石井均「病を引き受けられない人々のケア」
医学書院 2015年2月
著者は現奈良県立医科大学糖尿病学講座教授。本書のタイトルはかなり漠然としているが、病とは糖尿病のことであり、糖尿病の治療において、患者さんがしばしばドロップしてしまったり、治療に非協力的になることについて、広い意味での心理学的見地から検討している対談をおさめたものである。
著者は河合隼雄氏と「糖尿病医療学」の構築を構想していたということで、河合氏の急逝があったが、昨年10月「第一回糖尿病治療学研究会」を開催したとされている。
対談相手は、河合隼雄、養老孟司、北山修、、中井久夫、中村桂子、門脇孝、鷲田清一、西村周三、皆藤章というなかなかのメンバーで、狭義の臨床家は門脇氏一人、河合氏・北山氏・中井氏・皆藤氏は精神科あるいは心理療法の分野の人、養老さんは反=医療派?、中村氏が生命論を中心とする生物学者、鷲田氏が臨床志向の哲学者、西村氏が医療経済学者ということになる。皆藤さんというかた(臨床心理学者)は存じ上げなかったがそれ以外の方の名前は知っていたし、門脇氏以外の方の著作は読んだことがあった。糖尿病の専門家である門脇氏の本だけ読んだことがなくて、後の方の本は読んでいたというのは、いかに自分の専門について不勉強であるかということで、困ったものである。
河合氏との対談:
石井:大学を卒業して臨床の現場にでて一番驚いたのが、患者さんに病名を告げてもあまり真剣に取り合ってくれないひとが多いことだった。処方した薬を飲んでいないひとも多かった。
河合:いまの医学は近代科学の中だが、人間は完全には近代科学の対象とはならない。生きた人間には+αがある。病気ではなく人間を相手にしなくてはならない。
石井:心理テストをやると、治療を積極的に受けるひととそうでないひとの区別は明瞭につく。他罰的なひとは治療に非協力である。しかし、医者はそのテストの結果をみて、だから仕方がないとしてしまう。
河合:医者のいうことを聞くか、聞かないかは人体ではなく、心が決めている。
石井:アメリカに糖尿病の心理面を勉強にいったとき、精神分析と認知行動療法の二派がいることを知った。
河合:認知行動療法は下手をすると、ヒトをモノ的にあつかってしまう可能性がある。人間関係に注目することが必要である。両者は臨機応変に使いわければいい。大事なことは、医者が患者に「私はあなたのために役に立ちたい」と思っていること、医師が希望を失わないことである。患者から「自分は何が楽しみでこれから生きていくのか、治療をしていくのか」ときかれたら、医者はそれに答えられない。しかし「それでも自分はあなたと一緒にいく」ということを言え、伝えられればいい。医者は何かしたいと思いすぎる。何もできないけれど、あならの辛さは共感できるということが伝わればいい。
しかし多くの医者はそれはあなたの考えることであるとして逃げてしまう。そんなのは医者の仕事ではないと言い出す。それは見捨てていることなのである。「私はあなたとともにいます」と口にいっても駄目で、伝わらない。例えば、体に触ることが有効なことがある。聴診も検脈もみな「一緒にやっているよ」ということなのである。
石井:コミュニケーションを勉強すると、言語至上になりやすい。でもそればかりでは「ニセモノだな」という思いが沸いてくる。アメリカで help patients to find ・・ということを学んだ。
河合:しかし、それができるのは訓練をつんだ専門家だけである。つねにバットの素振りをしていないと、打席に入っても打てない。はじめのうちはスーパーバイザーの下につくことが必要。小説を読む、映画をみる、音楽を聴くことなどもまた重要。
石井:アメリカで「最終的に患者さんが自分の誇りを持つこと、自分に自身をとりもどすことを治療の目標にすること」を学んだ。
河合:学問が近代医学に限局していることが問題。医学のエライ先生がみんな教授になっているのが大問題。彼らは「医療学」についてはなにもしらない。「医療学」は「近代医学」的にはほとんど無価値だが、臨床的にはすごく大事。極論すれば「生きていてもしかたがない」かもしれない。それに近代医学はこらえられない。その近代医学をこえたところに、心理療法は非常な力になれるはずである。
養老氏との対談:
養老:自分は食べることにはまったく関心がない。食べられればいい。お腹が一杯になればいい。都市化してくると、感覚が鈍化してくる。本来、動物は食べ過ぎるはずはないのに食べ過ぎるひとがでてくる。味覚が鈍麻してファストフードを好むようになる。
人間は意識中心になっている。進化の過程で言語能力が低いひとは振り落とされていった。人間以外の動物は絶対音感をもっていることがほぼ明らかになってきている。人間も赤ん坊のときは絶対音感をもっている。しかし、それを持ち続けていれば、言語によるコミュニケーションが成立しなくなる。糖尿病は生物学的な基礎を持つと同時に、非常に文化的な側面も持つ。
そもそも本人が苦痛を感じない状態を病気といえるだろうか? 糖尿病は患者にとってヴァーチャルな病気である。もしも自分が糖尿病になったら、「ああ、めんどくせぇ。以上、終わり」であろう。
医者は寿命が延びることはいいというけど本当? 患者さんの必然性によっておきた病気を医学的必然性でえ押し切ることができるのだろうか? そこには主観性と客観性の乖離がある。河合先生は「無意識に落としていく」というが、自分は「身体」という。同じことである。
患者が「自分は死んでもいい」という人には穏やかな助言をあたえる。「死にたくない」という人には「こちらも最善を尽くすから協力してくれ」ということでいけばいい。
言葉は相手の脳にはたらく。ポルノを見て興奮するのは動物のなかでも人間(とサル?)だけである。これはミラーニューロンの機能そのものであろう。しかし、そういう仕方で相手の腑に落ちるような言葉の使い方ができないのが、専門職であり、インテリであり、お医者さんである。
北山氏との対談:
北山:人生はたとえ病気がなくても、基本的に非常に悲惨なものだと思う。最後は死ぬのだから。だから遊びや楽しみが必要。死ぬまでの時間をつぶさなければならない。死ぬとわかっているから、多くの人が、現在を充実させようとする。食というもの、口の喜びは人間の喜びの基本。だから食べ物の剥奪はすごい怒りと憎しみと不満を生む。
医師は非常にパターナルな存在だと思う。看護師たちは非常にマターナルなケアの提供者である。
治療室が楽屋になることが大事である。心が裸になるなる場所となることである。安心していられる場である。日本人は表裏があるのが当然と思っているから、これは難しく、医者ー患者の治療同盟の関係を構築しづらい。医師もあまり深入りせず、表玄関ですまそうとする。
医師は、何もできないときに「してあげられない」ことをきちんと示し、それへの文句や悲しみをぶつけられることを受け止められなければならない。文句をいわれることは医者の仕事であり、それが医者のはたさなければならない一番の仕事であると思わなければならない。医者は文句をいわれて役立つ仕事である。「役に立たない!」と怒られることが役に立っている。むかしは医者の権力と権威で、そこから逃げることができていた。しかし、今はそうはいかない。皆、嫌われることが下手。医療にはつねに限界があるので、そこから逃げてはいけない。
慢性疾患や突然人生の不幸を経験したひとはPTDSを患っていると覆うべきである。糖尿病にかかったというのは事故のようなものである。糖尿病患者は心の問題を抱えていると思わなくてはならない。
中井氏との対談:
中井:糖尿病にも精神科医が必要なはず。毎日100点の生活をすることなど誰にもできない。
糖尿病は治るか治らないかではなく、初期段階を長引かせることができるかという目標を立てることが必要。そうしないと医者もまいる。「もっと良い治療法ができる。いま、みんなで一所懸命に研究している。それまで悪いけど待って」という位のことは言ってほしい。「ほどほど悪くなっていくのは、まあいいんじゃないか」と精神科医の笠原嘉先生はいっていた。「現状維持が既にメリットである」とわたくしは若い医者にいっている。
飛行機を完璧に修理しようというのは医学の高望みであって、とにかく飛べるようにする、もう飛べなければ地上を走れるようにするとか、だましだましという発想も必要。
医師は希望を処方しなくていけない。「医師」そのものも処方しなくてはいけない。医療が「人体修理業」になったら困る。未来は不確定である。不確定には希望がある。その希望を支えるからこそ、医者は高給とりであることが許されていることを忘れてはいけない。
中村氏との対談:
中村:若いころ「動的生化学」という教科書やTCAサイクルといった生化学に魅せられた。次第に、それまでの科学は「時間」を考慮していなかった。生きているとは時間を紡ぐことではないかと考えるようになった。
石井:私たちは慢性疾患がもつ本当の意味がわかっていなかった。
西村氏との対談:
西村: ずっと今の経済学はおかしいぞと思ってきたが、ようやくそれが行動経済学という形で認知されるようになってきた。
人間は病気になったら、元気なときとは考えが変わる。
皆藤氏との対談:
皆藤: 大学で河合隼雄の授業をきいて「変なことをいうおっさんだと思った。臨床のもともとの意味は、死にゆく人の傍らに臨んで、その魂のお世話をすることです」という。いまどき魂などということを言うとはと驚いた。科学は魂を捨てるところから始まったのに。心理テストなどにはまったくなじめなかった。しかし箱庭療法をやって、「誰に見守ってもらうか」で大きく変わる心の表現があることを知った。事実を伝えるのでも「何を伝えるか」と同じくらい「いかに伝えるか」が大切。
臨床心理学の本をたくさん読んだが、臨床の場ではまったく役にたたなかった。「患者さんから学ぶ」ことの必要を知った。
心理療法はこれだけ進んでいるように見えても、普遍的・一般的にはできない段階にある。しかし、認知行動療法の陣営もともに「良好な関係」を築くことが大事であることは一致している。昔の言い方でのラポール。
この本は偶然書店でみつけたものだけれども、そもそもは、最近受けた健診で、「先生は今までは糖尿病予備軍でしたけど、今回のデータですと、予備軍ではなくもう糖尿病ですかね」といわれたのがきっかけである。やれやれと思って、最近の糖尿病はどのようになっているのかと、書店にいって、普段はみない(爆)医療関係の書棚をみていて見つけたという事情である。
父が糖尿病、母は問題ないが、母の姉は糖尿病、母方の祖父が糖尿病、弟も糖尿病という立派な家系であるから特に驚くこともないが、今までした病気は軽度の突発性難聴(左に軽度の耳鳴が残った)と胆石(手術で完治)といずれも一過性のものであったが、今回は慢性の病気であって、これからずっとつきあっていくことになりそうである。さすがに医者のはしくれであるから最低限しなくてはいけないことはわかっているつもりであるが、本書のテーマはそのしなくてはならないことを患者さんにしてもらうことがいかに大変なことであるかということである。あるいは、医者は理屈で説明するが患者さんは感情で反発するということであり、また医者は頭で攻めるが患者さんは心で防衛するというようなことでもある。さらには糖尿病という病気は科学の言葉で説明が可能であるが、科学は心と無縁であるというような話でもある。もっと普通の言い方では、病気と病人は違うというようなことであり、だから精神科医の出番ということになる。
河合氏との対談でもいわれているが、現在病院に通院しているひとは病人ではなく健康人である場合が多い。症状がなければ病気でないとすれば、かなりのひとが病人ではない。しかし、医者はこんなに異常があるのだから病気ということを当然の前提としている。そこから食い違いがはじまる。
そもそも医療というのは人間に特有なものである。獣医学だって人間が必要としているのであって、猫や犬が必要としているのではない。しかし病気の論理は人間以外の動物にも通用する。医者はあらゆる動物に通用する論理としての病をあつあっている(と思っている)。これが科学の部分である。しかし自分は人間に特有な事象については素人であると思っている。それなら人間に特有な事象は精神医学の領域なのだろうか?
わたくしが駆け出しの医者のころに結構流行っていた言葉に「全人医療」というのがあって、いやな言葉だなと思っていた。それを言っているひとは、ほとんどの医者は臓器という機械の故障を修理しているだけだが、俺は患者全体を見ていると何か偉そうなのである。歯が痛いときに全人医療などと言われたら「ふざけるな!」である。「とにかく痛みを取ってくれ!」 全人医療ほど偉そうではないが、「病気をみるのではなく、病人をみろ!」というのもあった。おそらく本書はその変奏である。
河合氏は、「私はあなたのために役に立ちたい」と思っていること、医師が希望を失わないこと、「それでも自分はあなたと一緒にいく」ということが大事であるという。
人間は必ず死ぬものであるから、あらゆる医療は最終的には敗北であるという見方がある。しかし最終的にある死というようなことを持ち出さなくても、医療にできることに限界があり、しばしば無力であることは確かなのだから、その時にとにかく、それでも逃げないということは大事で、それがそのまま「役に立つ」ということなのであろうと思う。おろおろしてであっても、傍から離れないこと。河合氏は体に触ることが大事という。精神科医の計見一雄氏の本「現代精神医学批判」の副題は「からだに触ってください」である。精神科医がそう言っている。
河合氏の論でわからないのが、氏のいう「医療学」などというもの本当にできるのだろうかということである。一般論などできるはずはないと思う。相手をみてみなければ、患者さんを見てみなければ何をしていいのかわからないのではないかと思う。法はひとをみて説かねばならない。これは芸なのだと思う。河合氏なら対応できる症例でも、多くの心理療法士が手も足もでないということは多いはずである。
養老氏が、都市化してくると、感覚が鈍化してくる。本来、動物は食べ過ぎるはずはないはずといっているのは、現代の定説に反すると思う。節約遺伝子というのであったか、われわれの遺伝子は狩猟採集時代に規定されていて、その時代にはいつ次の食事にありつけるかわからなかったから、目の前の食べ物は食べられるだけ食べるということが生き残り戦略上有利であった。現代のように、地球上の一部で食料が有り余っているというのは極めて例外的な事態なのである。山田風太郎がどこかで、太平洋戦争中に飢えで倒れていった多くの兵士に、今のスーパーマーケットを見せたら気が狂うだろうなといっていた。山本七平氏の「日本はなぜ敗れるのか」で描かれた戦地の状況などを読むと本当にそう思う。
人間以外の動物は絶対音感をもっているという話は面白かった。人間は絶対音感を失うことによって音楽を楽しめるようになったわけである。
養老氏は、そもそも本人が苦痛を感じない状態を病気といえるだろうか、という。氏はあなた糖尿病ですよといわれても、「ああ、めんどくせぇ」で終わりという。高血圧も高脂血症もまず症状はない。養老氏からいえばそれは病気ではない。だから氏はまったく健康診断を受けていないらしい。
健康診断こそが、まさに「本人が苦痛を感じない状態を病気」としている張本人なのである。医者は寿命が延びることはいいというけど本当?と養老氏はいうが、その前提を崩したら医療は崩壊するだろうと思う。もちろん崩壊してもかまわないわけだが、そうすると中井氏のいう「もっと良い治療法ができる。いま、みんなで一所懸命に研究している。それまで悪いけど待って」もなくなるわけである。
ポルノを見て興奮するのは動物のなかでも人間(とサル?)だけ、というのも面白かった。しかしこれはミラーニューロンのせいなのだろうか?
北山氏は、「最後は死ぬのだから。だから遊びや楽しみが必要。死ぬまでの時間をつぶさなければならない」という。昔、富岡多恵子氏だったと思うが、男が仕事仕事などと飛び回っているのは死から目をそらすためとうようにことをいっていたのを思い出した。
「食というもの、口の喜びは人間の喜びの基本。だから食べ物の剥奪はすごい怒りと憎しみと不満を生む」というのが糖尿病治療につきまとうすべての問題の根源だろうと思う。
「医師は非常にパターナルな存在、看護師たちは非常にマターナルなケアの提供者」というのも凄い。こんなことをいってフェミニズムの陣営に怒られないかしら? 看護というきわめて肉体的にも過酷な労働がなぜ圧倒的に女性の仕事であるとされてきたのかというのは医療におけるきわめて大きな問題であると昔から思っている。ここら辺りに医療や看護が科学になりえない原因の根っこがあるように思う。
「医師は、何もできないときに「してあげられない」ことをきちんと示し、それへの文句や悲しみをぶつけられることを受け止められなければならない。文句をいわれることは医者の仕事であり、それが医者のはたさなければならない一番の仕事であると思わなければならない。医者は文句をいわれて役立つ仕事である。「役に立たない!」と怒られることが役に立っている」というのはターミナルケアの出発点ともなるのではないかと思う。ターミナル・ケアは疼痛緩和、苦痛緩和という側面はもちろんあるが、基本的にそばにいることしかできることがなくて、それが見捨てていないという意志表示になるのだと思う。口でいうのではなく行動で示すこと。
中井氏の、飛行機がもう飛べなければ地上を走れるようにするというのも凄いなと思った。だましだましという発想の必要性。
「医師」そのものも処方しなくてはいけない、ということについて,昔読んだ本に、医者が一番処方している薬は医者自身だが、医者という薬ほど副作用が強い薬もないと書いてあった。
西村氏は行動経済学の専門家であるが、カーネマンらがいっているシステム1とシステム2は、医療の場においては、医者はシステム2で説明し、患者さんはシステム1で反発するというような構造なのだと思う。
人間は病気になったら、元気なときとは考えが変わる、というのは本当にそうで、尊厳死協会に入っていてリビング・ウイルを書いていたひとがいざ自分が病気になるとそれを撤回するのを何回かみてきた。。
皆藤氏が科学は魂を捨てるところからはじまったというのはよくわかる。河合氏にはどうしてもオカルト的なところがつきまとう。医療にオカルトは困るのである。
川喜多愛郎氏の「近代医学の史的基盤」の最後のほうに「だが、医学と医術にとっては、その深い消息(人間が時に病をおして事業に没頭したり、当為や信仰に殉じること)を胸に秘めながらも、ひとまずそこまで立ち入らないで、病気の除去と生命の保全とにひたすら工夫を凝らすところに、その分を弁えた営為があるとすべきだろう」という部分があった。この「分を弁えた」というところが大事で、あえて身体という部分に限定して自分の領分を設定したところに西洋医学の進展の基盤があった。人間全体をなどという妄言を排したからこそ約束された発展であった。
こころと身体をわけるというデカルト的な発想こそが諸悪の根源という見解は根強くある。この対談集に登場している多くのひとは、大なり小なりその見解をもっていると思う。問題は、デカルトの二分法では、身体と対立するものが理性といったカーネマンのいうシステム2であって、感情、こころといったカーネマンのシステム1の方向が抜け落ちてきたことにあるのであろう。
こころということになれば精神医学の出番ということになるのかもしれないが、そこで問題になるのが第一に人間関係であるとすれば、どういう患者さんがどういう医者と出会うかがすべてであって、ノウハウで対応できる範囲ではない。そこに登場してくるのは科学ではなくむしろ運ということになる。
本書にでてくる人たちは皆、人間関係にとても敏感な感受性をもつひとであり、医療の現場に出てもみな良い臨床家となるであろうひとばかりである。しかし、人間関係にいたって鈍感という医者もまた巷にはたくさんいる。アスペルガー症候群の疑いが濃厚である至って腕のいい心臓外科医というのがいたらどう評価すべきなのだろう。心臓とはポンプである。きわめて腕のいいポンプの修理人。
ここで問題になっているのはたまたま糖尿病であるけれども、病気は糖尿病ばかりではない。心臓病はポンプの故障、肺の病気はガス交換器におきた異常であるとすれば、糖尿病もまたインスリンというホルモンの量不足か働きの不足が原因である。それを調整するという観点からは、どこにもこころが出てくる余地はない。問題は調整の過程で食べたいものを我慢という局面がでてくることで、それがここでさまざまに論じられている。もしも画期的な薬が発見されて、いくら飲んだり食べたりしても、この薬さえ飲んでいれば糖尿病は大丈夫ということになったら、本書で論じられていることの大半は過去の笑い話になってしまう。糖尿病という病気の原理からはそうなることは考えにくいが、もしそうなることがあるとすれば、それは糖尿病の「科学」の方面の研究からくるのであって、糖尿病患者のこころと対面している臨床の現場からでてくることはない。それが問題である。
患者さんに嫌われ続けながらも患者さんの病気を治してしまう医師がいるとすれば、それは名医なのだろうか、駄目な医者なのだろうか? ここでいわれていることは、患者さんに嫌われるようなことがあると患者はドロップしてしまって、それは患者さんにとっても不幸なことであるということである。それは糖尿病が慢性病だからである。今までの名医のイメージはみな急性疾患を前提にしてきたように思える。誰も成功したことのない手術を成功させる外科医。しかし慢性疾患の時代においてはそれは通用しないということがここでいわれる。
わたくしは患者さんを叱れない医者であるためか、データの悪い糖尿病患者さんが外来に沈殿している。データが悪いと頭ごなしに叱る医者とか、データがよくならないと自分にはあなたは治せないから別にいけとかいう医者もいるらしい。そこで適応できない患者さんがたとえばわたくしの外来に流れ込んでくる。データが悪いままでずっときている。それでもまったくこなくなってしまうのよりまだ増しであるのか(本書ではそう書いてあるが)、それがわからない。飛べなくなった飛行機を地上でなんとか走らせる手伝いくらいはできているのだろうか? もっと患者さんとの人間関係をうまく築ける医者なら、患者さんのモチベーションをあげて、ずっと良好なコントロールを実現できるのはないかと思う。
一世紀前の医者にはほとんどできることがなくて、患者さんの枕元で慰めの言葉をかけるくらいがせいぜいであった。「時に癒し、しばしば支え、常に慰む。」 患者さんが期待しているのは、そういう医師でもあり、また同時に快刀乱麻をたつ名外科医のスーパーマンである。そんなことをいわれても困る、と多くの医師が思っているのであるが。
人間の経験することで、自分が何かすることで相手が変わることくらい魅惑的なものはほかにあまりないのではないかと思う。心理療法のもっとも危険な点は自分が働きかけることで患者が変わることを経験できることで、その醍醐味を経験すると患者さんを操作したいという誘惑に抗することは容易ではないだろうと思う。本書に登場してくる人たちはその点にきわめて自覚的な人たちばかりであるように思うが、その聞き役である石井氏が一番ナイーブであるようにみえるのが本書の少し気になる点である。
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