橘玲「朝日ぎらい よりよい世界のためのリベラル進化論」(2) 

 内田樹さんの2002年の本「「おじさん」的思考」は「日本の正しいおじさん」擁護のための書であることが言われている。そこでは内田氏自身は、どちらかといえば「日本の悪いおじさん」であって《インテリで、リベラルで、勤勉で、公正で、温厚な》「日本の正しいおじさん」に逆らい反抗の限りを尽くしてきたのだが、それが可能であったのは、「日本の正しいおじさん」こそが日本の土台であり、基幹であって、そういう存在があるからこそ安心して、かれらに嫌がらせをいうという「わがまま」も可能であったのだとしていた。論壇に登場して以降の内田氏の論の面白さというのは、そういうトリックスター的姿勢によるところが大きかったのだろうと思う。そして最近の内田氏の論がいたって精彩を欠くのは、氏がいつの間にか「悪いおじさん」から「正しいおじさん」になってしまって、論に裏とか奥行がなくなってしまったからではないかと思う。
 それと、論壇に登場して以降の氏があまりにも売れっ子になってしまって、勉強する時間がもてなくなってしまったことも大きいだろうと思う。レヴィナスなどという相当なインテリだってまず読まないだろう思想家に入れあげてずっと沈潜していた時期の蓄積がその後の氏の言論活動を支えてきたが、さすがにその蓄えも底をついてきたということなのであろう。
 レヴィナスユダヤ教の系譜のひとなのではないかと思うが、西洋思想史に疎いわたくしから見ると広い意味でのカトリック思想のひとなのではないかと思う。西洋思想の中でカトリック思想というのは実に強力なものであって、それに対抗するものとして18世紀以降の啓蒙思想がでてきたのであろうが、啓蒙思想というのは「話せば解る」といった姿勢を根底に持つから、「問答無用」といった「暴力」「絶対的な悪」には対抗できないという弱点をもっている。
 レヴィナスナチスという「悪」への対抗から思想を紡いでいったように、内田氏も若い時に参加した学生運動の場で見た「悪」から考えることをはじめたのだろうと思う。
 内田氏が村上春樹を論じる場でいう「雪かき仕事」というのも「勤勉で、公正で、温厚」の徳を説くものなのであろう。そういう《黙々》とは正反対の「インテリで、リベラル」な朝日新聞の人々は《饒舌の徒》であっても、雪かき仕事など薬にもしたくない人たちである。つまり「日本の正しいおじさん」は二分されるわけで、空理空論をもてあそぶ口舌の徒と、黙々とそれぞれの場で働く底辺の人である。
 中井久夫氏が「分裂病と人類」で描く二宮尊徳像もどこかで「雪かき仕事」という言葉を連想させるものであるが、それと同時に山崎正和氏が「鴎外・闘う家長」で描く森鴎外像をもどうかで彷彿とさせる。中井氏は尊徳について「飛躍のない連続的な努力」ということをいう。尊徳のような人間がもっとも恐れるのは、連続性を断つ飛躍や跳躍であり、大変化やカタストロフはそれがどのようなものであっても、計測可能性、予測可能性を超えるという点であたかも天災のように受け取られることになる。
 日本の戦後復興もあるいはオイル・ショックへの対応も、参照すべき他国の事例がすでに存在していたり、過去の経験の応用で対応できるようなものとされる場合には、日本人はうまくあるいは何とか対応できてきた。中井氏のいう「立て直し」の路線である。しかし、それを超える大変化では?
 本書「朝日ぎらい」で橘氏がいいたいことの一つが、現在日本が直面している事態は、過去の経験からの外挿や計測可能性で対応できるようなものではないにもかかわらず、日本人が相変わらず、「世直し」ではなく「立て直し」の論理で対応していることの無理の指摘。あるいはそれへの危機感ということになるのだろうと思う。
 本書のPART2「アイデンティティという病」で議論されるのは、いわゆるネトウヨの問題である。一般にそう思われているのとは異なり、ネトウヨの主体は40代らしい(20代で日本と世界の激変を体験し、「右」と「左」の価値観が逆転した世代)。彼らは「雪かき仕事」といった日々の出来事でおのれに矜持をもつこともできず、自分が日本人であるということのみをアイデンティティとすることでかろうじて自尊を保つことができる存在なのであるとされている。
 橘氏によれば、彼らの行動は容易に現代の進化論から説明できるという。われわれは集団を即座に「俺たち」と「奴ら」に分割するメカニズムが身体に組み込まれていることがさまざまな心理実験で証明されていることを氏は示し、われわれは自分が正義の側にいると感じるときに脳から快楽物質であるドーパミンが放出されることを報告する。われわれは過去の狩猟採集時代の集団生活で、そのように反応することがおのれの生き残りに利したことから、それが遺伝的性向として固定されているのだという。
 日本のネトウヨに相当するのがアメリカでトランプ大統領を支持するプーア・ホワイトといわれる人たちで、高い知能を持つものが有利になるという現在の知識社会から脱落して貧しくなった彼らには白人であるということ以外に誇るべきものをてたないがゆえにそうなるのだと橘氏は説明する。同様にネトウヨは日本人であるということ以外に誇りを持てない人達なのである。
 このわれわれはつねに仲間と敵に集団を分けるという方向の話をわたくしがはじめて知ったのは栗本慎一郎氏の「パンツをはいたサル」(1981)ででだったと思う。「異国人が団体で入ってくると、たとえそれが友好的な人びとであっても、人はすぐに砂かけばばあや妖怪・一反もめんのごとき妖怪と考えてしまう。・・社会学が明らかにしているように、私たちの心の中には、よそのおばあちゃん(社会学的には制外者、異人またじゃよそ者と呼ぶ)が砂かけばばあや妖怪・一反もめんに見えてしまう、という構造が存在しているのだ。」 ここで栗本氏が社会学の成果として示しているものを、橘氏は進化論の成果として示しているわけである。
 そしてこういうことをもう少し詳しく実験で示したのがコールダーの「人間、この共謀するもの 人間の社会的行動」(1980)だったように記憶している。これはBBCの番組を書籍化したもので、人間の社会的行動は進化によってもたらされた生物学的条件と社会的経験との産物であるとの観点から人間を考察したものである。特に第4章の「共謀」は「内集団」(自分が属する信じる集団)と「外集団」(自分はそこにはが属さないと考える集団)とに対してわれわれがまったく異なる対応をすることが示されている。
 本書で橘氏が言っていることはもう40年近く前から言われているわけである。ただ従来、人文学の分野で言われてきたことが、進化論という自然科学によって裏打ちされてきているということを強調しているわけである。橘氏の「言ってはいけない」とか「もっと言ってはいけない」は、われわれはわれわれ自身が考えている以上に遺伝(あるいは進化)によって規定された存在であるということを、それが不愉快な真実であるといいながらも、わりあいと嬉しそうに示しているように見える本であるが、確かに日本の人文系の本を読むと、遺伝とか進化といったことがまったく考慮の外であるように見える本があまりに多いので、橘氏が「お前たち、少しは勉強しろよ!」ということでこのような本を書くのは理解できる。「もっと言ってはいけない」の最後は「咲ける場所に移りなさい」となっていて、「置かれた場所で咲きなさい」(この本はわたくしは読んでいない)といった言説へのアンチを提示して終わっている。
 おそらく日本の多くのおじさん達は「会社」という集団(置かれた場所)に帰属し、それをアイデンティティとすることで己を持することができてきた。しかし、もうそんな時代ではないのだよ、そんなこどでは不幸になるだけだぞ!、ということを本書は主張するわけである。
 「もっと言ってはいけない」の「あとがき」で橘氏は「私の政治的立場はリベラルだ。「普遍的な人権」という近代の発明(虚構)を最大限尊重し、すべてのものが、人種は民族、国籍、性別や性的指向、障がいの有無にかかわらず、もって生まれた可能性を最大限発揮できるような社会が理想だと思っている。」と書き、「その一方で、「知能を無視して知識社会を語ることはできないとも考えている。・・知識社会そのものが不愉快で残酷なのだ」とも書いている。
 ここで氏も認めているように、「普遍的な人権」などというのはまったくの虚構であり、生物学的。進化的な基礎を一切欠く。そして氏の描く「知識社会」は優れた知能を持たないものには極めて残酷な社会なのである。
 わたくしから見れば、氏の描く「知識社会」は野蛮な社会、少なくとも非文明的な社会である。いうまでもなく「普遍的な人権」などというのは『神がそれを人に授け給うた。The God who gave us life ,gave us liberty at the same time 』とでもしなければ何ら根拠のない、啓蒙主義が作り上げたフィクションである。そして啓蒙派の人々がなぜそのようなフィクションを作り上げてきたのかといえば、文明社会とは人が人として遇される世界であるべきだとしたからであり、そのために「基本的人権」というフィクションが要請されてくるわけである。《ひとは生まれながらに「基本的人権」を有するとみなそうではないか、われわれが互いをそれぞれを人として遇することができるように。》ということである。『偉大な創造的行為やまっとうな人間関係は、すべて力が正面に出てこられない休止期間中に生まれるのである。この休止期間が大事なのだ、私はこういうい休止期間がなるべく頻繁に訪れしかも長く続くのを願いながら、それを「文明」と呼ぶ。・・力はたしかに存在するのであって、大事なのは、それが箱から出てこないようにすることなのではないだろうか。』とフォースターは「私の信条」でいうのであるが、すくなくとも橘氏がいう《優れた知能を持たないものには極めて残酷な知識社会》でどのような生き方をめざすべきなのか、何等かの提示がされない限り、ネトウヨは増えていくばかりなのではないかと思う。
 橘氏はまず現在の世界がどのようになっているかを知ること、それなしには何もはじまらないとしているように思える。しかし、それを知るためにも相当な知能が要請されるのだとすれば、スタートラインにさえ立てないひとが多数になってしまうような気がする。本書にくらべれば、村上龍氏の「13歳のハローワーク」のほうがずっと愛情に満ちているような気がする。
 次のPART3は「リバタニアとドメスティクス」と題されていて、ようやく「朝日ぎらい」という本題に近づいていく。
 

「おじさん」的思考 (角川文庫)

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村上春樹にご用心

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パンツをはいたサル―人間は、どういう生物か (カッパ・サイエンス)

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言ってはいけない 残酷すぎる真実 (新潮新書)

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もっと言ってはいけない (新潮新書)

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フォースター評論集 (岩波文庫)

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13歳のハローワーク

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