岡田正彦「がん検診の大罪」(終)

  新潮選書 2008年7月
  
 第5章「医療への過大な期待」とエピローグ「治療から予防へ」
 これまでの章でみてきたように「ほとんどの医療に有効性が認められなかった(有効性とは特定の病気が予防でき総死亡も減少すること、と著者はする)」として、それでは最先端医療に希望をつなぐしかないではないかといい、しかしという。
 心筋梗塞のバルーン療法からステント法、薬剤溶出ステント法への変遷をたどり、どれもこれも期待通りの効果をあげなかったことをいい、C型肝炎の治療、ショックウエイヴによる胆石治療、AEDによる突然死の救命など、どれもこれも問題があったり、効果があがっていなかかったりしていることを示し、現代医療はあてにならないとして、検査や治療にかけてきたエネルギーを予防医学にまわしていけばいいという結論に達する。
 著者は、「一般に、医療の質は(予防医学も含めて)その国の平均寿命を見ればおおよそ見当がつく」という。日本の平均寿命は、女性が世界一、男性が世界3位で、平均すれば世界一である。そこから著者は、だから日本の医療の質は世界一というほうにいくかというと、そうはならない。どういうわけかスウェーデンと比較をはじめる。スウェーデンは、女性が8番目で男性が3位、平均で6位である。それなのに、日本とスウェーデンの医療の質はほとんどかわらないとし、それにもかかわらず、日本人の医療機関受診回数が、スウェーデンの5倍であることをいい、これほど少ない受診回数で日本と遜色のない寿命となっているのは、予防に力を入れているからであると議論を進めていく。
 しかし、これはとても無茶な議論であると思う。日本人はスウェーデン人の5倍の回数医療機関にかかっているかもしれない。しかし日本人は一回あたり5分間しか見てもらえないかもしれない。一方、スウェーデン人は一回医療機関にかかると30分は診てもらえるかもしれない(などと書いているが、わたくしが統計を知っているわけではなく、以下全部推測と仮定の話である)。なかなか医療機関にはいかないが、いけばしっかりみてもらうという文化と、気軽にいつでも医療機関にかかるが、かかっても濃密な医療は期待していない文化の違いかもしれない。そして、たとえ5分であっても(3分かもしれない)いつでも気軽に医療機関にかかれるということが日本人の寿命を延ばしているのかもしれない。なにしろ日本の医療体制はフリー・アクセスである。
 一方、ここに書かれているように、スウェーデンではかかりつけ医を決めなくてはいけない。まずそこにかからねばならない。そこで紹介状を書いてもらえなければ次のステップに進めないはずである。当然受診回数は減るにきまっている。わたくしの知り合いがデンマークで暮しているが、日本では健康診断でCTとかMRとかを使っていることにびっくりしていた。デンマークでは政府がその地方に必要なCTやMRの台数を決めて、それをセンター病院にのみ配置している。だから、病気で死にそうになってもおいそれとはCTやMRはとってもらえないのだそうである。日本では患者さんが、頭が痛いからMRをとってください、などといい、OKするまで帰らないのである。医療の文化が全然異なっているであろうものを比較するとこに、どれだけ意味があるのだろうかと思う。
 しかし、とにかくスウェーデンのように予防に医療の重点を移しても寿命はかわらないのだから(延びるのだからとはいわない)、検査や治療にかけるエネルギーを減らしても、何ら問題は生じないと、著者はいう。
 それで今度は予防の効果の議論に移る。
 肥満は短命であることがいわれる。体重が減れば、血圧もコレステロール中性脂肪も血糖もみない改善するという。
 運動は(明確に示されたデータはそれほど多くないが、といいながら、なぜか)、毎日の運動量に比例して寿命がのびると考えてほぼ間違いない、と断言する。だが、丈夫だから運動ができるのではないかという逆の因果関係の可能性を排除できないことは認めている。
 睡眠は7時間を推奨。
 食事は伝統的な日本食を推奨。
 なぜか、コレステロールを下げることが絶対に大切であることを強調する。ついには若鶏の皮つきもも肉が特に問題などといいだす。
 塩分は日に6g以下。
 野菜と果物は多くとる。
 たばこはやめる(たばこを吸っているかぎり、あるいは周囲に喫煙を許している限り、すべての病気予防の効果は帳消しである、という。
 大気汚染も大問題である。
 などなどといったあと、「具体的な数字を見ておわかりのように、生活習慣にちょっと注意を払うだけで寿命は格段にのびる。これらのデータをもって、予防は可能と断言できるのである」という。しかしながら、具体的なデータがそれほど示されているわけではなく、著者がそれ以外は信用できないとする二重盲検による前向き試験によるデータなどは一つも示されていない。
 話は予防医学の体制にすすむ。
 ドイツでは家庭医を増やす体制が進んでいることがいわれる。そして、はり治療や灸、指圧、音楽療法アロマセラピー、ヨガ、カイロプラスティックなどを進んでとりいれているということがいわれている。しかし、これは予防医学ではなく、治療であろう。そして、はり治療や灸、指圧、音楽療法アロマセラピー、ヨガ、カイロプラスティックなどが総死亡を減らすかどうかを著者は一切問わないのである。
 著者はこんなことをいう。「予防医学を中心にした一次医療の形ができていけば、必然的に病院に対するニーズは小さくなり、結果的に無駄な医療をなくしていける。医師不足の問題も解消してしまうのではないだろうか」
 われわれが日々おこなっている医療のほとんどが無駄であることは、医療者はみな知っている。しかし、医療が必要なひとだけ効率的に抽出して、そういうひとだけを診る体制は絶対に構築できないのである。
 われわれが日常に交わす会話に「あ、この人は本当の病気だね」というのがある。本当に医療を必要としていて医療がサポートしないといけないひと、自然治癒力では回復が期待できないひと、そういうひとは間違いなくいるのだが(そして、そういうひとはいくら医療ががんばっても、いかんともしがたい人であることも多いのだが)、そういう人をひろいだしていくためにも、膨大な無駄はおこなわざるをえないのである。
 風邪で医療機関にかかることはまったく無駄であろう。しかし、患者さんはいう「肺炎だったら困るではないですか?」 しかし、風邪か肺炎かなどということは医者にだってわからないのである。だからレントゲンをとる。それは肺がんの危険を増すことになるのだ、と著者はいうだろうが。
 今、地上からすべての薬とすべての医療行為が消えても、われわれの状態はそれほどはかわらないだろう。熱がでたときにそれを下げる手段に乏しいことはつらいかもしれないし、歯が痛いのに、我慢するのもつらいだろう。著者が、視力の低下したときに眼鏡をつくるのは否定するかどうかはわらかないけれど(たぶん否定しないと思うけれど)、それでは白内障の手術はどうなのだろう。
 著者は医療にあまりに完全なものを求めすぎているのだと思う。過大な目標を設定しすぎるのだろうと思う。そして、その目標が達成できていないと思うと、今度はすべての医療は意味がない、という極端に走るである。
 「時に癒し、しばしば支え、つねに慰む」というのはパレの言葉だっと思う。医療は時に癒すことしかできない。大部分の時間にしていることは、せいぜい支えたり、慰めたりすることだけである。血圧の薬も、せいぜい時に癒すだけであるかもしれないが、しばしば支え、つねに慰めているかもしれない。日本の悪名高い、3時間待ち3分診療も、ほとんど癒すことはないかもしれないが、ある程度は支え、また慰めているかもしれない。日本人の長寿もひょっとすると、頻回の受診による支えと慰めの効果によるかもしれない。
 著者は最後に、現代医療の病弊の原因として、訴訟件数の増加をあげる。そのために医者はやらなくてもいい検査、やらなくてもいい治療をしているのだという。訴訟の危険がなくならない限り、いくら今の医療に意味がなく、治療に効果がないとわかっても無駄な検査や治療を続けざるをえず、いつまでも予防医学主体の医療への転換は図れないという。
 そういう場合もないとはいえないであろう。しかし、大部分の医療者は自分のしていることが意味があると思ってしているだろうと思う。たとえば、血圧が高いよりも低いほうがいい、血糖も高すぎないほうがいい、コレステロールも高くないほうがいい、と思っているのであって、治療しても意味がないことはよくわかっているが、患者さんから訴訟されるといけないから薬をだしておこうと思っている医療者は多くないだろうと思う。だから訴訟社会に責任をおわせるのは方向違いではないかと思う。
 目の前に高血圧のひとがいた場合に、本当に血圧が高いのか(正しい血圧とは何か?)、高いとして治療することのメリットはあるのか? しない場合のリスクはどうか? その判断は誰がするか? 医療者か? 患者の側か? その判断をするための信頼できるデータがあるか? そのデータをどう解釈するか? その判断の根拠が10年後の患者さんの健康状態であるとして、10年先の世界がどうなっているか誰も予想することはできないのではないか? そもそも10年先の医療の体制がどうなっているか誰もわからないのではないか? などなど、健康ということだけにまとをしぼってした決定はほかの要因の撹乱をうけるので、要するに未来は不確定である。
 そもそも、今食べたいものを食べるのと、10年先の心臓血管の状態のトレードオフの正確な計算など誰もできるわけはない。
 医療というのはそうたいしたことができるわけではないが、ときにはちょっといいことができることもある。それはもちろん統計にはっきりとでるほどの明確な差ではない、というのが医療の本当のところであろう。だから当然、しなければよかった場合も多々でてくる。医療の技術が進めば進むほど、しなければよかったケースも増えていく。だからトータルでみれば大きくは変わらない。
 しかし、選択の巾が広くなるのはいいことなのだと思う。ある状況においてできることが何もないのよりも、可能性は低いけれど少しはいい方向にいくことがある選択肢が残されるのはいいことだと思う。心筋梗塞になった場合、著者は総死亡を減らさないと批判するが、たとえその効果が一時的であったとしても閉塞した冠動脈が再開通して、しばらく通常の生活をおくれるならば、それで十分なのではないだろうか? わたくしが医者になりたてのころ、冠動脈の造影検査の死亡率が1%くらいだった。いまは造影だけでなく、インターヴェンショナルな治療まで可能になっている。冠動脈の評価は冠動脈の直接の造影なしで、CTでおこなえるようになってきている。こういう検査は当然肺がんのリスクを増やすであろう。しかし、われわれはそういう検査法を知ってしまったのである。知らない時代に戻ることはできない。
 虫垂炎の診断の第一選択がCTという時代になっている。そういう診断法がなかった時代、開腹したら虫垂炎ではなかったというケースはいくらでもあった。それでも医者はなんとも思っていなかった。それで別に構わないのかもしれない。しかし、そうもいかないかもしれない。こういう知識は次第に患者さんの側にも広がっていくだろうと思う。虫垂炎です! 手術しましょう! CTはとらなくてもいいのですか? そういう会話がかわされる時代がくるかもしれない。なにしろインターネットの時代である。知識の拡散は早い。
 そして健康情報の中には、高血圧や糖尿病、高脂血症の情報もあふれている。製薬会社が裏から手をまわしているのかもしれないが、血圧も糖尿病も薬をつかったほうがいいという情報があふれていて、著者のいう総死亡を減らさない治療は意味がないという情報は少数派である。むしろこれから、医療への過大な期待はますます高まるばかりであろう。
 血圧や糖尿病のデータを示して、著者が本当にいうべきであったのは、いろいろと立派なことをしているように見えても、医療ができることなどたかがしれているのですよ、ということであろう。それは人間のできることの限界、人間の能力の限界による。しかし、著者は人間の能力への信頼を捨てない。統計学という学問は真実を語るはずであるとし、予防に力を注げば、われわれはいま以上に健康になれるはずであるという。そうなのだろうか? われわれはそんなに賢明な生き物なのだろうか?