E・トッド「空回りする民主主義」朝日新聞1月8日「Opinion」覽

 
 今日の朝日朝刊にE・トッドへのインターヴュー記事がでていた。それについて少し考えてみる。
 まず、トッドの見解。
 1)日本でおきていることは世界の主たる民主主義国でおきていることと同じ。フランスではサルコジ大統領は大したことができず、オバマ大統領も無力である。各国の民主主義が機能不全におちいっているのには共通の原因がある。それは自由貿易こそが問題の解決策であるとするイデオロギーである。この支配的思想が変わらないから、日本での政権交代でもなにもかわらず、フランスでも英米でも政権はなにもできない。
 2)途上国に安価な労働力があると賃金の高い先進諸国の人々は無用の存在であるとされてしまう。世界的に需要が不足していて景気刺激策が必要であるということについては世界の指導者たちの見解は一致している。だが刺激策の結果、企業の利益は伸びたが雇用と賃金は伸びなかった。各国の政策は中国やインドのような新興国の景気を刺激しただけだった。われわれが買っているものにはみな madein China とかいてある。
 3)自由貿易の問題の根底にあるのは、ハイパー個人主義あるいは自己愛の台頭とでも呼ぶべき深い精神面での変化である。共同体で何かについて一緒に行動するということがなくなった。社会や共同体が否定されるようになってきている。個人の確立は近代的な民主主義の基礎であり、それは個人主義的な色彩の強い国である英米やフランスで発明された。ドイツや日本はもっと権威主義的な国でリベラルな民主主義にはなじみにくい。そのためにかえって不平等の広がりがゆっくりだった。ヨーロッパ内でもドイツよりもフランスのほうが病んでいる。ドイツではまだ労組が機能している。フランスほどのエリートと大衆の断絶もない。
 4)民主主義の普及は初等教育の普及による識字率の向上が関係する。だれでも読み書きができるようになると文化的な一体感が醸成される。しかし、高等教育が普及すると文化的な不平等が出現してきた。教育格差が民主主義を弱体化させた。
 5)日本はまだ超個人主義的にはなっていない。それはアメリカが生んだ思想で、英仏には広がっているが。日本は外来思想に苦しんでいる。
 6)自由貿易第一という思想は、エリート達がもっと勉強して考えを変えれば変わる可能性がある。その兆しはわずかながらある。民主主義は人々のための統治であり、エリート不要論はポピュリズムである。
 7)一方、超個人主義や共同体の弱体化は、信仰の危機のようなもので、その流れを変えるのはきわめて難しい。
 ヨーロッパではキリスト教という普遍性の高い宗教が基盤になって、そこから政治思想が生まれた。しかし、今では国という共同体への一体感さえ失われようとしている。宗教さえ力を失ってきている今、これからの数十年のうちにみんなが信じられる何かが復活するということはありえないだろう。
 8)しかし、共同体としての信仰の喪失は人々を戦争に大動員できなくなっているというプラスの面もあり、大戦争がおきないのであれば、何かを形成するための時間的余裕はあるかもしれない。
 9)政治の規模と経済の規模が一致することがのぞましい。アジアは家族構造という面からみればかなりの共通性がある。それを基盤にEUとは異なるなんらかの連携は不可能ではないかもしれない。
 
 一番違和感があったのが、6)のエリートによる社会の変革という部分である。わたくしは根っからのポパーの徒、ハイエクの徒であるようで、理性によって正しい世を実現できるとする思想への強い不信感がある。おそらくマルクス主義の蹉跌の最大の原因は、プラトンの賢人支配、あるいは政府の計画や「見える手」、エリートや賢人による社会のコントロールといった、合理的な知識によって経済や社会をコントロールできるという一連の思想の驥尾にそれが付していたためなのだと思う。それは間違いなのである。そうかといって自生的秩序などというものをわたくしが信じているということもないのだが。
 「どうしたらいいのだろうか?」という問いには、どこかにすでに「こうしたらいいのです」という答えの存在を仮定しているところがある。「どうしようもないのです」という答えもまたあるはずなのだが。トッドも苦し紛れに、「個人主義意識の台頭は大戦争をおこなえなくするものであり、大きな戦争がない期間が長く続けば、何らかの共通の信念が形成されてくる可能性がないとはいえない」とか、「アジア共同体」などというどこまで本人も信じているのかわからない答えを示している。しかし、そんなことはおきないだろうと思う。教育の普及、識字率の向上が個人を生み出すのである。トッドがいうように識字率が向上すると出生率が低下し少子化が進む。女性が共同体よりも自分を大事にするようになれば少子化は必然となる。今の中国と日本の関係をみれば、「アジア共同体」などありえない。
 わたくしもまた教育を受けた人間の必然として(超?)個人主義者なのである。問題は個人主義というのがそのままグローバリズムに結びつくものなのだろうかということである。自由貿易というのはグローバリズムと完全にパラレルではないにしても、それと深くかかわることは確かであろう。景気刺激策を実行すると made in China が増える。今から30年くらい前には、日本車がアメリカを席巻して、アメリカでは日本車排斥運動がおこなわれていた。日本車の大量輸出はデトロイト労働市場を破壊した。アメリカ車は月曜に作られたものは出来が悪いなどといわれ、真面目な日本の労働者が作った車がやる気のないアメリカの労働者の作った車よりもできがよく売れるのは当たり前であるといった意見も日本では行われていた。
 Made in China が世界にあふれるようになったのは中国における教育の普及が深くかかわっている。工業生産がある土地でおこなわれるためにはそこである程度の教育がなされていることが必須なのだそうである。アフリカがいかに人件費が安くても現在そこで工業生産がおこなわれないのは、そこではまだ初等教育さえ普及していないということが大きな原因らしい。識字というのが工業生産の前提となるようである。
 しかし初等教育だけ普及させて高等教育を普及させないなどという芸当は困難である。中国においてもいずれ(超)個人主義が台頭し国家の体制と深刻な桎梏をきたすようになるだろう。
 このオピニオン欄の主眼は民主主義というものへの疑念であると思われる。日本ではくるくると政権が交代している。アメリカでも「チェンジ!」といった大統領が何も変えられない。日本では「成長戦略」がないとか「政治と金」がどうしたということがいわれている。日本で成長戦略を描いても、結局 made in China が増えるだけなのであれば、もはや成長戦略などというのはどこにもないのかもしれない。「政治と金」の問題にしても、何かそれについて根本的な解決があるかのように考えるのは幻想であると思う。「いかなる政治組織であれ、それを考案してその政治機構における権力掣肘の装置を用意する場合、人間はすべて無節操で利に走りやすい悪人であって、そのすべての行動において私利以外の目的は全く持たぬ、と推定されねばなりません。この私利によってわれわれは人間を支配せねばならず、この私利を通じて人間を導き、その飽くことを知らぬ貪欲と野心とにもかかわらず、[結果として]公益に寄与するようにさせるべきです。・・・ひとびとは、公人としてよりも私人としての方が、より正直であり、自分自身の利害だけが関心事である場合より党派につくす場合によりはなはだしい行き過ぎをするものであるということです」(ヒューム「議会の独立について」)というのは万古不易の真理であると思う。私利私欲のかたまりである悪人集団の中で政治をおこなうのであれば金がかかるのはあたりまえであって、一番簡単なやりかたは金をかき集めて、それで買収することであろう。千万円くらいあれば転ぶ人間もいるかもしれないから、衆議院議員数からいって50億円ほども集めればなんとかなるではないだろうか? 買収は犯罪であるし、そもそも違法な金集めである可能性も高いから、ばれればつかまるであろうが、つかまるころには自分が成し遂げたいと思った政策の一つか二つは実現できているかもしれないから、後は後世の審判を待てばいいのであって、政治家としてはもって瞑すべきなのではないだろうか? そういう点では小沢一郎というひとは大政治家なのかもしれないが、わからないのはそれだけのお金を集めて何をしたいのかである。どうも政権交代のある社会を実現したい、政権交代があるのが民主主義なのであるということらしい。しかし民主主義というのは政治目的のための一つの手段であるはずで、それが目的になるというのがよくわからない。
 「クリーンな政治」などというのを目指すと碌なことにはならないように思う。目指せるのはせいぜい「今よりもいくらかはましな政治」であろう。同様に、もはや成長戦略などというものはなく、めざすべきものは「なるべくゆっくりとした衰退」「なんとか耐えられる程度の緩慢な没落」なのかもしれない。しかし、そんなことを政策として掲げたら、まず現在の「民主主義」体制の中では支持されることはありえないであろう。だから誰もがそんなことができるわけがないと思う政策を掲げ(あるいはもっと悪い場合には、その政策が実現可能であると不勉強の故に思い込み)、与党と野党が互いに足を引っ張りあうことが続いていく。どうすればいいのだろうか? どうしようもないのかもしれない。
 しかし、ひょっとすると、現在の状態はさまざまにありえた可能性の中でのある程度ましな状態であるのかもしれない。リーマン・ショックなどということがあれば、一世紀前あるは半世紀前であっても、もっと阿鼻叫喚の地獄になっていたかもしれない。われわれは少しは過去から学んでいて、最悪の状態だけは回避できているのかもしれない。つるべ落としの没落ではなく、緩慢な衰退を選べているのかもしれない。トッドもいうようにともかくも大戦争はおきていない。一世紀前にはもっと些細なきっかけからもっと簡単に大戦争がおきていたかもしれない。それは個人主義の普及がもたした成果なのかもしれないが、われわれが最悪の選択だけはなるべく避けるという知恵をどこかで得てきているのかもしれない。
 何か高邁な理想をかかげ、それに合わないとして現状を全否定していくようなやりかたの限界がはっきりとみえてきているのだと思う。それを主導してきたのはマスコミ、典型としては新聞、それも朝日新聞かもしれない。その朝日新聞も今迷いに迷っているのではないかと思う。この「Opinion」欄にトッドのこのような記事がでるということもその一つの表れなのかもしれない。今の世の中をどうしていいのかわからない、あるいはどうしようもないのかもしれないという戸惑い。
 新聞社は広告がとれないということで危機意識をもっているのかもしれないが、もっといえば「オピニオン・リーダー」などというものが存在しえるのか、そういうものはかえって世の中を悪くしているのではないかという、自身が存在理由と思っていたことの根源が崩れてきている予感のようなものを感じているのではないかと思う。
 しかし、そうではあっても具体的に何か問題が生じると(本能的に?)攻撃をはじめてしまう。自分を「正義」の立場において「悪」を攻撃してしまう。それはもうほとんど反射的な身振りなのかもしれないし、それをやればとにかくも一時的には話題になり、その時は何がしか自己の存在理由が肯定されるような安心感も生じるのかもしれない。しかし、それは常に野党の立場からの与党への批判であり、現状は否定されるべきであるという負の主張であり、現在のように与野党が交代する場面では、全否定になってしまう。あれも駄目、これも駄目、すべて駄目ということになる。
 新聞は右肩上がりの時代には、いくら世の中を批判しても、(その批判とはかかわりなく)社会が上向きになっていったので、安心して批判ができた。しかし時代が衰退と没落へとむかうようになるとその立ち位置がきわめて難しくなる。広告収入の減少自体も(ネットに広告を奪われているということよりも)経済活動の衰退自体によるのかもしれないが、衰退の時代においては批判がさらに衰退を加速させるかもしれない。朝日新聞的なものは今、岐路にたっているように思う。
 

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