ピーター・シンガー「現実的な左翼に進化する」

  新潮社 2003年2月25日 初版


 新潮社のシリーズ「進化論の現在」の一冊。

 マルクスバクーニンが主張した、<マルクスのいう共産主義体制は結局少数者による支配体制になるだろう>を一笑にふしたが、実際はバクーニンが正しかった。バクーニンのいうように、マルクスは人間の本性についてまるでわかっていなかったのである。
 マルクスは人間の本性を社会的諸関係の総和であるとした。この考えにしたがえば、社会的諸関係を全面的に変えることができれば、人間の本性はまるで違ったものになることになる。
 左派は共産主義体制の崩壊以外にも、労働組合運動の衰退という危機にも直面している。今、組合がうるさいことをいえば、工場を閉鎖して中国から輸入するぞと脅せばいいのである。先進国と中国の労働者が連帯することなどありえない。万国の労働者は今のところ団結できる見込みがまったくないのである。
 左派であるとはどういうことか? それは弱者や貧者、虐げられ搾取されている人々、それらの人々が陥っている状況を、何とかしてあげたいと思うひとのことである。
 ダーウインが「種の起源」を出版したとき、これは強者が弱者をふみつけにしていいのだということを意味していると理解したものが多くいた。
 しかし、進化は背部に道徳を背負っているわけではない。ただ起きたという事実をいっているだけである。その方向が「良い」のだということを少しも意味しない。
 左派であるとはある価値観に与することである。ダーウインの理論は価値を負わない。したがって、ダーウイン主義者には、右派も左派もともに存在しうるのである。
 ダーウイニズムは「競争的市場」を正当化するものだろうか?
 マルクスはダーウインの進化論は人類の黎明期までしか適応されないのであり、その後はマルクス自身の考えが適応されると考えた。これがマルクスの犯した根本的な誤りである。
 マルクスによれば、人間は社会的諸関係によってどのようにでも変りうるのである。プラトン以来の完全無欠な社会を築くという西洋人の意識に脈々と流れてきている概念の流れにマルクスも連なっている。しかしダーウインにしたがって人間をみるならば、人間には生物としての限界があることは明らかである。それが左派からダーウインが敬遠されてきた理由である。
 人間は完全でありうるという夢は、スターリンソ連文化大革命下の中国、ポルポト政権下のカンボジアでの悪夢となった。完全性という夢は廃棄するべきなのであって、それができてはじめて左派とダーウイン主義に接点が生まれる。
 間違いなく、生産手段が変れば、それは思想や文化に大きな影響を与える。しかし、それが変っても変化しないものもたくさんある。
 マルクス主義の権威は衰退したが、人間の性質が変りうるという考えは生き残っている。ジョン・ロックのいう「人間は精神的に白紙の状態で生まれてきて、教育次第でいかようにも変りうる」という思想である。
 人間の本性にはいくぶんかは固定された面があるということは現在ではそれほど抵抗なく受け入れられるようになってきている。しかし、25年前にE・O・ウイルソンが「社会生物学」を出版した時点では決してそうではなかったのである。
 人間の行動には、1)文化によって大きく違う行動、2)文化によって多少違う行動、3)文化によってほとんどあるいはまったく変らない行動、の3つがある。1)としては農業か狩猟かといった食糧生産の方法がある。2)としては男女の関係などがある。3)としては、われわれが社会的存在であるということがある。階級や順位システムがあるということもここに入れたい。性による役割分担もここに入る。
 階級や男性優位というようなことはほとんど人間社会に見られる。しかし、そのことはこれがいいことであるとか、変えるべきではないというようなことは意味しない。
 これが意味することは、ある特定の階級制度をなくしたからといって、階級制度そのものがなくなるわけではないという警告だけである。階級制度をなくそうとすることは、それはとても難しいことであるということを肝に銘じなければいけないというだけのことである。
 理論的には、独占的な国有企業はもっとも効率的なはずである。しかし、実際には、そこに人間が私利私欲でうごくものであるという仮定を導入すると、非効率と汚職が出現し、民営の企業よりもずっと効率が落ちてしまうことになる。
 日本とアメリカの社会は対照的である。日本では突出したものがめだち(出る杭は打たれる)、アメリカではダメなものが目立つ(きしむ車輪は油をさされる)。そうではあるが人間社会には競争的側面と協調的側面があり、どちらがより優位であるかという程度問題であるともいえる。
 これからの左派は、
 人間の本性の存在を否定してはならない。
 人間の本性は元々よいものである、限りなく変えられるものであるとしてもならない。
 人間同士の対立や反目はすべてなくすことのできる政治的・社会的・教育的手段があると期待してはならない。
 すべての不平等が、差別や偏見、抑圧や社会的条件に原因があるとしてはならない。

 これからの左派は、
 人間には本性があることを受け入れ、それをよく知ろうとしなければならない。
 それが本性であるからといって、それが正しいとしてはならない。
 これからも人間は地位と権力を求めて争っていくだろうとしなくてはならない。
 人間はお互いに協力しあえる状況があれば、それを肯定的にとらえるものであることも知らねばならない。
 競争よりも協力を育む方向をめざしていかねばならない。
 弱者や貧者、虐げられ搾取されている人々、それらの人々が陥っている状況を、何とかしてあげたいと思うことは重要であるが、どんな社会的・経済的変革をすれば本当にそのひとのためになるのかを注意深く考えなくてはならない。

 これを読んでいると、E・O・ウイルソンの「社会生物学」の影響というのはとても大きかったのだなあと思う。「社会生物学」はS・J・グールドなどの左派から猛烈な攻撃をうけたわけだが、グールドらは、人間の本性が生物学的に規定されているという見方が現状を肯定し、変革を否定するものであると捉えたのであろう。
 ここで主張されていることは、人間の本性が生物学的にきまっている部分があることを是認し、その上でなおかつできることがあるか考えていこうというもので、随分微温的である。左派であるということが、弱者や貧者、虐げられ搾取されている人々、それらの人々が陥っている状況を、何とかしてあげたいと思うことであるということに収斂し、どのような経済体制を選択するかという部分をふくまないというのであれば、それはもうほとんどマルクス主義とは縁もゆかりもないものになってしまう。
 そして、本書にもほのみえる<左派>の尻尾は、弱者や貧者、虐げられ搾取されている人々を何とかしてあげたい、という場合の<あげたい>という言葉のニュアンスである。少数の選ばれたものが多数の不幸なひとをなんとかしてあげるという発想、それこそが世界を不幸にしてきたのだとポパーはいうのだが・・・。スターリンソ連はいざしらず、文化大革命下の中国、ポルポト政権下のカンボジアもともに、毛沢東ポルポトも不幸なひとをなんとかしたいと思っていたのである。さらにさかのぼれば、フランス革命ジャコバン党にまでそれはいきつく。人間に本性があることを理解すれば、こういう不幸な思想はもう生まれないのだろうか?