J・マーチャント「「病は気から」を科学する」(3)第2章「型破りな考え - 効力こそすべて」

 
 カプチャックというひとのプラセボ研究が紹介される。自分でいうには60年代の無分別で学生時代から漢方を学びはじめ、東洋の宗教や哲学と毛沢東思想に傾倒し、アメリカで鍼治療院を開業。治療成績はとてもよかった。しかし患者があまりによくなっていくので、かえってそのことに疑問を抱くようになった。「自分が霊能者かと思って仰天した」というくらい患者はよくなっていったのだが、しかし自分が霊能者ではないことは自分でよくわかっていたし、患者の回復は、鍼や漢方薬とも関係がないかもしれないと考えた。原因は何か別のものであるかもしれない。
 1998年、ハーバード大学が補完代替医療の科学研究に資金提供を募集しているのに応募した。ただ研究の方向をその分子メカニズムといった方向ではなく、人の問題に焦点を合わせた。それで偽の鍼治療と偽の薬物治療との比較研究をした。やってみたら、痛みには偽の鍼が、不眠には偽の薬の方が有効であった。効果はプラセボの種類によって異なり、効果の強さは患者、病気、文化によって変化することがわかった。
 たとえば、デンマークでは59%が有効であった偽治療がブラジルでは7%しか効かないといったことがある。またその治療についてどういう説明をきいているかによっても効果が異なった。
 従来、プラセボは「効かない薬の効果」といわれていた。しかしカプチャックはプラセボ効果を「効かない薬への心理的反応」であると考えた。
 モアマンという人類学者は、手術後の患者に鎮痛剤を投与したケースを調べた。医者からそれについて説明を受け、医者から点滴を受けた場合と、コンピュータプログラムで自動的に投与された場合、前者のほうが劇的に有効であった。有効であったのは白衣を着た医者の存在だったのである。
 偽薬が問題なのではなく、回復に期待をもたせる医術の罠が問題なのである。白衣・聴診器・あるいはぴかぴかの医療機器、そういったものが効果を発揮する。過去の呪術師であれば、香や呪文がその役を果たしたのであろう。
 過去30年間、うつ病の薬物治療は大いなる成果を示してきたが、しかしプラセボの成績を凌駕するものでは必ずしもなかった。マスコミ報道と広告により、人々が抗うつ剤が有効であると信じるようになったことが、その効果に大きな寄与をしていたのではないか?
 カプチャクはさらに大胆なことを思いついた。「これはプラセボです。偽薬です」といって投与してみたらどうだろうか? 「ここには一切有効成分がはいっていません」と説明して投与してみたら。
 過敏姓腸症候群の患者にたいし半数にプラセボを投与した。「このカプセルには有効成分は入っていないが、心身の相互作用、自然治癒プロセスを通して作用する可能性があります」と説明して。プラセボ群は未治療群よりもきわめて良好な治療成績を示した。うつ病、偏頭痛でも同様の成績が得られた。
 医療界がプラセボに対して抱く偏見と懸念は多くが「患者をだます」ことへの複雑な感情に由来する。しかしカプチャクは患者をだますことをしていない。「正直に伝えるプラセボ」を用いている。
 カプチャクの研究以来、オンラインでのプラセボ販売がすでにはじまっている。それほど安くはないが、プラセボは高いほど効果があることが証明されている。
 通常の医療行為で、医者はつねにプラセボ効果を利用している。本来の薬の効果+プラセボ効果が現実の場における医療効果である。ではあるが、偽のスタチン(コレステロール降下剤)はほとんど降下がない。一方、うつ病の場合には大部分の効果はプラセボ作用かもしれない。
 もしも患者が「強い効き目のある薬」という印象を持つとより効果は高い。大きいくすりほど、錠数が多いほど、有名な薬ほど、色があるほうがないものより、また治療法が大袈裟であればあるほど、プラセボ効果は高くなる。手術>注射>カプセル>錠剤・・。
 プラセボは依存症などの副作用はもたないと考えられる。
 ある薬は、それらしいデザインでもっともらしい説明書が添付され、窒素78%、酸素20%、アルゴン1%、二酸化炭素0。03%などと書いてある(要するに空気)。まだその売り上げは微々たるものであるが。
 次が「ノセボ効果」 ノセボはラテン語の「私は害を及ぼす」に由来。心は体にいい影響をおよぼすこともあるが、また悪い影響もあたえることも当然ある。たとえば集団ヒステリーのような現象である。
 ブードウー教の呪いのもつ力がそれを説明する。ブードウー教の呪いをかけられたと思ったものは本当に衰弱して死ぬ。偽の方法で呪いが解かれたと思ったものは回復する。
 ひとは社会的、文化的背景から大きな影響を受ける。白衣を着た医師からがんで余命いくばくもないことを宣告されれば、西欧世界では大きな心への影響がある。
 さまざまな治療で多くの副作用が報告されるが、このような副作用はプラセボ群でもみられる。たとえばプラセボを投与して副作用としてインポテンツになるかもしれないと告げるとかなりのひとがそうなる。
 N・ハンフリーはそのようなことを進化心理学の方向から説明している。ノセボ効果は周囲に危険ありという生存のために有用な情報を提供するものとして有効だったために進化の課程で生き残ってきたというのである。それが生き残っているので、治療をうけることは自分は安全であるということを脳回路につたえることで作用をおこす。
 医者からもらった薬は医者の心遣いもまた一緒に運んできている。
 プラセボの効果はノセボ効果の解除によって有効に機能するという見方がある。
 上記のことを考えれば、薬を飲むことを儀式にすることもまた有効であるかもしれない。特に子供には有効である。礼儀正しいが冷淡な治療者からもらった薬は心優しい思いやりがある治療者からもらった薬ほどは効果がない。
 とすれば、医師と患者のやりとりはきわめて重要である。自分は気遣われている。安全である、という感情はきわめて有効である。西洋医学の場ではそれはどんどんと失われつつあるが。
 いくら治ると信じていても、病気の背後にある生理学的な状態を変えることはできない、ということは確かで、気分がよくなることだけがすべてではないのはもちろん事実である。
 
 本章はわたくしにとっては非常に衝撃的で、プラセボ効果についての考えにかなりの修正をせまるものであった。
 一般に自然治癒力といわれる考えがあって、プラセボ効果というのはそれの発揮によって効果がでるとされているのではないかと思う。
 自然治癒力ということにわれわれが感じる疑問は、もしそのような生得的な疾病監視機構が生物に備わっているのであれば、病気の芽がうまれた瞬間にそれを抑え込んでしまうのが一番いい対応であるはずで、病気がある程度の段階になってから動き出すなどというのでは後手にまわってしまう可能性がある。それについて今までの一番説得的であった説明は本書でも言及されているN・ハンフリーのもので、そういう自然治癒機構は主として免疫作用がかかわるが、免疫にかかわる機構というのはきわめてエネルギー消費的(あるいは浪費的)なものであって、その準備と維持には膨大なコストがかかっているというのが、その説明であった。つまり貯金のようなもので、何かあるごとに使ってしまったのでは、いつまでも蓄えがないままとなってしまい、いざというときに役に立たない。ここぞというとき今こそはという時に、そのために蓄えておいたものを一気に集中的に使ってしまうというのが効率的・効果的対応である。その場合に自分は安全であると信じている生物は安心して貯蔵していたものを放出できる。しかし自分の安全を信じられないものは、将来もっと大きな厄災にみまわれるかもしれないという不安があり現在の貯金を使い切ってしまうことに不安を感じて、結果的にその治癒力を発揮できない。プラセボは安心感をあたえるという過程を通じて効果を発揮しているというようなものであったと記憶している。
 もう一つ面白かったのが、プラセボコレステロール値にはほとんど何の効果も発揮しないという指摘であった。本書では指摘されていないが、尿酸やクレアチニンにもあまり影響しないように思う。一方、心臓方面には相当効果を発揮するように思う。糖尿病にはどうだろうか?
 とにかく、これは偽薬です。何の有効成分も含んでいませんといって投与してもそれでも効果があるというのが衝撃的である。
 自分のことを考えてみると、若いときにはプラセボを多く処方したが最近ではほとんどそれをしなくなっているように思う。一つには院外処方箋の普及によって投薬した個々の薬について詳細な説明が付されるのでプラセボの処方自体が難しくなっているということがあると思う。しかし投薬という行為自体が有効であるのであれば、何もプラセボを出さなくても、通常の処方であっても何ら問題はないと感じるようになったことが大きいと思う。
 若い時、外来に、お腹や背中が痛いと訴える老人が来た。何だか訴えが大袈裟である。プラセボ(確か乳糖だったと思う)を処方した。二三週してその患者さんがやってきて、「ありがとうございます。すっかり痛みがとれました」という。「ほらね」と思っていたら、二三ヶ月してその患者さんが顕性黄疸の状態で入院してきた。膵癌だった。癌の疼痛さえプラセボでとれることを教えられた。
 われわれが漠然と「心」と呼んでいるものが疾病の多くの過程に決定的な影響をあたえているのは明らかなのだけれど、それをわれわれが非常に意外に感じるのはデカルト的な心身観にわれわれが強く囚われれていることが大きいと思う。デカルトによれば心と体はほとんど独立したもので、かろうじて松果体だったかで細々と連絡しているわけだから、心が体に大きな影響をあたえることは考えにくいことになるからである。
 あるいは意識とか理性という言葉で呼んでいる何かは身体とはほとんど独立したものであると感じているが、感情だとかいうことになれば、それは身体に影響することはあるだろうと感じる。
 ダマシオの著作が西欧であれほど関心をあつめるのも、西欧世界で感情という方向が不当に低く扱われていたからなのであろう。あるいはカーネマンらの行動経済学が注目されるのも人間は理性的存在であるという西欧が抱いてきた信念に大きな異をとなえるものであるからなのであろう。
 そしてハンフリーの著作に典型であるが、われわれがいなかる動物であるかということは結局、進化生物学の基盤にたって考えるしかないのであるから、医療の基礎もまた進化生物学のうえに構築されるしかないということになるのだと思う。
 

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