末永徹「戦争と経済と幸福と」

 [文藝春秋 2002年9月30日初版]

 まったく知らない人である。本屋で偶然みて買った。
 こういう人がでてきたのだなあ、という感慨がおきる。
 著者は1964年生まれ、というから40歳前後。大学をでてから外資系の証券会社でトレーダーを15年くらいやって退社、そのあと著述業をしているらしい。トレーダーとしてもきわめて優秀だった人らしい。
 その主張をひとことでいえば、20世紀は国家の世紀であり、21世紀は個人の世紀である。もう国家なんか知らないよ、ということである。個人の自由は何よりも尊い、と臆面もなく書く。イスラム原理主義は間違いである。なぜなら、彼らは個人を集団に従属させようとする。わたしたちは個人の自由を守ろうとする。これは大日本帝国を、ナチスドイツを否定するのとまったく同じ原理による。しかし、個人の自由にとっての最大の敵はテロではなく国家である。
 自爆テロを企てるものは最後の審判と来世における復活を信じていたはずである。そうでなければ、あのような行為はできるはずがない。そうでなければ精神異常か、裏切りが死を意味する強力な組織の強制によるしかありえない。しかしヒトは神に創造されたのではなく、サルから進化したのであり、意識とは神に由来するのではなく、脳内の微弱電流である。
 自由と民主主義は科学的な自然観と不可分である。テクノロジーは誰にでもあつかえる。テロリストにも。しかし、科学的思考、自然観はそうではない。それはルネサンス以降の西ヨーロッパで発達した独特の思考様式である。テクノロジーだけなら西欧以外ににもルネサンス以前にもあった。
 サイエンスと民主主義は、権威を否定し、自由を求める批判精神に根ざす。
 日本は19世紀以降、西欧テクノロジーを取り入れたが、サイエンスを生み出した批判精神はとりいれなかった。これを和魂洋才という。人類を真に進歩させるものは自由な精神だけである。それを根本的に欠いている日本の繁栄はいつも長続きしないのである。
 われわれにとっては韓国の人よりも、ドイツやイタリアのひとの方が近しい。われわれはレオナルド・ダ・ヴィンチミケランジェロやデーテやベートーベンを知っている。さらにはわれわれには狩野派の障壁画の鷹や松の絵よりも、レオナルドがミラノの修道院に描いた「最後の晩餐」のほうが親しい。われわれは井原西鶴近松門左衛門よりスタンダールバルザックのほうをよく読んでいるのだから、19世紀のフランスのブルジョアのほうが同時代の江戸の人間より親しい。ベートーベンやモツアルトは知っているが雅楽なんか一つもしらない。過去の日本は過去のヨーロッパよりも遠い。
 今日、豊かなのは西北ヨーロッパと北アメリカと日本などである。それら地域は世界を一つにしようとしている。一方、それを拒否しようとする思想もある。
 推進しようとする側にあるのは、キリスト教、法の支配、ヒューマニズム、資本主義経済などである。拒否の側にあるのは、土着の宗教、個人崇拝、ナショナリズム社会主義経済などであり、わが国では、尊皇攘夷思想、大東亜共栄圏、現代の公共事業などである。
 前者はグローバル・キャピタリズムとよばれ、後者はイスラム原理主義エコロジースローフード地域通貨などである。
 ヨーロッパ文明の優越を否定する文化人類学の見方がある。しかし、個人の尊厳という見方はまぎれもなく近代ヨーロッパの発明である。近代ヨーロッパ文明の優越性を安易に否定することは、自由主義個人主義を否定する危険をはらむ。
 自由主義個人主義は普遍的な思想であり、この思想が尊重されるようになった地域の人々の生活は必ず飛躍的に向上した。
 生活水準を尺度にする限りにおいて、個人の尊重は人類の歴史を通じて最も優れた思想であり、その思想を発明した近代ヨーロッパは人類の歴史上最も優れた文明である。
 1960年代の反体制運動は、近代ヨーロッパで確立された個人主義の再確認とそれの地球規模での普及の運動であり、第二のルネサンスであった。憲法が形式的に保障していた個人の尊厳を実質的に勝ち取ろうとしたものである。それはナショナリズムを砕いた。
 しかし、日本の60年代の反体制運動は根底にナショナリズムをひきずっていた。そのため現実を変革する運動とはならなかった。それゆえ、70年代80年代に反体制運動を担った人たちが臆面もなく国益を追求して輸出主導の経済成長を担うことになったのである。
 60年代にナショナリズム清算できなかったことのつけが今きている。それが現代日本の低迷である。
 われわれを幸福にするものは、個人の尊厳を極限まで追及する自由主義だけなのである。

 60年代から70年代にかけて、MIT周辺に反戦、反体制のために大企業や政府に就職せずにいた高度の知性を備えた人間たちがコンピュータ産業の周辺に集まった。それは国家、企業などの権威から解放された個人を匿名で結ぶネットワークをめざしたアナーキズムの運動なのであった。
 およそ人類史で価値ある部分は、批判精神が生んできたのである。

戦争は農耕時代においては有力な手段であった。なぜならそれによって生産手段を入手できるからである。しかし、商業時代になれば、戦争によっても容易に生産手段は入手できない。
 18世紀までは戦争は参加するのは合理的判断による合理的ビジネスであった。しかし20世紀にまでなってなぜあのような悲惨な大戦争を二回もしたのか? それは合理的思考にもとづくものではない。ナショナリズムという非合理な心情による。それは参加する個人は強制的に参加させられるのであり、その個人にはなんの見返りもない。
 ナショナリストの説く国益とはごく一部のものの利益なのであり、大部分のものにとって、かかわりのないものである。
 近代国際法宗教戦争邪教の殲滅という殺し合いへの反省から生まれた。しかし第二次世界大戦邪教の殲滅戦という色彩を帯びた。
 ナチスの思想は社会主義と極端なナショナリズムの混交である。社会主義とは個人の自由よりも集団の秩序が優先するという思想であり、ナショナリズムとはドイツ民族は世界を支配する運命を有するという思想であった。
 ずべての社会主義国で、社会主義者は政権をとると極端な愛国者に変身した。社会主義の本質は個人よりも集団を重んじる反自由主義である。
 近代で重要なのは社会主義対資本主義という対立軸ではなく、、個人の自由を尊重するか否かである。
 個人の自由を抑圧するものは、16世紀ではカソリック教会、17・18世紀では絶対王政、19・20世紀ではナショナリズムであった。
 現在のナショナリストは通貨の強さにこだわる。しかし、日本が円を使おうがドルを使おうがわれわれにはほとんど関係ない。
 強いドルはアメリカにすむ多くの人を幸福にする。しかし強い円はわれわれを幸福にするだろうか? 現在の日本では円が弱いほうが望ましいのである。
 日本は純輸出国であり、純債権国である。輸出の手取りが増え、海外資産からの収入が増えるのだから円は弱いほうがいい。もちろん海外で生産した商品を輸入しているものにとってはそうではないが。しかしそれは少数派である。
 アメリカは純輸入国であり、純債務国であるから、ドル高が望ましい。ただしデトロイトの自動車メーカーにとってはドルは安いほうがいい。しかし、それは少数派である。
 90年代後半からの日本経済の低迷は実質金利名目金利物価上昇率)が高すぎることによる。それは何とか自国の通貨を強く保とうとする通貨ナショナリズムに起因する。
 世界中の人々は、その時点の為替レートで計算して、世界中から安いものを選んで買い、得をすると思うものに投資をする。
 為替レートは貿易しやすいモノの価格を等しくするように働く。トヨタなどが売れれば円が高くなる。しかし国内の貿易にかかわらない生産性の低い部門は、それレートで計算すると非常に高いコストになる。日本の物価が高いというのはそういう理由による。
 通貨を安くすることはその国を栄えさせることになるが、国が栄えると通貨は高くなる。
 通貨は経済取引の手段にすぎない。
 かつてもっとも合理的な経済主体は国家であった。現在では合理的な経済主体は企業として無数に存在する。われわれはどのような国に生まれようとも、そのような企業をえらぶことで幸福に生活することができるのである。

 本書を読むと、社会主義というものにまったくプラスの価値を感じない世代がでてきているのだということを痛切に感じる。ここでいわれていることは竹内靖雄氏がもう少し洗練されたかたちでいっていることを直截的に言っているに過ぎないかもしれないが、それにしても個人の自由ということをこれだけ素直に主張する人間がでてきたということは驚きである。ただ竹内氏と異なってユーモアというものがまったく感じられない。それが気になる。
 1960年代の反体制運動は、個人の自由の再確認運動だったとしても、それとは別にヨーロッパ文明への反省運動という側面も色濃くもっていたことは間違いないように思われる。したがって著者もいう通り、個人の自由というようなヨーロッパの価値の否定という側面を色濃くもつものであった。ポストモダンなどの思想はまさにそういったものであったはずである。そのような運動への目配りはこの著者にはあまりないように思われる。
 個人の自由が普遍的な価値であるかどうかが一番問題である。未開の地で野性の思考に生きる人たちとくらべてわれわれは幸福か? それがポストモダンの問いであった。ポストモダンの思想家たちはなかば本気でその問いを発したのであると思われる。20世紀になっての二度の世界大戦を生んだものは西欧の思考そのものではないかというのが彼らの反省であったものと思われる。ナショナリズムというものもまた西欧が生んだ思想であり、個人の自由という考えを生んだものと同根であって、それらを切り離すことはきわめて難しいのだということはないだろうか?