岩井克人「会社はこれからどうなるのか」

  平凡社 2003年2月23日初版


 大変面白い本。最近、こんな面白い本を読んだことがない。頭がよいひとの書いたものを読むと、そこに書かれていることが簡単なことであるように思えることが多いが、この本も話の流れの筋道がきわめてすっきりしているため、読むと単純なことが書かれているように思えるけれども、書かれていることは、今までの論争にまったく別の切り口からの回答をあたえるものとなっている。
 順を追って読んでいく。

「はじめに」
 今の日本人が抱えている不安は単なるバブルの崩壊の後遺症といった短期的要因ではなく(それならば景気循環の一局面であり、いずれ必ず解決する)、われわれがもっと大きな潮流の変化の中にいることを感じ取っていることに由来する。
 1980年代から「会社は誰のものか」という論争が行われている。
 アメリカ的な「株主主権」論と日本的な「会社共同体」論である。
 本書は、アメリカ型の株主主権論がグローバルな標準とはなりえないことを主張する。それは、株主主権論が法理論上の誤りであり、また21世紀の資本主義においては、お金(資本)の重要性が失われていくからなのである。
 その主張の基本的な前提には、先進諸国の資本主義が<産業資本主義>から<ポスト産業資本主義>に移行しつつあるという認識がある。

「第一章 なぜいま、日本の会社はリストラをするのか」
 日本の会社は以前からROE(自己資本利益率=税引き後利益/株主資本)が低かった。最近ではほとんどゼロであるが、以前から5%前後がやっとであり、それが10%を切ると株主が経営者を自動的に首を切るといわれているアメリカとは大違いである。
 そもそも日本においてはROE自体が経営者に意識されることさえほとんどなかった。それなのに1990年代に入ってから急に利益率の低さを気にするようになった。
 それがなぜなのかを知るためには「ブローバル化」「IT革命」「金融革命」という経済の構造変化を理解しなくてはいけない。
 1)グローバル化:これは消費者にとってはいいことである。
 しかし生産者にとっては別。勝者と敗者がはっきりする。そこで勝者になるのはグローバル企業と優秀な労働力を持つ一部の発展途上国である。敗者は国境によって守られてきたローカルな企業。日本の会社の多くは国内向けのローカルな体質をもつ。戦後の日本企業は国内市場の大きさにほとんど全面的に依存して成長してきた。その結果日本は、世界一物価が高く、賃金が高い国になってしまった。日本の会社はグローバル企業に国内市場を侵食され、発展途上国からの輸入品に苦しめられている。これが会社がリストラをせざるをえない原因の第一である。
 2)IT革命:日本においては、大会社においてでも各人の分担や責任がはっきりしないという特徴がある。その結果として中間管理職としてのホワイトカラーの比重が大きい。80年代においては、このような分権的な経営が日本の経営の強みであるといわれていた。しかしIT革命によって、各人がもっていたノウハウの一部はデータベース化され、コンピュータによるシミュレーションが可能になった。また幹部と現場の情報のやりとりが直接化してきた。中間管理職(ホワイトカラー)があまってくる。
 3)金融革命:日本の会社は資金調達の大部分を銀行に依存してきた。戦後外国から資金を導入する道がとざされていたからである。個人の貯蓄→銀行、郵便局や保険→政府→開発銀行や長銀
 1980年代に入って全世界的に金融革命がおこりはじめた。金融の自由化と金融技術の発達によって以前にくらべれば低い利子率で資金を調達できるようになってきている。
 日本は世界最大の資産国であり、銀行や郵便貯金だけではそれを吸収できなくなっている。日本の会社も銀行を通さずに比較的自由に資金を調達できるようになってきた。会社は債券を発行することにより世界中から資金をえることができるようになっている。
 その結果、銀行は大企業という今までの貸し出し先にたよれなくなり、審査ノウハウをもたない中小企業に土地を担保にすることで貸し出しをはじめざるをえなくなったことがバブルにつながった。
 銀行が資金調達の中心であった時代には銀行は、貸し出し先企業の利益にはこだわらなかった。企業が存続してきちっと利子をはらってくれさえすればよかった。しかし社債を買う人間の関心は短期の業績にしかない、株主も株価の上昇だけをのぞむ。
 世界的にみれば、金融革命とは低利で資金が手に入るようになったということであり、今までより低い利益率で生き延びることができるようになってきたことを意味する。しかし日本では銀行から金融市場へと資金の調達先がかわってくると、銀行がもともと利益率にこだわらない存在であったため、会社は今までより高い利益率を目指さざるをえないことになった。
 「ブローバル化」「IT革命」「金融革命」がなぜ日本経済にマイナスに働いたかといえば、日本の会社の構造がアメリカのものともヨーロッパのものとも異なっているからである。

「第二章 会社という不思議な存在」
 近代市民社会の一番基本的な関係はヒトとモノとの関係である。ヒトはモノを所有する主体であり、モノはヒトによって所有される客体である。
 私的所有制度(私有財産制)とは、ヒトが自分が所有するものを全面的に支配する権利をもつということである。しかしドレイ制度があるところでは、ヒトとモノの区別がない。ドレイはヒトであるがモノとしてあつかわれるからである。
 自分以外のなにものにも支配されない自立した存在というのが近代的な意味の「人間」の定義である。
 しかし、資本主義の発達とともにできてきた会社という存在が、これに困った問題を提出する。
 会社と企業はどう違うか?
 企業=利潤の追求を目的として経済組織。街角の八百屋さんは自分の店で売っているものの所有者であり、そこで売っているものを自分で勝手にたべることも自由である。ここにあるのは古典的なヒトとモノの関係である。
 株式会社において、株主はヒト、会社資産はモノ。しかし会社の株主は会社資産の所有者ではない。株主がもっているのは会社。会社資産をもっているのは会社。しかし、モノをもつのはヒトであるというのが近代市民社会の原則。そこで法人というものが生まれる。会社資産を所有しているのは法人としての会社なのである。法人とは「法」のうえの「人」である。このことは法人はヒトとモノの二重の側面をもつということである。ヒトであることにより資産を所有でき、他の個人や会社と契約でき、また他から訴えられることにもなる。しかし会社は株主の所有物であるという意味でモノでもある。しかしモノである会社とは会社のもつ資産を指すのではない、会社という抽象的なモノを指す。株主とは株式の所有者なのである。
 株式とは?:
 会社は法律上のヒトとして、会社のもつモノを全面的に支配でき、モノが生み出す新たなモノも自分の所有物とする権利をもつ。しかし会社は人間ではないから考えることはできない。そこでモノである会社に代わって会社が会社資産をどのように扱うかを決めるのが株主総会である。またモノがモノを生んだ利益への権利が、株の配当となる。
 会社はヒトとして会社資産に対する支配権をもつ。その支配権を細かい単位で分割したものが株式である。その支配権を紙切れの形にしたものが株券である。
 日本においては古くから経済上の特権や権利を一種のモノとして売り買いするという考えがあり、明治以降西洋から株式会社の概念が輸入されたときにも、スムーズにそれを受け入れることができた。
 もし企業が複数の人間で構成されており、何かの契約をするときに全構成員個々と契約をすることが必要であれば、構成のひとりがかわるたびにあるいは構成の誰かが考えを変えるたびに再契約が必要になる。法人というのはそれを避けるために必要となる。
 法人自体の歴史は古く、人間が何らかの共同事業を営み始めると、そのようなものが必要になる。その起源はローマ時代といわれるが、、中世になり僧院や大学、商業ギルドなどが法人という形態をとるようになった。
 法人はヒトとモノの峻別という近代市民社会の前提に抵触する部分をもち、近代市民社会においては矛盾をふくむ存在なのである。
 ある種の人間のあつまりが、それ自体としてヒトとして機能しうるためには、それが他者によって承認されることが必要である。そのことによって、それは「私的」な存在ではなく、「公的」な存在となり「公共的」な存在となることがきわめて重要なのである。そこから、会社は「社会の公器」という側面をもってくる。

「第三章 会社の仕組み」
 会社が倒産したとする。株主がもっているのは会社の支配権であるから、それはうしなうことになるが、会社の債権者は株主の資産を要求することはできない。これを株主の有限責任という。
 会社はヒトとしての側面をもつとはいっても、実際にはモノだから生身の人間が会社の名の下に、実際の活動をおこなわなくてはいけない。この役目をもつ会社のために会社に代わって活動するヒトを「代表取締り役」と呼ぶ。会社には経営者が必要。八百屋などの個人企業ではオーナーが勝手に運営してもよく誰がに契約で経営を委任してもいいが、会社には経営者が必須なのである。会社の経営者は株主との契約によって経営をおこなうのではない。株主は経営者を変えることはできるが経営者をなくすことはできない。株式会社の経営者とは、会社の「信任受託者」なのである。
 信任とは、別のひとのための仕事を信頼によって任されているひとをいう。大事なのは信任とは契約とは異質の概念であるということである。したがって、そのコントロールははるかに難しい。それがコーポレート・ガバナンスの問題である。信任受託者の怠慢や濫用をどのようにしたら防げるかという問題である。
 株主が会社と契約を結ぼうとしても、会社で実際に契約にたずさわるのは経営者であるから、経営者は自分のことについて自分で契約するという自己契約を結ぶことになる。これが無効であるというのは法律の大原則の一つである。むしろそこから信任という概念がでてくると考えてもいい。
 では、信任関係維持のための原理とは、それは「倫理」なのである。しかし「倫理」に自発性を期待することはきわめて困難であるから、信任関係においては司法をふくむ国家の監視が不可欠となる。契約は民法だが、ここでは刑法も出番となる。それは「忠実義務」と「注意義務」とよばれる。
 1932年の古典的な著書であるバーリらの「近代株式会社と私有財産」において、「所有と経営の分離」が指摘された。株主は実際には会社を支配しておらず、経営者によって支配されているという指摘である。それに対していかに株主主権を取り戻すかが、アメリカにおけるコーポレート・ガバナンスにおける問題意識である。そこで経営者も株主にしていまえば「所有と経営の分離」の問題が解決できるとするのが、株主オプションの発想となる。しかし、それはエンロン事件などできわめて多くの問題をもつことが露呈された。それは一番根幹では、企業と会社との区別を失念しているということであり、経営者を倫理性から解放してしまうとどうなるかということでもある。株式オプションは自己契約さえ疑われる。
 現在、経営者を監視するものとしては、1)株主代表訴訟、2)取締役会と監査役、3)株式市場・メインバンク・従業員・官庁などがいわれている。
 取締役会とは本来経営陣の監督が仕事のはずであるが、日本ではそうなっていない。監査役もほとんど機能していない。株の買占めによる会社乗っ取りも日本ではほとんどない。その中でメインバンク制度は、ある程度の役割を果たしてきた。会社別組合からの従業員の声もある程度の力になる。メインバンクをコントロールしてきたのが監督官庁であるとすれば、日本の究極のコーポレート・ガバナンスは官庁が荷ってきたのかもしれない。しかし、メインバンクや官庁は急速に力を失ってきている。
 もともと私的利益を追求する前提の資本主義経済に、経営者の倫理性という原理を導入せざるをえないということ自体が矛盾である。コーポレート・ガバナンスに唯一の正解はありえない。
 株式会社は株主がいてモノとしての会社を所有し、それを代表するものとしての経営陣がいて、それを監督する取締役と監査役がいるという構成になっており、従業員はでてこない。従業員とは会社にとっては外部の人間であり、会社と契約を結んでいる存在に過ぎない。原材料の提供者や金融機関と同列なのである。会社法では社員とは株主のことを指す。

「第四章 法人論争と日本型資本主義」
 日本の会社は、1)株主の発言力が弱い。2)経営者は利益率より会社の拡大を目指す。3)従業員は会社に帰属意識をもつ。4)きちんとした上下関係ではなくインフォーマルな関係でものごとが動く。5)株式持合いの系列を長期に維持する。6)下請け・孫受けなどの系列がある。7)メインバンクから主に資金を調達する、などが特徴であるといわれている(ただしこれは大会社の特徴であって中小企業にはあてはまらない)。

 法人名目説と法人実在説:
 この背景には哲学における<普遍概念>の「唯名論」と「実在論」の間の論争がある。法人のモノ性を強調すれば名目説になり、ヒト性を強調すれば実在説になる。
 会社が株の買占めで乗っ取られるというのは会社のモノ性を示している。
 持ち株会社(ほかの会社を所有することを目的とした会社)ということが成立するのは会社のヒト性を表している。
 もしもヒトとしての会社がモノとしての自分自身の会社を所有できれば・・・。50%以上の株を持てば、他の株主の介入を完全に防げる。自分自身の支配者として他のヒトの支配からまった自由な会社とはヒトそのものである。自社株買いは禁じられてるところが多いが、株式の持合いによれば、それを擬似的に実現できることになる。日本でそれが機能してきたということは、日本の会社がきわめてヒト性が高いということを意味している。

「第五章 日本型資本主義とサラリーマン」
日本のサラリーマンは意識の上では経営者の一員なのである。そうなるのは、日本のサラリーマンが「組織特殊的な人的資産」に投資しているからである。
 人的資産とは、人間の頭脳のなかや身体の中に、その人間から不可分な形で蓄積されている知識や能力のことである。したがってそれは譲渡不可能である。そういうものの一部はデータベース化できマニュアル化できるかもしれないが。
 汎用的人的資産とは、どこの組織においても通用する知識や能力のことである。
 組織特殊的人的資産とは、個々の組織のなかでのみしか価値をもたない知識や能力のことである。
 したがって組織特殊的な人的資産は、本人のモノであっても本人のモノではない奇妙なものである。組織と運命をともにするしかない。しかし、本人がそのつもりでいても組織がうらぎるかもしれないという「ホールドアップ問題」がそこに出現してくる。そうすると組織をホールドアップする外部の人間がいない組織においてでなければ、安心して組織特殊的人的資産を蓄積できない。これが日本の会社が法人実在論的にうごく理由である。

「第六章 日本型資本主義の起源」
 戦前の財閥支配の資本主義と戦後の持ち合いによる資本主義はまったくことなる。
 1940年体制が現在の日本をつくったという主張がある。しかし、アメリカ占領軍による財閥解体の影響もまたきわめて大きい。
 だがそれらを加えても、現在の日本の形態ができあがったことにかんしては、「家」制度の影響を考えざるをえない。日本の家制度の特徴は血縁的ではなく、家の名前の継続を重視する点にある。養子をとることには抵抗がない。実はこの「家の名前」は「法人」としての性格が極めて濃い。ここに着目すると、江戸時代の商家、戦前の財閥、戦後の会社グループの間の連続性が見えてくる。
 終身雇用制、年功序列賃金、会社別組合はすべて、組織特殊的人的資産の蓄積をうながすための装置であったといえる。

「第七章 資本主義とは何か」
 資本主義の歴史は長いが、その大部分は「商業資本主義」である。これは二つの市場の間の価格差を利用して利潤をえる。しかし「差異」を利用して利潤をえるという行動自体はその後の資本主義にも共通している。
 産業革命からはじまった「産業資本主義」においては、大量生産による効率の上昇が強調されるが、労働者の賃金が生産性に比例して上昇すれば、利潤は得られない。それを防いだのが、農村における過剰人口=産業予備軍の存在であった。生産性の向上と産業予備軍の存在による賃金上昇の抑制による差異が利潤の源泉となった。しかし1970年代についに産業予備軍は先進資本主義国の中では消滅してしまった。その後の「ポスト産業資本主義社会」では利潤を生み出す差異は、新しい製品、あたらしい技術、新しい市場、新しい組織形態といったものによる他の企業との差別化となってきている。
 情報技術の進歩によって資本主義の形態がかわってきているのではない。情報自体が差異性なのであるから、差異性を追求していくと情報の商品化という方向に自動的に進んでしまうのである。
 グローバル化の背景も産業予備軍の枯渇である。途上国に予備軍を求めているのである。
 産業資本主義の時代においてはお金をもってさえいれば、機械工業に投資することにより利潤をえられた。しかしもはや工業への投資は利潤をうまない。投資先を失った資本が世界中をかけめぐっているのが金融革命の背景である。お金の支配力が弱まってきているのである。
 日本においても高度成長を支えたのは農村から都会への人口の移動であった。それは1960年代後半にほぼ終焉した。そのころから都市の労働者の給料は急激に上昇するようになってきている。1960年代後半に日本の高度成長は終了した。それは産業予備軍の枯渇による。1970年代からはじまった重厚長大産業の衰退はそれによる。
 しかし1970年代から80年代にかけて、日本は産業資本主義の構造のまま成長を続けた。賃金の上昇にもかかわらずなぜそれが可能であったか? それは日本の生産性が1980年代まではアメリカやヨーロッパにくらべて大きく劣っていたからである。外国での技術の摸倣や改良によって賃金の上昇をうわまわる生産性の向上を実現できたからである。しかし80年代後半にいたって、ついに摸倣改良できる既存の技術のストックが底をついてしまった。産業資本主義が行き詰まってしまったのである。
 一方アメリカでは1970年代の初頭から、産業資本主義からポスト産業資本主義への移行がはじまっている。その一つの証拠が、会社の買収が盛んになったことがあげられる。工業を所有するよりも、既存の会社の市場価値と資産価値の差異を利用するようが利潤をあげられるようになったのである。
 第一次産業革命:18世紀後半のイギリスの繊維工業の機械化
 第二次産業革命:19世紀後半から20世紀前半のアメリカやドイツを中心にした重化学工業を中心とした技術革新。これは大規模な機械設備を必要とするため少数の資産家の資産ではまかなえず、一般大衆からの株式による資金が必要になった。
 規模の経済(大量生産)と範囲の経済(多数製品の同時生産)をおこなうために専門経営者の人的資産が決定的に重要になった。大量の資本と組織特殊的な熟練工や経営専門家を必要とするようになった。「所有と経営の分離」である。
 日本の資本主義はまさにこの後期産業資本主義にフィットしたものだったのである。それに適応しすぎていたために、現在においても、まだポスト産業資本主義への転換が困難なのである。

「第八章 デ・ファクト・スタンダードとコア・コンピタンス
 ポスト産業社会に適合した会社がどのようなものであるかについてはまだ解答がない。たぶん種々のものがあるのであろう。差異性をつくりだす方法は千差万別であるから。
 少なくとも大きいことが即いいことではなくなるであろう。規模の経済が機能するのはネットワーク的な経済だけであろう。
 ほかが簡単にマネできない独自の差異性を創造拡大する能力を「コア・コンピタンス」とよぶ。

「第九章 ポスト産業資本主義における会社のあり方」
 お金の力が弱まっていけば当然株主の力は低下する。アメリカ的な「株主主権」論が今後も機能していくとは必ずしもいえない。
 以前にくらべれば個人の起業は簡単になるであろう。事実世界中で自営業の数が増えている。ただ例外が、日本とフランスなのである。
 日本の資本主義はあまりにも機械制工場の効率運営に特化しすぎたものであった。

「第十章 会社で働くということ」
 サラリーマンのなかから起業するひとがどのくらいでてくるか、その気概をもつひとがどのくらいいるかに日本の将来はかかっている。

 以上、きわめて明快な主張である。
 ある時期きわめて有効に機能していた日本のしくみが、現在ほとんど機能不全に陥っているのはなぜか?、ということに対するきわめて説得的な議論がここにある。山本七平氏らの日本資本主義論(山本氏はそれは日本で永遠に真理であると思っていたであろう)を踏まえながら、きわめて大きな歴史的視野のなかで、現在の日本の位置が論じられている。
 近代社会の特質とそこでの人間の位置から哲学における普遍概念の唯名論実在論までを踏まえた議論により、最近における個人の自立の問題と会社の問題を結びつけるという離れ業が、法人概念におけるヒトとモノの二重性という概念を梃子にしてあざやかに行われている。
 問題は、たしかに岩井氏の言うとおりであるとすると、これからは能力のないひとにはきわめて浮かばれない社会になるなあということであろう。なんのとりえもないひとがとりえあず生きていけたような仕事は途上国のものになっていくのであろうか? 能力のないひとはこれからどうやって生きていけばいいのだろうか? 起業をするような気概も能力もないひとはどうやっていけばいいのだろうか? 森永卓郎氏のいう年収300万円組としてラテン系でいくしかないのであろうか?

 実は、この本を読んでいてつねに病院の運営ということが頭にあった。
 病院の運営には、利潤第一ということにはどうしてもなじめないものがあるが、それへの解答の有力なヒントがここにあるように思えた。
 それと同時に病院の機能分化という問題についても示唆に富むものであると思った。
 岩井氏はそういう問題はほとんど頭にないであろうが(NPOの議論などで若干はあるかもしれないが)、この本は読むひとそれぞれが置かれた立場によっていろいろな読み方ができる本なのであろう。
 それはこの本が基本的な問題をきちんと踏まえてかかれているからなのであろう。