吉川洋「高度成長」(3)「右と左」

 
 第6章は「右と左」で、高度成長前後の政治の部分を論じる。
 1960年、日米安保条約改定で岸内閣が退陣した後継の池田勇人首相は「所得倍増計画」をかかげ、ここから本格的な高度成長がはじまる。岸内閣までが政治の季節で、池田内閣以後は経済の季節に変わることになる。
 しかし1950年代は「《社会主義運動》の高揚」の時代であり、「日本社会党に代表される左派が、保守政治に対するリアリティーあふれる対抗勢力たりえたところに50年代の真骨頂があった」と吉川氏はいう。56年には「ハンガリー事件」があり、ソ連による弾圧的な東欧支配の実態が明らかとなったが、社会主義に期待を寄せる一大勢力が存在していた、と。
 1960年にワシントンで調印された新安保条約の国会での承認をめぐって戦後最大の国民運動となった大反対運動がおきた。その理由として吉川氏は「多くの国民がアメリカの反共戦略に深く関わることに危惧を抱いたこと、岸の強圧的な政治姿勢に反発したことをあげている。
 「平和憲法」「戦後民主主義」擁護、「原水爆禁止運動」などの政治闘争では明確な目標と大義名分ももった社会主義運動も、「経済闘争」においてはそうではなかったとして、吉川氏は「社会主義勢力」の「経済闘争」の検討にうつる。
 「社会主義勢力」、特にその左派は、経済問題の「究極的・抜本的解決」は資本主義を打倒し、社会主義を実現することしかないという立場をとったので、(生活に豊かさをもたらすはずの)技術革新や合理化にも「階級闘争路線」からの真っ向から反対の立場にたった。それを吉川氏は問題とする。たとえば1956年の八幡製鉄労働組合は「労働者を犠牲にする生産性向上運動反対」というスローガンを掲げている。それについて氏は「パイを大きくする技術革新や生産性向上に反対するよりも、大きくなったパイから正当な分け前を得るほうがずっと「利口」ではないか?」と首を傾げる。そういうパイの拡大論を「階級意識が低い」などといって批判しても、そんな批判は「階級意識の高い」一部のひとにしか通用しないのだ、と。実際に1960年代になると八幡製鉄の労組も「合理化の成果を収穫する闘争」へと変わっていった。
 社会党のなかでも「パイ拡大」路線につながる「構造改革」論(江田三郎)がでたが、左派と総評から「改良主義」と批判されて敗退した。
 左派階級闘争路線の典型として吉川氏が挙げるのが1959〜60年の「三池争議」である。石炭から石油へという「エネルギー革命」で縮小せざるをえなくなっていた石炭産業という現実を直視せず、向坂逸郎などを理論的指導者と仰ぐ社会党左派や総評が三池争議を「総資本対総労働の対決」と位置づけ、職場闘争を通じての革命拠点の構築といった時代錯誤な(とは書いていないが、吉川氏はそういいたい口吻である)方針を打ち出したため、何ら成果なく争議は終った。それとともに政治の季節も終わったと吉川氏はいう。
 その後、論は池田内閣の所得倍増計画に移る。今でこそ60年代の高度成長を事実としてわれわれは知っているが、50年代の後半には日本経済の先行きには悲観的な見方が大勢であった。1956年の経済白書での有名な「もはや戦後ではない」というフレーズは、戦後復興が一巡した後は、成長率が下がるだろうという危機感の表明の言葉でもあった。その中で例外的にきわめて楽観的な見通しをもっていた大蔵省エコノミストの下村治の論に基づいたのが池田勇人の「所得倍増計画」であった。年率7.2%で10年で所得倍増という計画であるが、実際には平均で10.5%の成長が10年続いた。
 こういう状況を左派はどうみていたのか? 1965年に「不況」がおきたが(といっても6.4%の成長への低下)、それを恐慌(あるいはその前触れ)と見ていた。資本主義はいずれ恐慌をおこし崩壊するのだから、資本主義体制の中ではしょせん何をやっても無駄、社会主義社会になるのを待てというような論であった。
 農村から都市にでて「都市プロレタリアート」となった労働者がなぜ、社会党を支持せず棄権にまわったのか? 左派が政治闘争はできても「経済闘争」のシナリオは書けなかったためであると吉川氏はしている。
 高度成長期以後現在まで、破局的な恐慌はおきていない。所得も増え、その平準化も進んだ。国民の86%が自分を中流と感じるような時代になったのに、50年代型の資本主義対社会主義、資本家対労働者の図式にこだわる左派が凋落していったのは当然であると吉川氏はいう。だが、60年代後半になると、高度成長にともなう歪みもまた明らかになってきた。都市の過密や公害などである。その結果、「住民運動」が生まれ「革新知事」が生まれた。67年、社会党共産党推薦の美濃部亮吉都知事に当選し、75年には十都府県の知事が革新知事で占められるという状況になった。しかし、国政では社会党の凋落はとまらなかった。69年の総選挙では140から90へと大きく議席を減らした。
 72年に成立した田中角栄内閣による「列島改造論」は、終焉しようとする高度成長を土木工事によって延命させようという「徒花」であったと吉川氏はしている。
 
 1960年あたりにはわたくしも中学生だから、リアルタイムに覚えていることもいくつかある。安保改訂への抗議のデモ隊が国会へ入り込んだ時に、ラジオでだったと記憶しているが、中継者が「今わたくしは警官に殴られています」といったことを現場から叫んでいたのを覚えている。また池田勇人が首相になったとき、「低姿勢」ということをいっていた。もちろん、その前の岸信介が「高姿勢」だったわけである。所得倍増計画を説明して「わたくしは嘘は申しません」というようなことを標準語のイントネーションとはいささか異なる抑揚で言っていたのも覚えている。
 池田内閣の所得倍増計画が計画以上の成果をもたらしたこと、社会党が凋落し、現在、細々と社民党という形で残っているだけであることを、われわれは事実として知っている。しかし、本書によれば、所得倍増計画というのがうまくいくだろうと思った経済学者はマルクス経済学者ばかりでなく「近代経済学」(マルクス経済学ださかんな時代には、非マルクス経済学をこう呼んでいた)者でもほとんどいなかったらしい。もしもマルクス経済学者が現在でもまだ健在であれば、リーマンショックを、あるいは日本の「失われた10年」あるいは「20年」をもまた恐慌前夜などといっていたのではないかと思う。わたくしが大学に入った時の東大の経済学部の半数がマルクス経済学派であったと思う。そのひとたちはどこにいってしまったのだろうか?
 60年安保までで国政レベルでの政治の季節は終わったのかもしれない。しかし学生運動のレベルにおいては、たとえそれが実効性のないものであったとしても、60年安保の前から非共産党系が主流になった強力な運動が存在し、安保闘争のあとにおいても、わたくしの大学の時代までは、一定程度の影響力は残していたと思う。学生の間では政治の季節は終わっていなかった。現実世界においても、東大の入試を一回中止させる程度のインパクトはもったわけである。
 学生の運動であるから、経済ではなくもっぱら「思想」を問題にしたのだと思うが、社会主義青年同盟とか革命的マルクス主義者同盟とか、(実際に社会主義あるいはマルクス主義とどのように関係していたのかは多くの議論があるであろうが)社会主義とまったく無縁というものではなかったと思う。そして、現実には挫折したこの運動のなかから後世の多くの日本の「考える人」がでてきた。たとえば吉本隆明氏であり内田樹さんである。加藤典洋氏などもそうだったのではないかと思う。
 それは貧困とか不平等とかとは異なる何かを問題としていたはずである。この「右と左」の章で一番、わたくしが不満に思うのは、「日本社会党に代表される左派が、保守政治に対するリアリティーあふれる対抗勢力たりえたところに50年代の真骨頂があった」と書きながら、なぜリアリティーを持てたのかという点がまったく考察されていない点である。違っているかもしれないが、吉川氏にはそれがまったくリアルなものとは感じられなくて、ただ不思議で仕方がないのかもしれない。そうであれば、向坂氏のような左派のイデオローグはただ蒙昧なだけである。
 だが向坂氏はマルクス主義の理論にかんしては大学者であって、よく知られているようにマルクス関連の文献の蒐集にかんしては世界一といわれたひとである。マルクスが正しいことを前提とした世界の中で議論したら容易に負けることはなかったひとで、「構造改革論」や「江田ビジョン」などは「手もなくひねられ」たわけである。吉川氏の本で「改良主義」という言葉がでてきたが、これは左派陣営内での悪口であって、所詮は消えゆく運命の資本主義のもたらす惨禍をいささかでも「改良」などしていたのでは資本制の延命に手を貸すことになるのだから、それは利敵行為であり、断じて許せないものなのだった。
 なぜ「日本社会党に代表される左派が、保守政治に対するリアリティーあふれる対抗勢力たりえた」のか? 現実の国家としてソヴィエト社会主義連邦という国があり中華人民共和国があったからだと思う。向坂氏などはハンガリー動乱を西側の宣伝に煽動された愚か者の蠢動のようにいっていた。ソ連を本当に天国あるいは天国にむかって着々と歩んでいる国のように思ったいたらしい。西側諸国の指導者などは所詮各階層の利害の調整者か、ある階層の利権の代表者に過ぎないが、東側を指導するのは胸に高い理想を抱く人たちであると本気で思っていたのだと思う。理想主義によって運営されている国が世界に現実に存在していると思われいた。
 また左派の理論によれば、戦争は資本制社会の産物であり、世界が社会主義で覆われた暁には世界から戦争がなくなることになっていた。労働者には国境はなく、万国の労働者が団結した暁には争いなどがおきるはずはないのだった。朝鮮戦争は北側から仕掛けたものであると現在ではされていると思うが、当時は平和勢力である北のほうから侵略するなどということはありえないと真顔で主張するひとがたくさんいたらしい。
 少しは生活のレベルがあがるなどというのとは根本的、根源的に異なる、同胞が相抱きあい、人びとの目が理想に輝いているような美しい世界が地上に現出することが本気で信じられていたのだと思う。スターリン批判などでソ連の実態がどうもそんなものではないらしいとわかってきたあとでも、文化大革命などに希望をつないだひとも多かったと思う。永久に続く革命・・。地上に天国はついにこないのかもしれないが、その理想にむかってずっと歩み続けること。
 学生達の運動は「反帝反スタ」などといっていたわけだから、資本制も現実に存在している社会主義国家群も(そしてそれに繋がっている日本共産党社会党左派も)否定し、第3の道が模索されていたわけである。
 おそらく学生達は「黙示録」の夢を追っていたのであろう。ここで唐突に「黙示録」などというのがでてくるのは、わたくしが初めて思想めいたものに触れたのが福田恆存の著作によってであり、その福田氏が「私に思想というものがあるならば、それはこの本によって形造られたと言ってよかろう」という「この本」がロレンスの「黙示録」論(邦訳題名は「現代人は愛しうるか」)だからである。「ユダヤ教終末観より現実世界の腐敗堕落を侮蔑否定し、不当に蒙っている現世の悪と不幸とから逃避せんとするひとびとの心が描きだした幻影は、未来のミレニアム=至福千年への憧憬であり、メシア再臨と聖徒の統治というはなはだ復讐的な信仰であったが、当時の黙示文学とはすべてその途方もない願望と夢の縮図にほかならなかった」とその黙示録論の訳者解説で福田氏はいっている。学生達の運動は「至福千年」と「聖徒の統治」という夢を追うものだったのである。しかし、現在では「至福千年」はもとより、第3の道はおろか、市場主義経済体制というただ一つの道しかないことになってしまっている。その間、まだ50年もたっていない。
 ソ連が崩壊し、文化大革命の実態が明らかになり、経済の運営は市場経済のやり方しかないということになってくると、「理想」が失われたのである。本書巻末の「経済成長とは何だろうか再論」で、19世紀初頭のヨーロッパにおける新思潮としてのロマン主義について吉川氏は述べている。それは勃興しつつあった資本主義へのアンチテーゼであり「反経済」だったのであり、そしてそれと対峙するのが「合理主義」なのである、と。
 そのわけ方からすると、社会主義ロマン主義の一派ということになる。ところがマルクスによれば、歴史の動向を規定するのは生産力というモノなのであり、生産力というモノは合理主義で計測でき動向を予想できるものなのである。とすれば、マルクス主義ロマン主義と合理主義を奇妙なかたちで結びつけるものなのであり、それこそが魅力だったということになる。
 吉川氏もロマン主義的心情は歴史をたどればいくらでも遡れるとするのだが、多くのひとをマルクス主義あるいは社会主義へとむかわせたものはその「至福千年」説、「虐げられたもの」にこそ「正義」はあり、その「正義」はいずれ現世においても回復されるという見取り図なのではなかったのだろうか? そして東の国々は「千年王国」にむかっていささかでも歩みを進めつつある国であることが幻想され、聖徒の支配する国であることも幻視されていた。レーニンスターリン毛沢東も聖者だったのである。ホーチミンもまたそういうあつかいであった。。
 しかし、その東欧圏が崩壊し、中国が市場経済に走る現在となっては、「理想」が消えた。「ロマン」が失われたのである。「千年王国」の夢も消えたのである。後に残るのは砂を噛むような「現実」の世界、モノとカネの世界である。あるのは高々、便利と享楽だけである。
 それでいいのだ、あるいはそれしかないのだと(はっきりとはいわないが)吉川氏は思っているようである。吉川氏は「骨が語るお江戸事情」という新聞記事を引用する。江戸期の人びとの骨をみると、栄養状態が悪く、若い人のものが多い。伝染病が流行し、人は簡単に死んでいったのだろうと思われる。成人の平均身長が男が150cm半ば、女性はそれより10cmほど低い。これは日本の歴史の中でも最悪の数字である。狭い長屋などに密集して住んでいたことも悪かったのだろう、マルサスの「人口論」そのままの世界である、と。
 経済学に「理想」や「聖人」を持ち込む方向は吉川氏には学問とは縁もゆかりもないものと思えるのであろう。事実、現在の経済学からはそのようなものはまったく消失してしまっている。あるものはせいぜいのところ「福祉」である。その福祉の観点からみれば、現代はあきらかに江戸時代よりもいい時代である。そしてそれを可能にしたのが経済の成長なのである。
 もちろん、経済成長がいいことばかりをもたらすわけではない。たしかに成長期に寿命は大幅に延長した。それは成長の光の部分である。しかし影もまたある。それらの問題が次章「成長の光と影 ― 寿命と公害」で論じられる。
 

高度成長 (中公文庫)

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