堀井憲一郎「1971年の悪霊」(5)

 最終章である第9章の「左翼思想はどこでついていけなくなったか」は著者の堀井氏の個人史を述べたものである。1958年生まれの堀井氏はわたくしより10歳くらい年下であるのでおのずとその経験が異なるわけであるが、まず堀井氏の個人史から。
 1970年ごろ、世の中では"進歩的左翼思想”が大流行中であったという。堀井氏が二十歳を過ぎたころである。これは日露戦争の後から流行ってはいたが、敗戦以降、すさまじい流行りようであった、という。1970年ごろ、進歩的左翼思想は、言論界の主流であり、多くの知識人が、左翼的な考えを支持していたのだ、と。
 堀井氏が中学にはいったころは、その当時の雰囲気にしたがって左翼思想がいいな、と思っていたという。1972年中三の時、社会の授業で「世界には、資本主義と社会主義がある。資本主義はお金持ちと貧乏人に分かれる。社会主義は平等を目指す。利益は平等に分配される。社会の先生はどちらがいいと思いますか、と問うて授業を終えた。決して強制はされなかったが、当然生徒は社会主義を選ぶ。堀井氏もまた。そしてその目でみると新聞もテレビも雑誌もみな社会主義を支持しているように思えた。1970年代の左翼思想は輝いていたのだ、と。
 そして、それを支持する人々がまた多くいたことについては、それは社会の気分によるものだったとしている。「ニッポン、まだまだだな」という気分。敗戦後、随分よくなってきたとはいってもまだまだ貧しいという思い。
 ここで註すると、堀井氏は進歩的左翼とひとくくりにするけれども、60年代から70年にかけてその内容が随分と変わったと思う。左翼には旧左翼と新左翼があって、安保反対運動の過程で政党の指揮に反旗をひるがえした新左翼の残した大きな功績がいわゆる進歩的文化人(旧左翼?)の化けの皮を剥がしたことではないかと思っている。
堀井氏が進歩的左翼思想といっているものはどうも旧左翼のほうのことを指すような気がするのだが、ニュー・アカデミーとか「アンティ・オイディプス」とかは左翼の方面では全然ないはずだが旧左翼の人たちよりもずっと元気がよかった。
1971年当時中学2年の堀井氏が「豊かな社会」として夢想したのが「真夏でもどこいっても冷房がきいていること」「真冬でも、アイスクリームを買って食べられること」。
 1970年11月25日の三島由紀夫の事件も、このような右翼的事件には世間の反応は冷たかったという記憶がある、と。
 左翼陣営は「反戦・平和」を掲げていたから、戦後社会を善と考える側は当然それを支持した。
 また註すると、基本的に日本の戦後社会をもたらしたものはアメリカでありそれは民主的といわれる何かであり、それに対語となるのが封建的という言葉だった。戦前までは封建的であった日本が、戦争に負けたおかげで戦後になって民主的になれたという思いが多くの日本人にはあり、ここで堀井氏がいっている豊かさというのはアメリ的豊かさを指していると思う。そのアメリカが西側を代表して東側と対峙して冷戦の関係となってきたという捻じれが問題を複雑にした。
 堀井氏によれば、左翼思想への共感が次第に失われていったのは、生活が豊かになっていったからだという。そしてバブルの頃、アメリカ経済に勝ち、自分たちは貧乏から脱却したと思うようになった時期から左翼の凋落は始まったという。その果てに1989年にベルリンの壁が崩壊した。
 1993年の自民党過半数割れの選挙で自分がどこに投票したかを覚えていないくらい、そのころには政治についての関心を失っていったと堀井氏はいう。さらに非自民の細川内閣とそれに続く社会党自民党の連立!の村山内閣にいたって、革新に何かを期待していた自分の中の何かが失われ、以後、左翼について一切の幻想を持たなくなったという。左翼もまた政権奪取ゲームの参加チームの一員に過ぎなくなったと感じた、と。
 しかし、それでもまだ「かつて共産主義が好きだったという幽霊」はまだどこかに生き残っていると堀井氏はいう。それが2009年の「一度は民主党にやらせさてみようじゃないか」という不思議な心情に繋がったのではないかという。本書の「1971年の悪霊」とはそのことを言っている。
 
 この最終章は25ページほどなのだが、そこで社会主義共産主義の違いとかいろいろなことが説明されている。けれどもそれは、ちょっといくらなんでもというような図式的な説明が多い。たとえば、社会党の方が共産党より穏健路線であると書かれている。それはマルクス主義の発展段階説での社会主義の先に共産主義があるという図式によってそういわれる。
 しかし日本共産党日本社会党のどちらが過激であったかといえばわたくしは社会党だったのではないかと思う。社会主義協会向坂逸郎氏などは、三池炭鉱闘争などは革命運動だと思っていたと思うし、もしも社会党が議会で多数派を占めるようなことがあれば、直ちに議会を閉鎖して一党独裁体制を移行するようなことを夢想していただろうと思う。向坂氏のような人間にとって、マルクスの述べたことはマルクスによる一つの見方とか考え方なのではなく「真理」なのであるから、議会で多数の賛同を得るなどというまだるっこしいことなどは本来不要なのであって、だから三池炭鉱闘争に呼応して全国の労働者が蜂起して暴力的に権力を奪取するようなことがおきるのが理想であり、それが叶わないとしても、一旦、自派が議会で多数を得るようなことがあれば、その握った権力を二度と手放すことはあってはならないのだから、以後は国民の信を問うなどというまだるっこしいことはせずに独裁に移行して、自分たち前衛こそが知っている「正しい」ことを実現させていけばいいのである。マルクスの述べたことが真理であるのだから、構造改革路線などというものを論破することなどは赤子の手をひねるよりも簡単なことであった。
 日本共産党がある時期、武装闘争路線に走ったことは事実であるが、これは自分で考えたことではなくモスクワの指令だったのであり、モスクワにしても、世界が共産化することではなく、自国の維持のためにはどの路線が有利であるかによって方針を変えたのであるから、日本共産党が自主独立路線にたった以降は真剣に武装闘争などを志向したことは一度もないと思う。日本共産党が政権の奪取ということをそれなりに視野にいれていたのは美濃部都政あるいは蜷川府政あたりまでで、それ以降は政権への展望などはまったくひらけていないだろうと思う。それどころか、むしろ現状維持に汲々としていて政権どころではないだろうと思う。(革新都政がいわれた時代、共産党社会党にくらべ少数ではあったが、理論闘争をしたら社会党に簡単に勝てて主導権は握れると思っていたのではないだろうか? 何しろ民主集中制で一枚岩であったのに対し、社会党など一人一派とまではいわないにしてもみんなてんでに勝手なことをいっているに等しい政党であったので。)
 本書を読んでわかるのは堀井氏にとって、つねにマルクス主義は一つの見方であるに留まって、歴史の発展段階説をふくめて生産力が社会の構造を規定するという見方、上部構造下部構造といった見方、要するに恣意的な一つの説でなく、客観的科学的な法則として出現してくる共産主義的社会といった見方にはまったく親和を感じていなかったであろうということである。

 それで堀井氏より10歳ほど年上である自分はどうであったかを振り返ってみる。自分が社会主義とか共産主義という方向にはじめて目をむけたきっかけは60年安保の騒動によってだったように思う。わたくしが中学2年の時である。国会前の広場からのラジオの中継でアナウンサーが「今、わたしは警官になぐられています」というような中継をしていたのを聴いたような記憶がある。
それで「空想から科学へ」とか「共産党宣言」のような入門書的なものを少し読んだ。恥ずかしいが、後にも先にもマルクス主義にかかわる一次文献を読んだのはこのときのこれだけである。
 そして社会主義が平等をめざし、貧困の問題を解決しようという運動であることを理解したように思った。そうであるならば誰一人として反対するものがいるはずのない正義の運動であるはずなのに、高度の知性を持っているようにおもわれるひとの中にマルクスの説に明白に反対しているひとが少なからずいること、単に反対するというのではなく命を張ってまでしてそれを阻止しようとするひとが少なからずいることも知った。なぜそのようなことがあるのかを見ていくうちに、マスクス主義あるいは社会主義をそれが全体主義であるという方向から批判しているひとがいること、そもそもマルクス主義が依拠する人間観が浅薄なものであるとしているひとがいること、一番基本的には、社会の体制を変えることで人間が変わるあるいは変えることができる(下部構造が上部構造を規定する)という見方に対して人間の本性はずっと変わることはないという方向から反対しているひとがいることなどを知った。
 一党独裁ではない民主主義的な政体のもとで福祉などの充実などによって社会主義的な方向をめざすという混合経済体制というような議論もあった。低開発国が離陸する過程においては社会主義的な方向が有効であるとする論もあった。
とにかく、いろいろな論を知ると社会主義とか共産主義も絶対的なものではなく相対的なものと思えてくるので、とにかく自分のなかで進歩的左翼路線がとても魅力的と感じることは中学高校時代もそれ以降も一度もなかったように思う。
高校時代にはその頃の流行と入試によく出るので小林秀雄なども読んだが、小林は《しゃらくさい》インテリが大嫌いなひとで、どう考えても左に親和性のあるひとではない。というか小林の論のたてかたは一部の知識人の進歩派否定論の典型の一つではないかと思う。
それやこれやで、左翼方面の思潮も数多あるものの見方の一つとして特に有難かることもなく見られるようになった。しかし、小林秀雄ランボー→反権威・反抗という方向から学生運動にむかった人間もある割合でいたのではないかとも思う。
 そういう状態で大学に入り、教養学部では吉行淳之介などに入れあげているうちに医学部進学となり、駒場から本郷にいった途端、東大紛争(闘争)に遭遇することになったわけである。それで、この紛争(闘争)が少しでもマルクス主義と関係があるものであるのかどうかがわたくしの関心となる。
 わたくしの乏しい知識によれば、60年安保以前は学生の政治運動というのは日本共産党日本社会党の下部組織であって、上部組織の指令にしたがって行動するのが原則であった。だから六全協のような方針転換においてはさまざまな悲喜劇がおきることになる。60年安保をきっかけに上の指示に従うのではなく独自に行動するようになったといっても共産党社会党からの分派であるのだからマルクス主義共産主義を基礎においていることは確かなはずであるし、事実、革命的マルクス主義とか社会主義青年同盟とかを自称していたわけである。しかし、よど号ハイジャック事件などを見ていると、北朝鮮がどのような国であるのかいささかでも勉強したことがあるようには思えないし、主観的にはどうであれ、客観的にみればほんのわずかでも実際の政治とかかわることをしていたようにも見えない。
 鹿島茂氏の「ドーダの人、小林秀雄」に河上徹太郎による小林秀雄論が紹介されている。そこで河上は小林の特性を嫌人性にみている。志賀直哉的嫌人性+ボードレールの嫌人性=小林秀雄の嫌人性。「自分以外のものはみんな嫌いだ!」の志賀直哉から、ブルジョアの一員であるボードレールブルジョア嫌悪というより進んだ自己言及的嫌人性へ。鹿島氏は小林秀雄ランボーをまったく誤読していたというのだが、日本で流布しているランボー像は小林秀雄がつくったもので、日本の学生運動には小林秀雄ランボー的なものが横溢しているように思う。自分一人のための政治運動! これはもう語義矛盾でしかないが、モスクワあるいは日本共産党の幹部会か何かの指令にしたがう一兵卒として参加する政治ではなく、いきなり一人一党で何が正しいかは自分が決める政治へという方向である。だからマルクスの名前がでてきたとしてもそれは自分のマルクスなのであるから普遍性は一切ない。
 それでも、当時の状況として同時に進行しているベトナム戦争があり、それは絶対的正義対絶対的悪の対峙のように受け取られていたので、自分が正義の側にいるという証として自分は東側と連帯しているという立場を表明する、その手段として社会主義マルクス主義という言葉が使われたということなのではないだろうか?
 一番大きかったのはマルクス主義を立国の礎としていると主張している国家が現実のものとしてこの地球上に存在していたことだろうと思う。その現実の国家が必ずしも理想的なものとはいえないとしても、現実のものとして存在する以上、もっとましなものも実現できる可能性があるわけである。
 だから東側の崩壊、ベルリンの壁の崩壊からソ連の解体までの過程で現実の存在としての共産主義的国家が地上から消滅してしまったことその過程でマルクス主義的な方向での国家運営が現実には難しいということを実証されてしまったことが左派の凋落の決定的な原因となったのではないかと思う。
 まだ現実の存在として中華人民共和国があり、朝鮮民主主義人民共和国も存在している。しかしそれがマルクス主義と何か関係があるものであるとはほとんどのひとが思っていないであろうと思う。
日本が高度成長を経て貧しさを克服できたと感じるようになったこと、それが左翼思想の人気の凋落の原因であると堀井氏はしている。今では死語であろうが、わたくしが若いことには非常によく使われた言葉に封建的というのがあって、多分その対語が民主的であった。封建的なものを打ち砕き民主的な何かをもたらしたのはアメリカであるとされていたと思う。石坂洋次郎的な何かである。
渡辺昇一氏は石坂洋二郎的な明るい戦後啓蒙に異を唱えたのが三島由紀夫であったとしている。そしてわたくしの理解では、日本共産党日本社会党は戦後啓蒙の系譜に属するのであり、全共闘的ものは三島由紀夫的な反=戦後啓蒙の路線の上にある。だから三島由紀夫と東大全共闘の間ではとにかく会話がどこかで成り立つ可能性があるのに対し、三島由紀夫日本共産党の幹部あるいは民青所属のひとと会話する可能性などまったく考えられないわけである。
 三島が死んだ当日、わたくしが三島の本などを読んでいることを知っていた同じクラスの民青の活動家が「三島のしたこと理解できる?」ときいてきた。「命と暮らしを守る」という路線からはあのような路線はどうしても理解できないらしかった。
この堀井氏の論からは日本に底流する三島的暗さという観点が抜け落ちているように思う。
 堀井氏は権力に対する反抗心というのが1970年代に物心ついた人にはどこかに残っていて、「かつて共産主義が好きだったという幽霊」がまだ時々復活するのだとしている。それが例えば2000年の民主党政権誕生騒ぎだったという。
 「かつて共産主義が好きだったという幽霊」がいまだに健在なのは朝日新聞で、民主党政権誕生時のはしゃぎようは尋常ではなかった。しかし朝日新聞的何かはまた三島由紀夫的な暗さをまったく理解できない存在である。全共闘世代で長い髪を切って朝日新聞に入ったひとも少なからずいるのではないかと思うが、いつのまにか朝日新聞社的何かに同化されてしまうのだろうか?
どうも堀井氏がここで述べていることについては、大事なことが抜けおちているのではないかという思いが残った。
 あまり世代論というのは信用していないのだが、本章を読むかぎり、やはり10年の差は大きいのかなということを感じた。わたくしはいわゆる全共闘世代ということになるのだと思うが、同じ世代同士であればいわなくてもわかるが、違う世代だと言っても通じないということがあるのだろうか?

1971年の悪霊 (角川新書)

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知的生活の方法 (講談社現代新書)

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腐敗の時代 (1975年)

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討論三島由紀夫vs.東大全共闘―美と共同体と東大闘争 (1969年)

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