S・シン&E・エルンスト「代替医療のトリック」

  新潮社2010年1月
 
 著者のシンは、「フェルマーの最終定理」「暗号解読」などを書いている科学ライター、もう一人のエルンストは、紹介によれば世界初の代替医療の分野における大学教授とある。医療研究者とされているが、物理学で博士号をとったと書いてあり、臨床家であるのかどうかはよくわからない。
 こういうタイトルになっているが、原題は「Trick or Treatment?」である。ではあるが内容からいえば邦題に近く、代替医療で有効なものはほとんどないということを主張している。
 印象としては、どこかドーキンスの進化(論)擁護の本、あるいは宗教攻撃の本を思わせる。科学への全幅の信頼と、非科学的なもの似非科学的なものへの強い嫌悪がそこにある。
 ここでいわれている内容自体はわたくしにはほぼ納得できるものであり、シン&エルンストが提示している事実に特に異論はない。本書でいくつか知ったことがあり(鍼麻酔のトリックとか、1988年のネイチャー論文「きわめて低濃度のIgE抗血清により、ヒトの好塩基球の脱顆粒が引き起こされる」の顛末など)、それはわたくしのような、臨床の現場にいるので学問の世界からは遠ざかっていて、遠くから聞こえてくる話題をただきくだけで十分吟味することができない人間がもっていた『鍼というのは、あるいは免疫反応というのは、まだまだ現在では解明されていない不思議を宿しているのだなあ』というややロマンティックな感想に水をかけるものであった。おこりそうもないことはやはりおこらないのだという、当たり前といえば当たり前、夢がないといえば夢がない方向に科学はひとを誘導するものである。
 それにもかかわらず、何か本書に納得できないものを感じるのは、「医療とは科学なのだろうか?」という根源的な疑問が、本書を読むとかえって強まってくるからである。
 以下、本書の内容にそって、考えていく。
 本書のキーワードは、「二重盲検法」「EBM(根拠ある医学 Evidence Based Medicine)」「プラセボ効果」「パターナリズム」である。「二重盲検法」が医療を根拠あるものとし、科学としての医学を保証するが、一方、科学としての医学をおびやかすものが「プラセボ効果」であり、医療のもつパターナリズムへの指向がそれを利用して医療をいつまでも呪術的で魔術的な世界にとどめてしまう、代替医療はその象徴であり、その非科学性を声を大にして語っていかないと、医学はいつまでも中世の尻尾をひきずったままとなってしまう、そのようにシンたちはいおうとしている。
 
 「はじめに」で、代替医療は次のように定義される。「主流派の医師の大半が受けいれていない治療法」というものである。それでは主流派の医師とはどのように定義されるのであろうか? 「ほとんどの代替医療は有効ではないとする医師たち」のことである、などというのはわたくしの意地悪であるが、この主流派はかならずしも多数派ではない点が重要で、インドでは多くの医師がホメオパシー治療をおこなっているのだそうである。科学というのは投票により多数の支持をえたものが正しいとされる世界ではない。正しいものはごく一部のものしかそう認めなくても正しいのである。そのことが問題となる。
 「代替医療の基礎となるメカニズムは、現代医学の知識ではとらえられない」ともいわれる。この《現代医学の知識》は科学的知識といいかえることが可能であろう。
 さらに「科学の観点からすると、「代替医療は、生物学的に効果があるとは考えにくい」と言うことになる」という。この《生物学的に》というところが問題で、医学的にあるいは医療としてとなっていないのはなぜなのだろうか? つまり、医学は生物学なのだろうか?ということである。あるいは患者さんは医療を応用生物学だと思っているのだろうか?ということである。
 医療者は医学を科学であると思っている、患者さんは科学であるなどとは毛頭おもっていない。そのすれ違いに医療のさまざまな問題が起因するのだとすれば、代替医療は科学からみると無効と主張しても、患者さんの側の「鰯の頭も信心から」には勝てないのではないだろうか?
 もちろん、著者たちもよくわかっていて、本書の後半はそのことの議論が中心になっている。ある神経科医の「患者にプラセボ効果を及ぼすことのできない医師は、病理学者になるべきだ」という言葉が紹介されている。昔、読んだ本でいまだに覚えているのが、バリントという精神科医が書いた本にあった一節である。

 一般臨床で、断然最もしばしば用いられる薬は、医者自身であり(中略)、(それにもかかわらず)医者という薬の投与量、薬形、投与回数、治療量と維持量などについては、どんなテキスト・ブックにも教えられていない。さらにいっそう心配なことは、この種の投薬に伴う恐れのある危険性、個々の患者にみられ、慎重に監視しなければならないさまざまなアレルギー状態、あるいはその薬(医者)の望ましくない副作用についての文献はなにも見当たらないことである。(M・バリント「プライマリ・ケアにおける心身医学」)

 医者は年をとっているほうが得で(あまり高齢になるとそうはいえないかもしれないが)、それは自身のプラセボ効果が増してくるからである。同じ薬でも医者になりたてのものが処方するのと、50・60歳の医者が出すのでは効果が違う可能性が高い。「あまりに若いお医者さん、というのはどうもそれ以来、顔をみるとぱっと警戒信号が入ってしまいます」(中島梓ガン病棟ピーターラビット」)というのは点滴が上手いとか下手というだけの話なのだが、よほどのよぼよぼがでていかない限り、若い医者よりもある程度年がいった医者のほうが信用されるということはあるのではないかと思う。わたくしも40歳をすぎてから随分と医者をするのが楽になったように思う。別に有能になったわけではなくて、相手が勝手に信じてくれる頻度が増した。
 こういう一筋縄ではいかないことが日常おきている医療の世界で、なんとか科学であることを維持しようというのが二重盲検法ということになる。
 
 《EBM Evidence-based Medicine 科学的根拠にもとづく医療》
 壊血病がビタミンCの欠乏でおきることは今日よく知られているが、その最初の実験としてリンドというひとがおこなったことがしめされる。オレンジとレモンを食べた水兵そうではない水兵の比較試験である。このころはもちろんビタミンCは発見されていない。オレンジとレモンは偶然選ばれたものである。さらに瀉血の効果についてのハミルトンの比較試験。またナイチンゲールクリミア戦争での臨床統計。さらにまたヒルとドールの煙草と肺癌についての前向きコホート研究。これらのデータから臨床におけるある医療行為の有用性は、コントロールされた統計研究によることを示した後で各論に入る。
 
 《鍼》
 鍼にかんするもっとも古い文献は「黄帝内経」で紀元前2世紀のものである。「気」が「経絡」という道を通って全身に流れるという思想に基づく。病気は気の流れのバランスの乱れによるので、鍼は経絡の位置に鍼を打つことによりその乱れを快復させる。
 鍼は20世紀に入るころまでは西洋では廃れ、東洋でも休眠状態に入っていた。1949年に中華人民共和国ができ、毛沢東が中国の伝統医学を復活させようとしたために甦った。1970年代のはじめに大がかりな手術が鍼麻酔でおこなわたことは世界に衝撃をあたえた。僧帽弁手術が鍼を耳に打つだけで意識のある状態でおこなわれたのである。おどろくべきことに(わたくしは本書ではじめて知った)、これはまやかしだったらしい。患者は局所麻酔や鎮静剤の処置がなされていらたしい。要するに患者には普通の麻酔剤が大量に投与されていた。ひどい話である。中国の国威発揚のために国全体でしくんだことだったらしい。
 しかし、そのころメルザックらが提唱した「ゲート・コントロール説」は鍼麻酔の根拠を提供するように思えた。しかし鍼の効果はほとんどすべてプラセボ効果によるのではないかという見方もでた。
 
 《プラセボ効果
 野戦病院モルヒネが足りなくなった。窮した医者は傷ついた兵士に強力な鎮痛剤だといって生理的食塩水を打った。モルヒネと同じくらい効いた。
 昔おこなわれていた抜歯後の超音波による顎マッサージは超音波を出さずに機械をあたるだけで、同じくらいの鎮痛効果があった。
 狭心症に対する内胸動脈結紮術は胸を開いただけで血管の結紮をしなくても、狭心症症状を減らす効果があった。
 プラセボ効果のメカニズムについての科学的説明はまだ十分なものはでていない。
 その影響を除外して薬の真の効果を調べるために「盲検法」ができた。外見は同じで、薬とそうでないものを投与してその効果の差をみる方法である。さらに薬を投与する側も今あたえているものが本物か偽物かわからないようにするのが「二重盲検法」である。
 
 さて鍼の効果を見るための「盲検法」はどうしたらいいだろうか? 打ったひとと打たないひとを比較するわけにはいかない。著者の一人エルンストは伸縮式の鍼を発明し、患者には打っていると思えるが実際には打っていないというやりかたをできるようにした。これによれば鍼はほとんど効果を示すことができない。打ったふり以上の効果を本物の鍼は示すことができない。とすれば、指圧・灸などの効果もまた同じであるとしていいであろう。つまり効かない。
 しかし鍼はプラセボ効果をひきだす手段としてはきわめて有効なものであるらしい。そうであれば、それを利用してはいけないのか? 効果があればそれでいいのではないか? そして鍼の効果はプラセボ効果にすぎないと広く知られてしまうと鍼の効果がなくなるから、なるべく鍼の神秘的な雰囲気が消えないようにしたほうがいいのではないか? これが後段のパターナリズムの問題とも繋がる。
 
 《ホメオパシー
 ホメオパシーは日本ではあまり浸透していないように思うが、ヨーロッパやアメリカでは猖獗ををきわめているらしい。ベルギーでは人口の半数が日常的にホメオパシーに頼っているとある。世界でみるとインドがもっとも盛んらしい。
 これは18世紀末のドイツの医師ハーネマンがはじめた。この人は10ヶ国語近くを話す大知識人の医者だったらしいが、その当時の医療に次第に不信感を持つようになり、その当時の治療は善よりも悪をなしていると考えるようになった(そしてこれはほぼ間違いなく事実であることを著者たちも認めている)。ある時ハーネマンキニーネをのんでみた。するとマラリアのような症状がでた(と思った)。ある病気の治療薬を健康なひとがのめば、その病気の症状がでるように思えた。今度はそれを逆転してみた。「健康なひとに特有の症状を引き起こす物質は、その症状を示す病人の治療に利用できる」という法則があるとした。そしてこれは特に根拠は示されていないが、その物質は「薄めたほうがいっそう効果が大きくなることを主張した。著者によれば、二日酔いの時には少し酒をのむとよいというようなことなのではないかと。さらにある経験から、その物質溶液は震盪すればするほど効果が増すとした。
 問題は希釈の程度が半端ではないということで、100倍に薄める過程を30回くりかえすことなどはごく普通におこなわれる。こうするとその「薬剤」のはもとの物質はただの一分子もふくまれていない。要するに「薬剤」といわれるものはただの水である。それで証明終わりであって、そんなものは効くわけがない。しかし、実際はそれは有効であった。1854年のロンドンでのコレラの流行でホメオパシー治療での患者の生存率は84%、対して(その当時の)通常医療では47%。勝負あったである。著者によれば、それはホメオパシーが有効であったのではなく、その当時の通常医療が患者を殺していたのである。何もしないのが最善であった。ちなみにその当時の通常医療(英雄的治療)とは、瀉血、下剤をかける、嘔吐させる、水銀や砒素を大量に投与するといったものであった。「患者の大部分は病気のために死ぬのではなく、薬のために死ぬのです」(モリエール「気でやむ病」)。
 しかし通常医療が自己改革をし、英雄的治療がすたれていくとホメオパシーもすたれていった。1920年ごろにはほぼ消滅しかかってきた。それが復活したのは第三帝国が「新ドイツ医療」をつくりあげようとしたからである。現代医療と伝統医療の長所をミックスするものであることをうたっていた。鍼の毛沢東のあとはホメオパシーヒトラーである。なんだかできすぎている気もする。ドイツ内でもホメオパシーの有効性を検討する科学的な研究が進行したらしい。しかし、その結果が発表されようとしていたまさにその時に第二次世界大戦が勃発し、その結果はどこかに消えてしまった。一部残ったデータからみると、ホメオパシーはほぼ無効であるとされていたらしい。
 希釈されて目的物質を一分子たりともふくまない「薬物」がなぜきくのか? それは溶媒の水が有効成分の記憶をもっているからであるというのがホメオパチーの側の主張である。そんな馬鹿な!であるが、しかしそれを支持するように見える論文が1988年権威ある科学誌「ネイチャー」に発表された。それが「きわめて低濃度のIgE抗血清により、ヒトの好塩基球の脱顆粒が引き起こされる」である。要するに有効成分をまったくふくまない超高度希釈溶液が生物の身体に影響をおよぼすということを主張していた。その論文はアレルゲンを一分子たりともふくまない溶液が好塩基性白血球に影響をおよぼすということを主張した。種明かしをすれば、白血球が反応したかどうかは顕微鏡下の観察で判定する。その溶液がアレルゲン希釈液だと思うと、反応しているように見えるのである。
 この「ネイチャー」論文のことはわたくしもどこかで聞き知っていて、怪力乱神の系統が大嫌いであるわたくしは困ったなあと思っていた。本書ではじめて顛末を知った次第である。鍼麻酔にしてもそうだけれども、センセーショナルな話題は部外者にも聞こえてくるが、その後それをおいかけてする地道な研究についてはきこえてこない。そういうことは多いのだろうと思う。
 ハーネマンによれば、患者の生命力をバランスがとれた状態にしておくことが医療の究極の目的である。つまり通常医学あるいは主流派の医学が依拠する疾病観とはまったくことなった疾病観をもっている。鍼麻酔も同じである。《気》の流れが滞らないようにすることというようなタームは主流派の医学のどこにも入る余地がない。
 
 《カイロプラステイック》
 これも日本ではあまり流行していないと思う。それに相当するものは「整体」であろうか? カイロプラステックはイギリスやアメリカでは完全に通常の医療システムの中にくみこまれているのだそうである。
 これは、脊柱のわずかなズレを矯正することで、そのずれによって阻害されている《イネイト・インテリジェンス》(生命力とか生命エネルギーといったもの?)の流れを改善することをめざすことを主張している。
 現在、「科学」の観点からは腰痛にかんしてはカイロプラステックの有効性が示されているが、それ以外には有効と思われるものはない。
 
 《ハーブ》
 日本では漢方薬であろうか?
 キツネノテブクロからジギタリス。キナ皮からキニーネ。ヤナギの樹皮からサリシン(改良してアセチルサリチル酸、つまりアスピリン)。イチイの樹からタキソールなど西洋医学で用いられている薬の多くは植物から単離されてきた。これらをわれわれはもはやハーブであるとは思わないが、drug という語は「乾燥した植物」を意味するスウェーデン語の druug に由来する。
 それに対して代替医療でのハーブは植物全体を用いる。
 アーユルヴェーダのハーブ薬には重金属がふくまれていることが多い。砒素や水銀あるいは鉛などである。
 鍼やホメオパシーやカイロプラステイックに較べると、著者らはハーブに対しては肯定的で、それが有効な場合があることをみとめる。著者らが指摘するのは、もっと有効な通常医学の薬があるのに、ハーブに頼ることの危険である。
 
 さて何でこのような代替医療を用いるひとが多くいるのか? その鍵として、著者らがあげるのが、「自然」「伝統的」「全体論的」という語である。しかし「自然」であることは中立的であり、それだけではいいとも悪いとはいえない。伝統的だからいいともいえないこともいうまでもない。瀉血はかつて伝統的な治療法だった。著者らは通常医療もまた全体論的であるという。なぜなら生活習慣、食生活、年齢、家族の病歴、既往歴、遺伝などさまざまなことを考慮にいれているではないか、と。これはかなり論点をはずした議論であると思う。「全体論的」の対の語は「還元論的」であろうからである。たとえば、ヤナギの樹皮からアスピリンという有効物質を発見してくるやりかたが「還元論的」なのである。あるいは発熱の患者さんの原因として肺炎を指摘するのが「還元論的」である。要するに「還元論的」が評判が悪く「全体論的」という語が魅力的にみえるのは、例の「現代医学は患者をみずに病気だけをみている」という批判がしばしば有効であるのと同じなのである。
 
 英国のチャールズ皇太子代替医療の擁護者であり推進者なのだそうである(本書はチャールズ皇太子に捧げられている)。統合医療の発展をうながすことが皇太子の願いだとされている。
 感冒には今のところ有効な治療法がない。それなら《害はない》ホメオパチーを用いるのはどうだろうか? あるいは今のところ有効な対策がない腰痛にカイロプラステイックを用いるのは?
 著者らはそれらの効果はほとんどプラセーボ効果に限られていると考えている。それを利用して患者を《治す》ことは、医者−患者関係に嘘を持ち込むことになるから、してはいけないというのが著者の主張である。現在の医療は「インフォームド・コンセント」にもとづく信頼関係の上になりたっているのだから、もしも医療に嘘が紛れ込んでいることが明らかになるならば、それが根底から崩れてしまうではないか、と。プラセボ効果を最大限にひきだそうとすれば医師は嘘をつかねばならないことになる。昔の医療では、医師は患者にしてあげられることがほとんどなかった。だからプラセボ効果を利用するのもやむをえなかった。しかし、現代の医療は科学的に検証され有効であることが確認されている本物の治療法をすでにたくさんもっている。プラセボ効果に頼った医療システムにふたたび戻ることはあってはならないというのが著者が強調するところである。プラセボ効果は確かに強力である。そうであるなら通常医学の薬をプラセボとして使えばいいではないか。つまり薬の本当の効果にプラセボ効果を上乗せすればいいではないか、と。
 なんだかこのあたりの著者の主張は混乱している。プラセボ効果に頼るべきではないといいながら、それを利用せよとも言っている。たとえばの話であるが、プラセボが痛みを30%軽減させるとする。一方、通常の鎮痛剤の効果は20%の軽減であるとする(こんなことは本来ありえないので、プラセボ効果なしに薬を投与することは困難である。つまりプラセボ効果を引いた正味の鎮痛効果というものがかりに測定できるとしてという仮定での話である)。だからプラセボ効果のほうが本来の薬の効果より高いとすれば、医者はプラセボ効果を最大限に引き出す努力をしなければいけないことになる。それは医療に嘘を持ち込むことになる。嘘のないインフォームド・コンセントを実行して、感冒には有効な薬がないことをしっかりと告げ、自分が今出している薬はたかだか気休め程度の効果しかなく、せいぜい症状を少し和らげる程度のことしか期待できないことを誠実に説明するならば、おそらくプラセボ効果は減殺するであろう。しかし、そうとばかりもいえないかもしれない。誠実で嘘のない説明が医師の信頼を高めプラセボ効果を増すことになるかもしれない。「インフォームド・コンセント」にもとづく信頼関係こそがプラセボ効果を産むのであって、かつてのようなよらしむべし知らしむべからずといったパターナリズム的な医療は現代ではもはやプラセボ効果を引き出す手段としては有効でなくなってきているのかもしれない。おそらく著者が期待しているのがそのような方向なのだろうと思う。
 医師たちは日々、咳、風邪、腰痛のように治療が難しいか治療できない症状をもつ患者をみなくてはならない。さいわいこれらの症状は多くは数日から数週間でなにもしなくても消えていく。だからゆっくり休養してくださいとか、解熱剤でとりあえず様子をみましょうとかに指示をする。しかし、それをきいてがっかりする患者もいて、もっと治療らしいことをしてほしいと希望する患者も多い。それが医師が代替医療が効かないとわかっていても否定せずときに利用する理由になっているのではないかと著者はいう。
 しかし著者が指摘する、患者さんが代替医療にむかう最大の理由が通常医療への失望である。医師は診断を下し的確に治療をする点では立派に仕事をしているとしても、だからといってその医師を患者さんが「良い医師」であると思うとは限らない。医師が自分のためにろくに時間を割いてくれず、思いやりもなく、共感もないと感じている患者は多い。それに対して代替医療のセラピストは、そういう不満をあまり持たれていない。医師の一部は患者に対する思いやりを代替医療の施術者に委託しているのだと著者はいう。代替医療は《治療》をしているのではなく、治療効果のある人間関係を作っているのだろうと。だから通常医療の医者たちはもっと患者との間に良好な関係を築くために努力しなければならない、と。
 本書では取り上げられないが、臨床の場で一番問題なのは、咳、風邪、腰痛のように治療が難しいか治療できない症状をもつ患者ではなく、さまざまな症状をもつが《病気》ではない患者が多数いるということである。ここでの《病気》の定義は通常医療での病気、還元論的な見地からの病気である。肺炎や狭心症といった病気である。動悸を訴えるがそれの原因となる異常を何も指摘できない患者さんはたくさんいる。それは正統的な医療の世界では病気はない。不定愁訴といわれるものだが、おそらく代替医療においては症状があればそれは治療の対象となるのではないかと思う。これが全体論的ということなので、病気ではなく患者をみるということなのである。通常医療が冷たく思いやりがないとされる最大の理由はこういう患者さんが相手にされないということなのであろう。しかし、病気でもないものはそもそも治しようがないではないか?
 通常医学(=西洋医学=正統派医学)の病気の定義は病理学的な基盤のうえになりたっている。「患者にプラセボ効果を及ぼすことのできない医師は、病理学者になるべきだ」というのは言い得て妙なので、通常医学とは病理学者の目から見る医療なのである。そして病理学のどこにも《患者との間の良好な関係》などというものはでてこない。人間関係などというものが顕微鏡でみえるはずがない。
 今、真面目な若い医師たちの一部の間で代替医療への関心が高まっている。それは病理学的医療では現場の臨床の問題のごく一部しか解決できないことを日々痛感するからなのだろう。一方、「統合医療」という(わたくしからみると)かなりいかがわしい動向も一部にはある。近代西洋医学代替医療・伝統医療との統合などということをいっている。代替医療は患者を癒すことはできるが、治すことはできない。それで西洋医学との統合が必要という。身体のみならず、精神やスピリチャリティーをふくむ全人的医療などともいう。医療にスピリチャリティーなどという言葉がでてくると碌なことはないと思っているわたくしは、こういうのをみるとげんなりしてしまい、「代替医療のトリック」の著者のいうこともよくわかると思ってしまう。若い医師たちはスピリチャリティーなどということを信じているわけではなく、そういう動きを困ったものだと思いつつ、それでも代替医療といわれるものにも科学的にみて有効なものはあり、利用できるものがあると感じているようにみえる。
 彼らが関心をもっているのは主として漢方のようである。漢方では「未病」と「既病」にわけるのだそうである。「未病」は西洋医学での「不定愁訴」であり、だるい、元気がない、肩がこる、頭が痛い、といったものである。こういうものには漢方は有効であるということらしい。一方、著者のシンもその一人であるが漢方薬について懐疑的である医者は、それがが有効であるならば、なぜその中から有効成分を抽出しないのだろうという疑問をもつ。漢方を擁護するひとたちはそれは総合的・全体的に効いているので、そこから有効成分を抽出しようとすると効果が失われるとする。
 わたくしがなんとなく漢方というものを信用できないでいるのは、それが保険収載されてきた過程でかなり不透明なものがあったときいているからである。通常、医薬品が保険収載されるためには薬効についての詳細な治験データの提出が求められる。しかし漢方薬の場合には、多くの薬がそのような一切のデータなく保険収載されたと聞いている。根拠は2千年?の使用という事実がその有効性を明かしているというようなものだったらしい。あまり世間の話題にはならなかったが、今般、民主党政権になってから、漢方薬を健康保険から外そうという動きがあった。その最終決着がどうなったのかはよくしらないが、そのような動きがでてくる背景には漢方薬の有効性に疑問をもっているものもまた多くいるということがあるのだろうと思う。当然、有効な漢方薬があるとする側からの異論もでてこの動きは立ち消えになったのかと思うが、もし有効なのであれば、二重盲検法でそれを示せばいいのではないかとわたくしなどは考えてしまう。事実、二重盲検法で確実に有効性を示せそうなものがいくつかでてきているようである。ということは当然それを示せないものもあるということで、わたくの根拠のない予想では多くの漢方薬は無効とされてしまうのではないかと思う(9割くらい?)。それに対しては漢方の側では次のような答え方をする。「代替医療に対する研究と評価では、西洋医学で近年重要視されているEBMに重点が置かれている。EBMは日本で「科学的根拠による医療」と翻訳されることがあるが誤りで、臨床的効果の査定のためのものであり、科学的である必要はない。・・臨床試験はすべてRCT(無作為管理臨床試験)が必要とされている現状は、是正されるべきである。・・漢方などの代替医療の効果の査定には、医療施行者と受診患者の主観による判断が必要であり、また患者の医師に対する信頼度が大きく影響している。RCTを科学的根拠として査定している研究所では、ほとんどの代替医療の研究を効力がないとしているが、漢方を査定するのに西洋医学的は判定によるのは不適当である。代替医療では臨床で半数以上の患者が症状の改善を経験する場合は、ある程度効果があると見なしても、民間医療として利用するには十分と思われる。」(廣瀬輝夫氏 「日本独自の漢方の再興で統合医療の確立を」JMS2010年3月号) シンらの主張の全否定であり、プラセボ効果で何が悪いと開きなおっている印象である。この論理でいけばあらゆるものが(砂糖でもメリケン粉でも)すべて薬として有効であることになってしまうのではないかと思う。
 恥ずかしならが、わたくしが漢方薬というのは効くのだなということを初めて感じたのは小柴胡湯の副作用として肺線維症が報告されたときで、副作用がでるのなら作用もあるのだろうと思った。インターフェロンとかラミブジンとかが実用に供される以前の慢性肝炎の治療薬には有効なものがほとんどなく、小柴胡湯二重盲検法で有効であったというような報告があったので一時期使ってみた。有効であるという実感はあまりなかったし、その後確実に有効性が示された薬剤がでてきたためと、その副作用の報告のため、最近ではほとんど使わなくなってしまったが・・。漢方薬の問題点は、西洋科学的な二重盲検法で有効というデータがでたものについては、その点を強調し、その方法で有効性が示されなかったものについては、漢方薬の薬効の検定には西洋医学的方法はなじまないとするようなダブル・スタンダードがしばしばみられるということである。
 前に中井久夫氏の「臨床瑣談 続」をとりあげたことがある(id:jmiyaza:20090803)。そこでは、「一般の人と医師団との間のずれ、すれ違い、違和感、どこか相性の合わないもの」ということがいわれていた。患者とその家族は「治癒」を願うが、医師は疾患が何であり、その治療のプロセスがどのようなものであるかを縷々説明する。それは患者とその家族が求めているものとはどこかずれているのだといったことであった。おそらく代替医療と呼ばれるものは、患者とその家族の気持ちにそうものがある。
 中井氏は、かってそのずれを埋めていたのが「私におまかせ下さい」という「パターナリズム」であったが、そのパターナリズムの時代は去ってしまった。しかし、それが去ったための空白は埋められていない、ということをいっていた。
 著者たちもまたパターナリズムの時代が去ったことをよしとし、再びパターナリズムの時代に戻らないことを強く願っている。さてそれなら、西洋科学的、通常医学的見地を是とし、それに一致しない医療を否定しようというのもまたパターナリズムではないだろうか? 現在が自己決定権の時代であるとすれば、どのような医療を受けることもまた個人の自由なのではないだろうか? 科学という営為は価値中立的に客観的に正しいということがシンらの主張の一番根底にある前提となっている。シンらが主張していることはシンらの個人的な見解ではなく、科学という普遍的な真実を保証する手続きによって正しいとされるという信念である。普遍的に正しいとする信念というのは本来はおかしな言い方であって、信念というのは普遍的なものではなく個別的なものである。ある病気についてどのような治療法が是とされるかは客観的に(個人の信条からは独立して)決定されるという見方がシンらの議論の前提にある。どのような治療法が是とされるかは、そのときと場合により一期一会で決まるというのが代替医療の根幹であるとすれば、両者の見解は平行線になる。
 中井氏は中医学中国医学)では精神科と身体科を区別しないという。それでは西洋医学における全体論は何か? それがたとえばセリエのストレス説であるとする。中井氏もいうように「ストレス」概念は広く使われているが、つかみどころがない。われわれが器質的な原因が特定できない症状をもつ患者さんへの説明として一番使うのは「ストレス」のせいでしょう、という言い方ではないだろうか? これを『「気」のバランスが乱れているため』とか『生命力が滞っているため』などといったら何だかオカルトであるが、いっていることはあまりかわらないかもしれない。日本ではそれなりに西洋医学的身体観が普及していきてるから(患者さんは「わたしのどこが悪いのでしょう?」ときいてくる)、ストレスという言葉が便利に流通しているが、中医学的身体観の世界でなら「気」のほうが通用するかもしれない。ストレスといい、交感神経と副交感神経のバランスの乱れなどといえばさらにもっともらしい。このような説明は何だかわかったような難しげな言葉で患者さんを煙にまくパターナリズムではないだろうか? 嘘のない誠実な態度であなたの症状の原因はわかりません、困りました、とともに悩むべきなのだろうか? 中井氏は「中医学で表面に出ているものが近代医学では裏をなしているということができるだろう。裏というのは隙間を埋めることである。あるいは、近代医学は主戦場を重視し、これに対して中医学兵站などを重視する傾向があるといえるかもしれない」という。
 通常医学にはたくさんの隙間がある。それを埋めるものが代替医療であるという側面があって、いくらシンたちが科学の立場から代替医療の無効をいいたてても、そのことによって代替医療がなくなっていくということはないのだろうと思う。
 いかなる医療手段によっても治せない病状がある。また、最終的に人間は死にいたるという厳然とした事実がある。小学校のときに読んだ「こころに太陽をもて」だったかというようなタイトルの本にあった話を今でも不思議に覚えている。スウィフトが従僕に靴を磨いていないことを注意したら、従僕がどうせこれから泥道を歩くのだから磨いても無駄ではないかと口答えをした。スウィフトは黙ってでかける。歩いていると従僕が腹が減りました、何か食べましょうという。スウィフトが食べてもどうせまた腹がへる。食べても無駄だろうと答える、といったものだった。
 科学の立場からすれば神の存在はありえない。それなのに何故まだ神を信じていて、進化を否定するような人間がたくさんいるのかとドーキンスは怒っている。しかし人間が自己の死を意識することが神を要請するのだ、というような論はそれだけでいくらでも議論を呼ぶであろうトンデモなのであろうが、人間は代替医療のようなものを信じる構造を進化の過程のなかで脳のなかに、保持してきている、それが生き残り上に有利に作用した、というようなことで科学の立場からも代替医療がなぜ存在するかということをいえるのではないかという気もする。
 科学を信じない人が何故いるのかを科学は説明できるのかもしれないが、その説明をきいて科学を信じないひとが納得するのかどうかは疑問であろう。本書でシンやエルンストが言っていることはほとんど正しいとわたくしは思うのだが、ひとは正しいことを信じるとは限らないとも思う。わたくしは科学の客観性を信じているわけであるが、それが誰でもがそうでなければいけないとはどうしても思えないままでずっときている。
 それでも本書を読んで、鍼麻酔のトリックや超希釈物質の神秘的な情報伝達という話の嘘について知ることができたことはよかった。世界にはなるべく神秘なことは少ないほうがいい。
 
 統合医療と漢方については、「JMS」(JAPAN MEDICAL SOCIETY)という雑誌(医者に送られてくる)に掲載されていた「漢方と統合医療」での廣瀬輝夫氏の論文(2010年2月号)と、「いま、何故、統合医療なのか」(2010年3月号)の渥美和彦氏の論文を参照と引用させていただいた。
 

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