三島由紀夫「豊饒の海」

 
 三島由紀夫の本で最初に読んだのが何だったかはもう覚えていないが、あるいは「豊饒の海」第一巻の「春の雪」だったような気もする。これは1969年の1月に刊行されていて、刊行と同時に読んだ。第二巻の「奔馬」も翌2月の刊行であるからほぼ同時刊行である。第3巻の「暁の寺」はまだ「新潮」に連載中で、連載終了後、翌1970年の7月に刊行された。最終巻「天人五衰」はもちろん死後の刊行で、翌1971年の2月刊行である。全4巻黒い箱入りの瀟洒な装丁の本である。いつもは本の帯は邪魔なので買うとすぐに捨ててしまうのだが、この「豊饒の海」はひょっとすると将来初版本が高くなるかもなどと馬鹿なことを考えて、帯もとってあった。今から見るとその帯が面白い。やはり帯もとっておいたほうがいいのかもしれない。
 「春の雪」と「奔馬」の帯には、川端康成が異様にテンションの高い文を寄せている。

 『豊饒の海』の第一巻『春の雪』、第二巻『奔馬』を通読して、私は奇蹟に打たれたやうに感動し、驚喜した。このやうな古今を貫く名作、比類を絶する傑作を成した三島君と私も同時代人である幸福を素直に祝福したい。ああ、よかつたと、ただただ思ふ。この作は西洋古典の骨脈にも通じるが、日本にはこれまでなくて、しかも深切な日本の作品で、日本語文の美彩も極致である。三島君の絢爛の才能は、この作で危険なまでの激情に純粋昇華してゐる。この新しい運命的な古典はおそらく国と時代と評論を超えて生きるであらう。

 第三巻「暁の寺」には、そのころ「波」に三島が連載していた「小説とは何か」からの一部が「読者へ」として引かれている。「豊饒の海」の本文は歴史的仮名遣いなのに、ここだけ現代仮名遣いになっているのが不思議である。「波」が現代仮名遣いだったのであろうか?

 私はこの第三巻の終結部が嵐のように襲って来たとき、ほとんど信じることができなかった。それが完結することがないかもしれない、という現実のほうへ、私は賭けていたからである。この完結は、狐につままれたような出来事だった。(中略)浮遊していたものが確定され、一つの作品のなかに閉じ込められる、というときの一種痛ましい経験については、作家はどんな大袈裟に語っても、まだ十分ではないと感じるに違いない。しかしまだ一巻残っている。「この小説がすんだら」という言葉は、今の私にとつて最大のタブーだ。この小説が終わったあとの世界を、私は考えることができないからであり、その世界を想像することがイヤでもあり恐ろしいのである。

 これまた異様な文である。
 もちろん、数か月後にあのような死を予定していたわけであるから、それを知った後で読めば、実に意味深長な予言になっていることはわかるのだが、刊行当時にこれを読んだときはなんとも大袈裟だなあと思った。
 こういうハイ・テンションが許されたのだから、1970年前後は、日本の文学の世界、あるいは出版界はまだまだ熱かったのである。
 一・二巻が刊行された1969年の1月から2月にかけてというのは安田城落城の前後だから、傍観していたとはいえ、まったくの部外者ともいえないわたくしの身辺にもそれなりにいろいろなことがおきていたはずで、その間、どこでどのようにしてこれらの本を購入し読んだのかはもう覚えていない。「春の雪」は正月中に刊行されたのではなかっただろうか?(奥付では1月5日発行) 1968年末に少部数の私家版が刊行されたという噂もきいたような気がする。この2冊を読んで面白かったので、遡って三島の過去の作品を読むようになった。それで、翌70年11月の死の時には、それに驚かない程度には三島の作に親しむようになっていた。三島はこの第一・二巻を書いている時には、もっと古典的で均整のとれた作品を書こうとしていたのではないだろうか? それこそ川端康成ではないが、「日本にはこれまでなくて、しかも深切で、日本語文の美彩」な作を目指していたのではないだろうか? この一・二巻には三島の思想はあまりでてきていないと思う。それが「暁の寺」を書いている時点で何かが変わってきたのであろう。自分の思いを入れたくなり、演説をぶちたくなってきている。作品の均衡などを差しおいても告げたい何かが出てきてしまったように思う。それで「暁の寺」は破綻した作になり、「天人五衰」は小説を書くことに興味を失ってきていることが、明瞭にみてとれる、なんともなげやりなものとなってしまっている。
 三島の作を遡及して読んでいったといっても、もちろん全部の作品を読んだわけではなく、主要な長編でも読んでいないものがいくつもある。「禁色」とか「潮騒」とかはだめで実は「金閣寺」も読み通せなかった。その時点では面白いと思ったのは「鏡子の家」である。これは刊行当時はなはだ不評で、それで三島が変な方向にいくようになったという説もある位である。しかしわたくしには面白かった。これはニヒリズム研究とでもいうような小説なのだが、二十歳少々の人間はそういうものを面白がるのである。「世界の崩壊を信じる有能な貿易会社員」である清一郎などというのを格好いいと思いしびれた。しかし今から読み返すとつまらない小説である。いかにもつくりものであって、作中の人物が生きていない。三島自身はおそらく清一郎に自分を擬していたのであろうが、後年はこういう人間を大嫌いになり、それが「豊饒の海」での本多繁邦の描かれ方になったのであろう。三島はしつこく「鏡子の家」の不評のリベンジを考えていたはずで、画家の夏雄と俳優の収が松枝清顕になり、ボクサーの俊吉が飯沼勲になっっていったのであろう。
 わたくしは今では、三島の小説では「愛の渇き」とか「美徳のよろめき」とか「永すぎた春」あるいは「美しい星」といった作品のほうが面白い。これらはみな小説の枠内におさまっていて、小説以上のものになることをもとめていない。しかし、「鏡子の家」は小説以上の何かであることを意図している。「豊饒の海」も一・二巻までは小説の枠内にある。少なくとも川端康成にはそのように思えた。しかし第三巻で本多繁邦が覗きをはじめるあたりから、認識者への嫌悪という主題が全体のバランスを壊してせりあがってくる。そして三島には小説を書くという行為が行動であるとはどうしても思えなくなって、何か現実社会に行動で爪痕を残したいと思うようになったのであろう。そのような「実」へのこだわりは、ひょっとすると、東大法学部をでたことによるのかもしれない。
 わたくしには小説よりも戯曲が面白く、「十日の菊」とか「朱雀家の滅亡」「サド侯爵夫人」とか、あるいは「近代能楽集」とかは今でも記憶している。そのほか中村光夫との「対談・人間と文学」も面白かった。「やっぱり背の高くなる文学というのは非常に必要ですよね」という三島の言葉はずっと記憶に残っている。これはリアリズムの否定であって、実際の人物がどのようであるかということは重要ではなく、その人物が何か気高くなる瞬間のようなものが書かれなければいけないということと思う。おそらく倉橋由美子も三島のそういうところに惹かれたのであろう。
 

春の雪 (1969年)

春の雪 (1969年)