与那覇潤 「平成史 1989-2019 昨日の世界のすべて」(文藝春秋 2021)(3) 第二章 奇妙な主体化 1991-92(その1)p50から67

 最初は、91年4月に柄谷行人浅田彰が「批評空間」を創刊したこと、92年1月から漫画家小林よしのりが「SPA!」で「ゴーマニズム宣言」の連載を開始したことの指摘から始まる。
浅田氏は1983年「構造と力」でデビュウ、ニュー・アカデミズムのスターとされた。1984年には「逃走論」が発表される。
 今、本棚を見たら買ったはずの「逃走論」が見つからなかった。「逃げろや、逃げろ」といった文言があったような気がする。記憶では「ドロップのすすめ」の本、既成の体制にまきこまれるな! という煽りの本であった。それが可能であるのは日本が経済的に世界のトップの豊かな国になったからで、そうであれば正社員になるなど愚の骨頂、遊んで金がなくなったらバイトする生き方をこそ選択すべきである!
 1980年代のバブル期には、アルバイトの賃金も上がり、就職しなくても生きていくこと生計を立てるが可能になったように思う人が増えた。このころにフリーターという言葉もできた。この言葉が出来た頃のフリーターは“不安定な雇用”ではなかった。フリーターの選択はナウい生き方だった。
フリーターの状況が一変したのは、アルバイトの賃金が急速に落ち込んだバブル崩壊後で、フリーターとして生きていくことは困難になった。就職氷河期が到来した。
 ニート( Not in Education, Employment or Training, NEET)という言葉が日本で人口に膾炙するようになったのは、2004年、玄田有史氏がその言葉を日本に紹介したのがきっかけとなったようである。
フリーターからニートへ。ちょうどその端境期に浅田氏の本は書かれているわけである。

 さて、小林氏の「ゴーマニズム宣言」はまったく読んでいないので何も言えることはないが、当時のインテリ・知識人の偽善を撃つという点でそれなりの影響力を持ったのであろうと思う。「ごーまんかましてよかですか?」(この言葉くらいは聞いていた)というのは「インテリの傲慢」を撃つ!ということであり、その傲慢のあらわれが1991年初頭の湾岸戦争に際して発表された「湾岸戦争に反対する文学者声明」であった。

 声明1 私は日本国家が戦争に加担することに反対します。
 声明2 戦後日本の憲法には、「戦争の放棄」という項目がある。それは、他国からの強制ではなく、日本人の自発的な選択として保持されてきた。それは、第二次世界大戦を「最終戦争」として闘った日本人の反省、とりわけアジア諸国に対する加害への反省に基づいている。のみならず、この項目には、二つの世界大戦を経た西洋人自身の祈念が書き込まれているとわれわれは信じる。世界史の大きな転換期を迎えた今、われわれは現行憲法の理念こそが最も普遍的、かつラディカルであると信じる。われわれは、直接的であれ間接的であれ、日本が戦争に加担することを望まない。われわれは、「戦争の放棄」の上で日本があらゆる国際的貢献をなすべきであると考える。われわれは、日本が湾岸戦争および今後ありうべき一切の戦争に加担することに反対する。

 この声明のあやうさをもっとも的確に指摘したのが加藤典洋氏であったと与那覇氏はしている。
 わたくしが加藤氏に抱くイメージは何よりも精緻な小説の読み巧者というものあるが、ここでは、「敗戦後論」(講談社 1997年)をとりあげる。これは3つの論「敗戦後論」「戦後後論」「語り口の問題」の論を収めるが、「敗戦後論」は95年の発表である。わたくしの記憶ではこの論で氏は論壇からボコボコにされたというか集団リンチにあって満身創痍という印象であった。
 「三年前(1991年)、湾岸戦争が起こった時、・・さまざまな「反戦」の声があがったが、わたしが最も強く違和感をもったのは、その言説が、いずれの場合にも、多かれ少なかれ、「反戦」の理由を平和憲法の存在に求める形になっていたことだった。
 わたしは、こう思ったものである。
 そうかそうか。では平和憲法がなかったら反対しないわけか。」
 「それは、他国からの強制ではなく、日本人の自発的な選択として保持されてきた。」これは明白な嘘であって、「それは当時の連合国総司令部の発意により、その力で作られ、わたし達、占領下の非独立国である戦後日本の国民、政府に、手渡された。正確にいえば、押しつけられたのである。」
 草案が日本に提示された時、日本側に検討のためにあたえられた時間は15分!(すでに日本側がつくった松本案はGHQから拒否されている。)司令官マッカーサーはこれ以外のものを容認しないだろうとの言明つきで。この草案は原子爆弾という権力によっても裏付けられていた、と加藤氏はいう。GHQ案の手交の相手は白洲次郎
 そして押し付けられた憲法を日本人はいつの間にか「案外使える」と感じ出した。この憲法を強制されたが、そして根こそぎそれに説得された。それならもう一度自発的に選び直せばいいはずなのだが、しかし、押し付けは事実としても、現在のわれわれはそれをよきものと肯定しているのだから、それでいいではないかという方向で現在にいたっている。
 しかし、当時それに抵抗した学者がいた。美濃部達吉である。「帝国憲法ポツダム宣言を受け入れた時点で無効になっている。」「改正案で否定されている枢密院が、改正を議論するのは不可解。」「前文に「日本国民が制定する」と記されて改正案が、勅命により政府が起草し、議会の協賛、天皇の裁可で公布されるのは、「虚偽」。美濃部の改正案。「第一条 日本帝国ハ連合国ノ指揮ヲ受ケテ 天皇コレヲ統治ス」 美濃部は新憲法が満場一致ではなく反対者がいたことが「新憲法」を正当化するものと考えていた。
 「敗戦後論」37ページに林達夫の「Occupied Japan 問題」への言及がある。林氏が敗戦の直後に提示した問題は現在に至るまでまったく解決していない。
 さて与那覇氏の本に戻る。大学改革についての議論はスキップ。
 67ページから「昭和の老兵が去りゆく」として山本七平氏やや村上奏亮氏が論じられるが、長くなったので稿を改める。