に対するものの例として挙げられているが、文脈から推測すると、これは「生きもの」のことではないように思える(精神とかココロとかと並んでいるので)。
わたくしが本書になじめないのは、ポパーとかベイトソンに共感する人間だからなのかもしれない。しかし、ポパーやベイトソンが何を問題にしているのかは理解できる気がするのだが、戸田山氏が問題にしているものは本書を読んでも見えてこないのである。
そして、もう一つ気になるのが、どうも本書でいわれる生物の進化というのが、かなり進歩に近いニュアンスで使われているのではないかということである。人間は万物の霊長というようなことはいわれてはいないが、相当それに近いニュアンスの文を散見する。これまた唯物論からは出てこないものではないかと思う。
哲学をもつ生きものは人間だけだから、哲学を生物全体をあつかう生物学から導出するのは非常につらい。
「言葉とその意味についての問題を本気になってとりあげようなどと力んではならぬ。本気になってとりあげなかればならないのは、事実の問題であり、事実についてのさまざまな主張(もろもろの理論および仮説)、それらが解決する問題およびそれらが提起する問題である」というのはポパーの「反本質主義的訓戒」であるが、わたくしはその信徒なので、その目からみると、本書は「言葉とその意味」に徹底的にこだわった「本質主義的」なものに思える。なにしろ「哲学の本質」といった言葉が頻出する。
著者は第一章で「哲学の授業で、まず「ありそでなさそなものがホントにあるのか」を考えましょう。たとえば「意味」など」というやりかたは最悪で、生徒からは何の反応もなく、5分で学級崩壊といっているが、本書のやりかたはそのままそれであるように思える。学級崩壊ならぬ読書抛棄がおきてしまいそうに思う。
ビッグな問いも具体例から入るべきといって、「意味」を論じるために「意味を理解するロボットあるいはコンピュータを作るにはどうしたらよいか」ということから入る。しかしこれが具体例だろうか。こういうことを議論をはじめると、すぐにロボットやコンピュータが意味を理解しているといえるのはどのような場合であるかという泥沼に陥ることは必定で、だから「言葉とその意味についての問題を本気になってとりあげようなどと力んではならぬ」のである。
第一、「意味を理解するロボットあるいはコンピュータを作るにはどうしたらよいか」などということに興味を持つのは暇人の哲学者だけなのであって、われわれ凡人には、それが自分たちの生活とどのようにかかわるのかが少しも見えないのである。
ということで本書は、狭い哲学者グルーブの間での身内での議論、コップの中の嵐にしか、わたくしには見えない。「あとがき」で「自分の分野の前提に安住している学者」たちを批判しているけれども、ここで氏が提示する哲学の定義あるいは役割「さまざまな分野からえられた知見を組み合わせて統合された一枚の絵にすること」というのは疑わなくてもいいのだろうか? 氏はその前提に安住してはいないだろうか。氏は科学者の仕事も哲学者の思弁なしにはスタートしなかったといっているが、本当なのだろうか?
科学者はその当時に支配してる前提から出発し、その前提(たとえば、宇宙をみれば神の摂理がそこに見られるなず)から仕事をして、結果としてその前提を否定することを繰り返しているのではないだろうか?
わたくしは哲学の仕事というのは、すでに終わってしまったことについて、なぜそのようになったのかを説明することであって、未来の方向を指し示すようなものではまったくないと思う(ミネルヴァのフクロウ)。経済学だって、歴史学だって、過去を説明するためのものであって、未来を予見する能力はない。
わわわれのしていることはつねに試行錯誤であるが、その試行のためにはなにかとりあえずの根拠がなければならない。その根拠をあたえるものの一つが経済学であったり歴史学であったりするのだろうが、しかし未来というのは基本的はわからないというのが進化論の教える一番基本のところなのではないだろうか。
「種の起源」の教えるところは、われわれは偶然の産物なのであって、なんら必然の産物ではないということである。だから「さまざまな分野からえられた知見を組み合わせて統合された一枚の絵にすること」などはできるはずはないというのが進化論の導くところなのではないかと思うが、違うだろうか?
氏は自分の立場を唯物論的・発生的・自然主義的という。発生的というのは、生きものがいない時代には、物理学でおきることがすべて説明できる。ところがなぜか生きものと呼べるようなものが生じたので、そこに機能とか目的の原型のようなものがそこに生じてくるということである。その連続の最終産物として人間のもっている「意味」とか「機能」とかができてくるのだが、これは一切の飛躍のない連続的な過程なのであるということである。これがポパーのいう「生命が生まれることによって問題もうまれた」ということとどのようにかかわるかはわからないが、こういう見方は「石ころ」と「木々」のあいだに線をひく二元論に通じないだろうか? 自然主義的というのは「科学の一部として哲学をやる」ということとされている。ということは将来の科学の成果によって否定されることもあるということである、と。ここで戸田山氏が主張することは現在までの進化の歴史についての仮説に大きく依拠している。したがって将来の進化についての見方の変化によっては否定され可能性があるということである。この立場をとると、プラトンの哲学とか、カントの哲学とか、ヘーゲルの哲学とかは現在までの科学の成果によって否定されるというようなことがいえるのだろうか?
科学がそれを否定したことによって、カミナリさま、キツネ憑き、幽霊、呪い、疝気の虫などはみなこの世からなくなってしまった、と戸田山氏はいう。このなかにはまだまだ生きているものもあるとわたくしは思うが、カミナリさまや、キツネ憑きと同じように、プラトンのイデアなどいうのも消えてしまったといえるのだろうか? あるいは創造の神とかも? わたくしには、本書で論じられていることよりも、そちらのほうがよほど重要な問題であるように思うのだが。
本書にあるのは徹底的に理屈であり、頭の議論である。哲学というのはそういうものなのかもしれないが、しかし人間のしていること考えていることのほとんどは、合理的思考によるのではなく、いたって非合理なものであるということは、最近の行動経済学などでしばしば指摘されるところである。行動経済学もまた科学の一部なのではないだろうか? そうすると科学によって哲学自体が否定されるということがあるのだろうか?
あるいは、中枢神経系よりも末梢からの情報によってわれわれは左右されているとするダマシオのような論はどうなのだろうか? 本書では唯物論といってもほとんど脳だけが注目されていて、身体への言及がほとんどない。唯物論としては変なのではないだろうか?
なんでこうまでして「唯物論」にこだわからなければいけないのかがわからない。究極的には物質の物理化学的ふるまいなのであろうが、現在の物理学や化学はそれによって生命を説明するにはまったく未成熟なのであるのだから、現在の人文学のすべてを物理学と化学と生物学で説明しようなどというのは不可能なことである。もちろん、社会生物学、進化心理学といった知見に人文学の陣営の多くがまったく関心をよせていないのは困ったことである。しかし今のことろは二元論は科学一元論よりもずっと使いでがあって豊かなのではないかと思う。
しかし、このような抽象的な批判はいけないので、批判はもっと具体的なものでなければいけないと思う。
ということで、稿を変える。
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