文藝春秋編「わたしの詩歌」

 

 四十六名の人に自分の好きな詩歌を挙げてもらい、それにかんしての短文を付したものである。
 ここでは内田樹の「二度と再現できない歌―ワルシャワ労働歌―」のみをとりあげる。


 暴虐の雲 光を覆い 敵の嵐は 吹きすさぶ
 怯まず進め 我らが友よ 敵の鉄鎖をうち砕け
 自由の火柱輝かしく 頭上高く燃え立ちぬ・・・


 というようなものである。
 内田は言う。
 『かって「革命歌」という楽曲のジャンルが存在した。
  今はもうない。
  そのような歌を声の限りに歌う人々がいた。
  今はもういない。・・・
 その曲を、スクラムを組んだ数千人の学生たちが声を限りに歌っていたときに、身体を通り抜けていった地鳴りのような震動といっしょにこの曲は記憶されている。・・・
 私の記憶に蘇るのは、メロディでも歌詞でもなく、それをユニゾンで歌っていた巨大な「マッス」の自分が一部分であったという感覚である。この歌詞の中の「同胞」とか「我ら」という言葉を口にしたときに、私自身が私のかたわらで腕を組んでいた見知らぬ学生に感じていた幻想的な一体感である。
 もし、むかし多細胞生物であったものの断片が、その後、ひとり剥離して、単細胞生物になって、「私がかつて多細胞生物であったころ」を回想したときの感じ、と言ったら(分かりにくい比喩だけれど)意のあるところは汲んでもらえるかも知れない。・・・』


 人間は(とくに日本人は?)多細胞生物として生きてきたのである。これから単細胞生物としてやっていかなければいけないとしても、本当にやっていけるのだろうか? キリスト教文明にはどこか人に「単独」であることを強いるものがある。非キリスト教文明はそのようなものを欠いているかも知れない? これが現代日本における最大の問題であるような気がするのだが・・・。