ウルフ ペデルセン ローゼンベルク「人間と医学」(2)

     博品社 1996年
 
 第4章は「病気の機械モデル」と題されている。
 機械モデルというのは<病気とは生体という機械の故障である>という見方のことである。病気とは機械の故障であり、健康は故障していないことである。その見方によれば、健康と病気は分けられる。故障しているかいないかという事実の問題なのだから。著者らはそういう見方に反対で、個人の健康とは事実の問題ではなく価値判断もふくものであるという立場に立つ。人体と自動車を同じに論じることが可能だろうかという。
 こういう議論を読んでいると、養老孟司氏の初期の本にあった文を思い出す。

 生物学には昔から、生気論と機械論、統合論と還元論、という対立がある。・・生気論、統合論は同系で、機械論、還元論は同系である。つまり、生物学というものは、物理化学に還元できる、と思うのは還元論の方である。・・
 ところで、現実に生物学をやっている人と話し合うと、機械論者というのは、探せば探すほど居なくなる。・・考えてみれば、これは当たり前のことで、近代の生物学は人間も生物の中にまぜてしまった。生物学をやるのは人間であるから、誰も自分を機械だと思っていないし、あの女に惚れたのはホルモンの故だ、とは思っていないのである。だから抽象的に論ずる限り、機械論も還元論も人気は全く無い。
 ところで、もう一つ厄介な事がある。患者は医者に行くと、薬をもらいたがる。注射をしてくれ、と言う。これは明らかに、機械論、還元論の立場に立っているのである。自分の体の動きが悪いから、油を差したら何とかなるか、と思っているのである。(「生物学と自由」 「ヒトの見方」所収)

 本書で議論されていることも、養老氏がここでのべていることと同じ問題であるが、養老氏の議論の仕方のほうが“粋”である。それに比べると、本書の著者たちは“野暮”である。ドーキンスとかデネットあるいはピンカーの論の仕方もまた野暮である。彼れが正しいものが一つしかない文明、一神教の伝統のなかで生きてきたからではないかと思う。わたしはこういう考えだが、それとは別の考えのひともまたいるであろう、わたしはわたし、他人は他人、ひとぞれぞれ、などといういきかたは、彼らはどうもできないようなのである。
 歯が痛いというのは機械の故障である。冠状動脈がつまったり、腹部大動脈が破裂したりするのもまた機械の故障である。人間の本体が脳にあるとすれば、その他の臓器は脳を維持するための装置である。そういう背景がなければ、臓器移植という問題はおきてこない。輸血を受けたとしてもそれでもまた自分は自分である、ということには多くのひとは同意するであろう。
 虫歯があるがまだ痛くはない、あるいはすでに脱髄してある歯に虫歯ができたが神経がないから痛まない、そういうのは病気であるか、というようなことをいいはじめるとすでに問題が生じてくるが、健康かそうでないか、病気かそうでないかというのは、0か1かであるという議論である。一方、140/90の血圧は高血圧かどうかというのは、連続量をどこかでわけるという問題であるから、0か1かの議論に持ち込むのは無理がある。
 白か黒か、0か1かというのは西洋的な一神教の見方であり、連続した変化があり中間域には灰色の部分があって当然というのは東洋的な多神教の見方なのであろうか?
 そういうデジタルとアナログの問題以外に、もう一つの問題がある。自分が病気であると思えば病気、自分が健康であると思っていれば健康という側面が医療にはあるという問題である。著者らが問題にするのはそちらのほうの議論である。たとえ歯がずきずきしていようとも「心頭滅却すれば火もまた涼し」などと嘯いているひとは健康なのかもしれない。本当かどうかは知らないが、戦場で大怪我をしてもしばしば痛くないのだそうである。危険な前線にいるうちは痛くなく、安全な後方に運ばれてはじめた痛みを感じるのだそうである。機械モデル支持者にとっては戦場で負傷したときから病気がはじまる。反=機械モデル論者にとっては、後方に移送され痛みを感じるようになった時点で病人になる。病気をもったひとが病人であるという一対一対応が成立しないことが問題で、機械モデル論者は病気を問題にするし、反=機械モデル論者は病人を問題にする。
 そこでわれわれ医療者がかかわるべきであるのは、主観的な病気であるのか客観的な病気であるのかという方向に議論が進んでいく。著者らは、臨床医学は応用生物学以上のものである、と主張する。
 こういうあたりを読んでいて感じるのは、定義というものへの強いこだわりである。健康とは何か、病気とは何かを厳密に定義しようとすることに大きな意味があるとは、わたくしには思えない。われわれが臨床であつかう対象は実に種々雑多なものをふくむのであり、それに無理に包括的な定義をあたえようとしても、そこからはみ出してしまうものがたくさんでてきてしまうという、きわめて当たり前のことがあるだけのような気がする。どうもこういうあたり、プラトン以来の西洋哲学の悪しき伝統であるような気がする。どこか彼方に病気とか健康というイデアがあるなどということはないのである。
 
 次の第5章は「医学における因果性」。
 結核の原因が結核菌であるというのと、肺がんの原因がタバコであるというのがどう違うか? 結核菌がなければ結核はおきない。しかしタバコがなくても肺がんはおきる。結核菌がいれば結核という病気がおきるわけではない。タバコを喫うひとが全員、肺がんになるわけではない。○○という病気の原因は××である、という言い方をするときの××が結核菌であったり、肺炎球菌であったりする場合には混乱が少ない。しかし、心筋梗塞の原因が脂質の異常であるという場合には大きな問題がおきる。疫学という学問は物理化学的な説明とはまったく別の原理によるものだからである。著者らはこの問題については機械モデルの立場に近くなる。疫学は一回限りの出来事については何もいえない。しかし、物理化学モデルならそれができる。
 5つの症例が検討される。1)肺炎球菌による髄膜炎。2)ヘビースモーカーに生じた肺がん。3)上腹部痛の患者の胃潰瘍。ただし胃酸は正常。4)過多月経による貧血。5)多量飲酒者におきた肝硬変。最後の症例は離婚歴のありうつ症状も呈している。これらのほとんどは機械モデルで説明可能である。しかし多量飲酒をもたらした社会的背景にまで議論がおよぶと複雑になる。
 
 第6章は「病気の分類」
 現在の疾病分類は基本的に病理解剖学に依拠するが、血圧計がなかって時代には高血圧という病名はなく、感染症については細菌学の知見が分類をかえた。最近では免疫学の知見も重要になってきている。結核という病気は病因論からは単一に扱いうるが、臨床像からそれを単一のものとすることは困難である。
 著者たちは、この点にかんして唯名論の立場にたつという。それは実用のために便宜的につけられたものであり、その背後に実態があるわけではないのだ、と。しかし、実態としての病気がひとびとを襲うというイメージはきわめて広く流布している。これまたプラトンイデアである。
 
 このあたりの議論をみると、著者らは病気の機械論モデルに反対といっているにもかかわれらず、機械論のほうに接近してきている。彼らは機械論モデルが間違っているというのでなくて、機械論モデルだけでは病気のすべてを包含できないというのであり、因果論とか分類という問題になると機械論に傾斜する。上で引用した本で養老氏が述べているが、医学論文にかぎらず自然科学の論文ではその書く形式がきまっていて、それにはまるように書いていくだけで、ちゃんと機械論、還元論になるようにできている。養老氏が英語で論文を書くのを早くにやめたというのも、それに関係しているのであろう。その形式にのっとらないと、それは論文ではなくエッセイとみなされてしまう。
 最近のホメオパチー騒動を見ていて感じるのは、物理化学モデルにたてば、(理論的かつ論理的には)それが無効であることは自明であるのだが、疫学的にそれが効いたという議論はそれにもかかわらずなかなか否定しきれないらしいということである。もちろんプラセボ効果の問題があるからであるが、病気をすべて単一の理論で説明してしまおうという体液説的な説明を、馬鹿げたものとして一笑に付すことがなかなかできということも大きいようである。そういう体液説は病気というものが実態としてあるという反=唯名論の立場なのであるが、実態ということを議論しはじめる、物理化学モデルとはまったく無関係な、実在論という哲学の領域にはいってしまう。そういう哲学の領域からの襲撃に機械論はどうも弱いらしい。
 ドーキンスとかデネットの反=宗教論も、物理化学モデル、機械モデルからはどこからも神などというのは出てこないということに最終的には帰着するのではないかと思うのだが、物理化学モデルから倫理や道徳を導くのは困難であることは明らかであるので、「生物学をやるのは人間であるから、誰も自分を機械だと思っていないし、あの女に惚れたのはホルモンの故だ、とは思っていない」という壁が超えられないのである。倫理や道徳を物理化学モデルから導入しようとすると、頼りにできるのは進化論だけであるが、しかし定言命題が進化論からでてくることはありえないので、それは説得力に乏しい。学問としてはドーキンスのいっていることは正しいかもしれないが、でもそれは俺には当てはまらない、ということになってしまう。人間と人間以外の動物をわけて人間は特別という方向をみとめる限り、反=宗教論はつねにアキレス腱をもつ。本書の著者たちもまたその尾っぽをひきずっているように思う。だが、その問題については、本書の後半でもっと具体的に議論されることになる。
 

人間と医学

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ヒトの見方 (ちくま文庫)

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