橘玲「朝日ぎらい よりよい世界のためのリベラル進化論」(1)
橘さんは日本にときどき現れる確信犯的リバタリアンの一人だと思う。わたくしもまたリバタリアニズムに相当親和性のあるほうだと思うのだが、それ一本鎗でいけないのは、たとえば原口統三の「武士は食はねど高楊枝。全く僕はこの諺が好きだつた」などというのに無条件に共鳴してしまうところがあるからである。そういう目からみると、フリードマンとかベッカーといったあちらのリバタリアン本家は何かえげつないなあという思いを禁じえない(ハイエクはまだいいのだけれど)。なんだかお金についてえらくアグレッシブなのである。それに今一つ教養が足りないように思う。それと比べると、日本のリバタリアン、たとえば2011年に亡くなった竹内靖雄さんなどはもっとずっと大人だったという気がする。恒産なければ恒心なしでお金の問題はとても大事であることはよくわかるのだが、それは independent な人間として生きるための手段ではあっても、目的ではないだろうと思う。原口の「僕は狎れ合ひが嫌ひだ。僕の手は乾いてゐる。」「日本では年中黴が生える、この国の人々の手は汗ばんでゐる。」という方向からの「自立」はとても大事だとは思うのだが。
リバタリアンの系譜のはじめのほうにヒュームを置くのが適切かどうかはわからないが、渡部昇一さんの本(「新常識主義のすすめ」)でヒュームが晩年に簡明な自伝を書いていてそこで自分の資産の形成について細かく書いているということを知った。これも independent(働かないでも喰えるだけの不労所得がある)の例なのだと思うが、どうも日本人には(少なくともわたくしには)馴染まないような気がする。もっとも、この渡部さんの本でも、ヒュームがきわめて率直で簡明な自伝を書いたことが、後世の人間にヒュームを攻撃する一つの材料を提供してしまったと書かれているから、日本人に限ったことではないのかもしれないが。
武内さんの「経済思想の巨人たち」にケインズにはとても利殖の才があって、それで大学や周囲を大いに助けたようなことが書かれているが、竹内氏によれば、「ケインズには資本主義的メンタリティに対する嫌悪感があった。たかが金儲けではないか。自分の利益を追求するのは当たり前として、それしか考えない人間というのは尊敬するに足りる人間ではないし、自分の同類とは見なすに値しない人間である、というのがケインズのホンネではなかったかと思われる」ということになる。わたくしもまた資本主義的メンタリティに対する嫌悪感があるようである。もっともケインズと違って利殖の才などはゼロであるから、悲惨な老後が待っているだけなのかもしれないが。
それで橘氏も正統派リバタリアンの一人として、資産を運用して後顧の憂いのない老後を過ごすための指南のような方向の本も書いているが、そちらにはわたくしはあまり関心がもてない。それで、わたくしが橘氏の本領であると思うリバタリアン思想の方面をあつかっている本書をとりあげてみる。「朝日ぎらい」というタイトルであるがいささか羊頭狗肉であって、「あとがき」に書かれているように、井上章一さんの「京都ぎらい」のパロディなのだそうだが、井上さんの本がまともに「京都ぎらい」を論じているのに対して、「まえがき」に「インターネットを中心に急速に広がる”朝日ぎらい”という現象を原理的に分析してみよう」としたとは書かれているものの、橘氏が「インターネットを中心に広がる”朝日ぎらい”」の人々にまともな関心をもっていないことは明らかで、そして”朝日ぎらい”の人々が論敵にしている朝日新聞的リベラリズム=戦後民主主義もまたもはやまとも論じるに足るものとはしていないと思われるので、もし「朝日ぎらい」への応援歌を本書に期待すると肩透かしをくうと思う。それを期待する方はたとえば竹内久美子&川村二郎「「浮気」を「不倫」と呼ぶな - 動物行動学で見る「日本型リベラル」考」などを読まれたほうがいいと思う。これはトンデモ動物行動学者である竹内久美子氏(動物行動学の知見を現在の社会事象の分析に用いるその用い方がきわめて恣意的であるという意味でトンデモ)と長年朝日新聞社につとめ週刊朝日の編集長まで勤めながら嬉々として朝日新聞の悪口をいうという武士の風上にもおけない(と思うわたくしは古いのだろうか?)川村二郎氏との対談本であるので”朝日ぎらい”のひとが読むと留飲が下がるかもしれないが感情の消費だけであって、後に特に何かが残るということはない本であろうと思う。
本書はトランプ現象や欧州の右傾化をどう理解していけばいいかについて、一つの有力な視点を提供するものであり、つまり”朝日ぎらい”もその大きな流れの系としてみればいいということを教えてくれるという点で、”朝日ぎらい”といった狭い観点を超える視座を提供してくれるものとなっている。
本書の一番の基本的な視点は、世界はリベラル化しつつあるということ、それゆえにそれへの反動として「ネトウヨ」のようなものがでてくるというものである。
では橘氏がいうリベラル化とは? それは、「やりたいことは(法に反しないかぎり)自由にできる」「やりたくないことは強制されない」という自己決定権に基礎をおくのだそうである。そして、それは世界で急速に進展するAIなどのテクノロジーを背景とする知識社会化とグローバル化とは密接に関連しているのであるとされる。その社会では知能(学歴ではない。ビル・ゲイツもS・ジョブズも大学を出ていない)それもきわめて高い頭脳をもった人間のみがイノベーションを生み出せる。そして、その知能は国境を容易にこえるので、流通するのは個々の狭い地域をこえた普遍的な価値観のみということになる。
しかし現実には、普遍的な価値観とは真逆な主張が勢いを増してきている。ヨーロッパでは極右政党が台頭し、アメリカではトランプ大統領が出現した。それはグローバルに進む知識社会の流れから脱落するひとが増加している(中流の崩壊)ことを反映している。それは知識社会化という大きな波にのれず、見捨てられた白人の失地回復の運動なのである。
大きな視野で歴史を見ると、欧米社会においてルネッサンス以降、人種差別、女性差別、子供への虐待などあらゆる面において「リベラル化」が進行しており、特にそれは第二次世界大戦後に顕著である(ピンカー「暴力の歴史」)。
妻は夫の所有財産である(しかも家屋より下の)という意識は世界のどこにおいてもかつては普通に見られた。しかし、現在ではそれはもうありえない。これはフェミニストの運動の成果もあるが、女性の社会進出によるユニセックス化の影響も大きい。
現在では犯罪であることが自明とされているDVもかつてはそうはみなされなかった。現在では子供への虐待ともなされることもかつては「躾」であった。ピンカーによれば、その変化は「電子革命」による知識の拡散によるところが大きいという。(とはいっても、信仰の自由と世俗主義、経済格差と自己責任、地球温暖化、原発の是非などの問題は未だ残っているが。)
日本でもまたリベラル化は進行している。世界標準の考えが急速に普及しているから、森友学園の特異な教育方針はただもう奇妙で面白おかしいものとして報道された。
世界中でリベラル化は進行しているが、それとともに表面にでてきたのが「アイデンティティ」の問題である。というところまでが、PART1で、PART2はしたがって、アイデンティティの問題を論じることになる。
わたくしがはじめてアイデンティティという言葉に接したのは江藤淳氏の「成熟と喪失」でだったのではないかと思う。この昭和42年(1967年)刊の本をおそらく大学の教養学部時代に読んだのだが、これで「第三の新人」を知り、吉行淳之介を知って、結果、教養学部時代はもっぱら吉行を読んで過ごすことになった。「成熟と喪失」はエリク・エリクソンの「幼年期と社会」に大きく依拠している本であるが、ここにアイデンティティという言葉がでてきたのかはよく覚えていない。あるいはエリクソンの名前だけを憶えて、後にそれががアイデンティ概念の創始者であることを知って、結びついたのかもしれない。そこで引用されるのはもっぱら「ゆっくり行け、母なし仔牛よ せわしなく歩きまわるなよ」というカウボーイの歌であり、アメリカの青年が早くから母から切り離され自立をうながされるのを、日本の母児密着と対比して論じることが主眼となっている。
アイデンティティはむかし自己同一性といった訳が使われていたと思う。自分が自分であるということを自分で肯定できる、もっと簡単にいえば、自分に自信を持てるといったことなのだろうと思う。本書ではそれがいわゆるネトユヨの問題とからめて論じられている。これについては稿をあらためて考えて見ることにして、ここでは残りで知識社会化の流れのなかでの橘氏のいうリベラル化の進行ということについて考えてみたい。
橘氏は「やりたいことは(法に反しないかぎり)自由にできる」「やりたくないことは強制されない」という自己決定権にそれは基礎を置くというのだが、そもそも自分が何をやりたいかを自分で決めていいなどということが夢想だにされなかった時代も長くあったわけである。ある日ある時にあるところに生まれたことにより自動的に何をするかが決められてしまった時代が延々と続いてきた。そうではなく、自分の主人公は自分であって自分の運命は自分で決めるという行き方が当然とされるようになったのはそんなに昔のことではなく、西欧近代のある時点からのことではないかと思う。それは《個人》という概念の創出とワンセットであって、その概念の創出にともなって小説もまた生まれた。
橘氏は世界標準というが、もともとは西欧由来の概念であって、そのことが問題を複雑にしている。クンデラがいうように「個人の尊重、個人の独自な思想と侵すことのできない私的生活の権利の尊重、このヨーロッパ精神の貴重な本質は、小説の歴史のなかに、小説の知恵のなかに預けられている」のだとしても、誰もが見てとることができるように、小説という形式はもはや衰微しつつあるわけで、さらにいえば出版という業態自体が斜陽になってきているわけで、リベラルであるということがある一部の特権的な人達にしか保証されないものとなってきていることが問題の一番の根にあるのではないかということを強く感じる。このことはあらためてPART2を論じる場で考えてみたい。
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