C・カリル「すべては1979年から始まった」 草思社 2015年1月 (1)「日本語版によせて」 プロローグ「激しい反動」 第1章「不安の高まり」
エズラ・ヴォーゲルの「ジャパン・アズ・ナンバーワン」が刊行されたのが1979年なのだそうである。その頃不況にあえいでいたアメリカに教訓をあたえたいと思ったのだと。シンガポールや台湾や香港、韓国などはすでに日本に学んでいたのだから。
1979年は、後から振り返ってみると世界経済の序列に劇的な変化が始まった年であった。訒小平は1978年に日本を訪れたとき、中国はまさに劇的な変化を遂げようとしているのだと語ったが、日本側でそれを真剣に受け止めたものはいなかった。
本書は未来に何が起きるかを完全に予測することはできないという教訓を提供するものなのだと著者はいう。
1979年1月、イランのシャー(国王)は祖国を去り二度と戻らなかった(戻れなかった)。37年の統治によりイランに近代化と経済の発展をもたらし、秘密警察と世界有数の軍隊を擁していたにもかかわらず、パリに亡命しているシーア派の長老ホメイニーを讃える群衆に追われて。革命というものは、世俗の近代化推進による成果とみるアーレントらの見解に、それは反するものであった。イランでの宗教による革命という奇妙な出来事をみて、宗教は隠れ蓑で実際は左派による革命なのだと見るものも欧米には多かった。、当時のアメリカ大統領のジミー・カーターなどは「ホメイニーはただの「狂人」だ」と一蹴したものである。しかしホメイニーはシーア派聖職者が統治して社会のあらゆる側面を管理するというビジョンを長年にわたり育んできていたのである(もちろん、イスラム教の経典は、金融政策や為替レートや農業補助金などについては具体的には一切語っていないにしても)。「イスラム教徒の革命」はホメイニーにとっても具体的にはまったく未知の領域だったのである。
イランでの大変革はイスラム教圏に強烈な影響をもたらした。東の隣国のアフガニスタンもそうであった。1979年のクリスマスの日、ソ連は発足したばかりのアフガニスタンの共産主義政権を守るためにアフガニスタンに侵攻した。欧米ではそれをみて、1956年のハンガリー侵攻、1968年のチェコスロヴァキア侵攻を思い出し、ソ連がペルシャ湾への侵攻を企てているのだと思った。ソ連もアメリカもイスラム主義の台頭に驚いていたのである。アフガニスタンはイランのシーア派とは違い、イスラム教でもスンニ派であったが、イスラム主義という点では共通していた。中東の反体制イデオロギーは、マルクス主義や世俗的民族主義からイスラム主義への変わっていったのである。
イスラム圏ばかりでなく西欧でも1978年に、456年ぶりに非イタリア系の教皇が選ばれた。ポーランド出身のヨハネ・パウロ二世である。1979年の新しい教皇の母国ポーランドの訪問は、やがて中東欧の共産主義体制を根底からゆさぶることになる。
しかし一方では、イギリスで1979年にサッチャーが首相に選ばれている。サッチャーは市場の伝道師となった。
1978年末、訒小平は実権を握り、経済特別区設置の準備をはじめた。毛沢東がはじめた人民公社の解体を開始し、集団農業を否定していくものであった。しかし、訒小平は共産党の支配の優越を心底信じ続けていたということを忘れてはならない。それが彼の行動をわかりにくくしている。
さてこのような1979年におきた出来事はお互いに関係しているのだろうか? 直接の関係はないのかしもしれない。しかし、それは「社会主義ユートピア」の終焉のはじまりだった。長年、無視されてきた「市場」と「宗教」が舞い戻ってきたのである。だから左派の側からは「反動的」「蒙昧主義」「封建主義」「反革命的」「走資派」などと糾弾の声が強くおこった。
訒小平は毛沢東の文化大革命の行き過ぎを是正しようとしたのだし、ホメイニーは「白色革命」というシャー・パフラヴィー国王の近代化の行き過ぎを否定したばかりでなく、マルクス主義をもまた否定した。アフガニスタンではソ連が支持するカーブルの政府に対してイスラム教徒が武器をとった。ヨハネ・パウロ二世はソ連の神不在の物質主義に抵抗しようとした。サッチャーは戦後イギリスを支配した社会民主主義的コンセンサスに抵抗した。しかし、そうであっても、彼らはみな左派から大きなものを吸収していることを忘れてはならない。ホメイニーはマルクス主義から多くのものを学んでいる。植民地支配や不平等を激しく非難したのだから。また、イラン革命後は国有化と国家管理という社会主義の概念を大きく利用している。アフガニスタンのイスラム戦士も共産主義の台本を利用している。サッチャーも決して保守的とはいえない。革新的なのである。
かれらに共通しているものは「反抗の精神」だった。われわれはかれらが変えた1979年後の世界に生きているのである。
では、1979年の前はどういう時代だったか?1960年代が欧米諸国で激しい変動と政治劇の時代であったとすれば、1970年代は停滞の時代だった。1960年代はアメリカはウォーターゲート事件とベトナム戦争という負の記憶と結びついている。しかし60年代の急進的な思想が実際に社会を動かしたのは70年代であるという見方もある。60年代に生じた反権威主義が70年代を作ったというのである。戦後の経済成長が終焉したのも70年代だった。1973年の石油ショックがその象徴である。低成長であるにもかかわらず物価が上昇するスタグフレーションという従来からの経済学では説明できないことがおきた。1971年のニクソン政権での金とドルの交換停止でブレトンウッズ体制も崩壊した。しかし不調の欧米とは異なり、日本は驚異的に成長し、台湾、シンガポール、韓国、香港がそれに続こうとしていた。ブラジルとメキシコも成長していた。
苦しむ欧米のなかでも一番苦しんでいたのがイギリスだった。1945年以来の福祉国家への道が行き詰まっていた。1976年にはついにIMFの支援をあおぐことになる。先進国へのはじめてのIMFの支援であり、以後も2008年のアイスランドまでない。
一方イランは石油危機の恩恵をうけた。シャーの「白色革命」は左派を抑圧するものであったが、土地改革などマルクス主義からも学んでいた。石油収入が増えてくると、土地改革や教育への投資、軍備の増強をおこなっている。独裁主義による発展の好個の例であるように多くのひとにはみえた。しかしシーア派の支配者からはそれはそれは許せないものと思われた。欧米流とイスラム教のいきかたは背馳する。近代教育の普及はイスラム教育と両立しないし、近代法はイスラム法に反する。女性の教育もまたそうである。教育を受けた女性はベールを嘲笑するようになる。
1971年、シャーが企画したイラン建国2500年祭典をホメイニーは亡命先から、その散財を激しく批判した。シャーは批判する聖職者を弾圧したが、若い聖職者は獄中で一緒だったマルクス主義者から大いに学ぶことになった。若い思想家もイランのアイデンティティーを求めていた。しかし、シャーも左派もこういった動きを軽視していた。
原油価格の高騰は欧米に打撃をあたえたが、産油国ソ連を利した。その資力で戦後植民地から解放された発展途上国に積極的に進出した。アメリカのベトナムでの敗退で、ソ連は東南アジアで確固たる基盤を得た。1969年のイエメンでの共産政権の誕生でペルシャ湾にも基盤を得た。しかし、チリのアジェンデ政権の崩壊や、エジプトのサダト大統領のアメリカへの寝返りという不安材料もあった。
東西冷戦のなかで、アフガニスタンは双方からの援助合戦で恩恵をうけた。アメリカは農業を支援し教育を助けた。ソ連は道路をつくり、医療を提供した。特に兵士の教育をソ連でおこなったことが大きい。兵士たちの多くは後進性を克服するにはソ連のやりかたに学ぶべきだと思うようになった。
共産主義者ではなくても、独裁による近代化を志向する特権階級者も多かった。その一人であるダーウードは1973年にソ連の後押しでクーデターをおこし政権を握った。それは世俗的な近代化を志向した。
このころには東西が収斂していくという議論が主流で、ソ連の崩壊を予想するものはほとんどいなかった。しかしワルシャワ条約機構の維持には膨大なコストがかかった。多大な防衛費が大きな負担になってきた。中央計画経済は工業製品の製造にはむいていたが消費財や日常の食糧の提供には不適だった。重工業の優先というイデオロギーがやがてソ連を崩壊させることになる。イデオロギー教育も思想の沈滞、無気力とシニシズムの沈滞を生んでいった。そこからソルジェニーツィンやサハロフという少数派も生まれた。
ポーランドでは1947年の建国以来、ソ連への抵抗も続いていたが、1970年の大きな暴動によりゴムウカ政権が倒れ、ギエレク政権となった。彼は欧米からの融資を受け、ポーランドはしばらく順調に成長を続けた。特筆すべきことはポーランド人が一貫してローマカトリックへの忠誠を捨てなかったことである。統一労働者党は何とか教会から人心を離そうと試みたがうまくいかなった。教会は功利主義ではない価値観を提供し続けた。経済の成長がやがて停滞すると対外債務の返済が困難になってきた。国民の負担は増し、その中から新しい反体制運動が生まれてきた。労働者擁護委員会(KOR)である。その運動の犠牲者の追悼の主宰者のクルクフ教区大司教が後のヨハネ・パウロ二世である。
中国では、1966年、文化大革命が始まった。56年のフルシチョフによるスターリン批判に衝撃を受けた毛沢東は、ソ連との関係を絶って、ソ連を修正主義と批判し、国家資本主義であると断じた。しかし、毛沢東指導による「大躍進」という共同農業への試みは破綻し、58年〜61年のあいだに4500万人が飢餓で死んだとされる。劉少奇や訒小平らが、「大躍進」政策の修正を試みたことにより、危機はなんとか緩和された。しかし1964年のフルシチョフ失脚は、自分もまたそのような運命をたどるのではないかという危機感を毛沢東にもたらした。文化大革命は、自分の優位を回復しようとする毛沢東の試みだった。66年〜76年にかけて何百万人もの人間が拷問にかけられ、殺され、あるいは自殺している。国家主席であった劉少奇でさえ、逮捕され、拷問を受け、69年に死んでいる。しかし文化大革命による混乱が統制不能になり、毛沢東は軍部に秩序回復を委ねる。その結果、軍の指導者である林彪が台頭するが、それもやがて失脚する。1970年代には文化大革命を生き延びたひとたちが復活しはじめるが、中国の未来がどうなるか誰にもわからなかった。
以上が著者による1979年の位置づけと、それに至る前史である。1)イスラム教の台頭、2)ポーランドでのローマ・カトリックに基づく抵抗運動と、それが伏線となっての東欧の崩壊、3)中国でのポスト毛沢東時代への変貌、4)市場原理主義の台頭、である。1)と2)は宗教の復権であり、3)と4)は市場原理の復権かもしれないから、一見、正反対の方向であるようにもみえる。しかしマルクス主義の凋落という視点からは共通のものが見える。「宗教は阿片である」かもしれないが、その阿片はとても大きな力を持っていたわけであるし、福祉国家というどこか社会主義と通底する志向も否定され、計画経済という東側の看板は市場原理へと塗り替えられていった。
1979年の自分を考えてみると、32歳で、学位論文の準備をしていて、ようやく論文が書けそうな目途がついてきた頃である。世界の動向に特に関心があるわけではなく、ホメイニー師の出現はただもう理解できないと思ったし、ヨハネ・パウロ二世が教皇になったことにも何の関心もなかった。サッチャーさんよりもアメリカのレーガン大統領のほうが変な人と思っていて、その経済政策をブードゥー経済学などと揶揄しているひと(ラッファー曲線?だったか、減税しても景気がよくなれば税収が増えるから大丈夫という話?)の尻馬に乗って反=知性のひとが大統領になるアメリカも困ったものだと思っていた。それでサッチャーさんはそのお友達なのだから、その程度のひとと思っていた。
唯一関心があったのが中国で、文化大革命というのがわけがわからなかったからである。今から思うと、スターリン批判やハンガリー動乱などによってソ連の社会主義には失望したが社会主義そのものには多いに未練があるひとが当時はたくさんいて、そのひとたちはソ連と対抗する毛沢東に希望を見出していたのだろうと思う。たぶん朝日新聞社などにもそういう人たちがたくさんいて、だから新聞を読んでいても何がおきているのかさっぱりわからなかった。文化大革命礼賛の記事があふれるなかで、突然、林彪がモンゴルで墜死したり、毛沢東の奥さんがわけのわからないことをしていると思ったら、四人組が失脚したり、もう何がなにやらであった。ソ連のスターリン批判とは違って、中国では未だに毛沢東批判というのは公式にはおこなわれていないと思うが、大躍進や文化大革命の実態が明らかになってくると毛沢東の神格化はできなくなってくるわけで、毛沢東がただのひとになることで社会主義にさしていた後光は決定的に失われたのだと思う。今の中国を見てマルクス主義の成果と思うひとはまずいないだろう。
わたくしもふくめ、ごくごく大きな方向として世界は世俗化の方向にむかっていくと思っていた人間にとっては、イランでのホメイニー師による一見は宗教による政治と思われるものや、ローマカトリックが世界で未だに持つ大きな力というのは理解できないものであった(ソ連の崩壊後、ロシアでもロシア正教の復権は著しいものがあるらしい)。われわれは(少なくともわたくしは)どちらかというとヨーロッパを世界の嫡流とみて、アメリカは欧州の異端とみる傾きがある。未だに進化論を教えることに大きな抵抗があるアメリカを野蛮と感じるのである。イランやポーランドで進化論が教育でどのようなあつかいを受けているのかは知らないが、「宗教は、この現代に生き残っている過去である」「宗教とは、近代合理主義が登場する以前のイデオロギーである。だから近代合理主義が登場した段階で、宗教の生命は終わるのだ。」(橋本治「宗教なんかこわくない!」)と思う側の人間にとっては、宗教の復権は理解を超えている。
しかし、多くのひとにとっては、世俗化とは倫理とか道徳が失われていく、あるいは物質はあるが心は失われていく世界になることと思われているようなのである。そしてわたくしの理解では、多くのひとにとって、マルクス主義とは経済学説ではなく倫理説あるいは道徳説だったのではないかと思う。人々に生き方の指針を示すものだったのではないだろうか? それこそがマルクス主義があれほどの力をもった理由なのではないだろうか?
医療はまったく世俗的な行為であり、医学は細々とではあるが科学につながっていると思うが、その科学でできることは治すことへの試みであり、もはや医療としてなにもできることがなくなった場合には、出番がなくなる。そこから先は宗教の領域と考えるひとも少なからずいる。あるいは医学とは「身体」学であり、「こころ」の学ではないから(精神医学は現在では「こころ」の問題を脳内物質の変化の問題ととらえる傾向が強くなってきている)、「こころ」の問題は宗教の出番、広い意味での人文学の出番であって、医学の範疇ではないということである。あるいは近代合理主義の出番ではないということである。医者が着ている白衣とか首からぶら下げている聴診器は呪術の道具とみられないこともない。
ところで本書を読んで強く感じるのが、信念をもった個人は大きなことを成しとげることが時にあるということである。もちろん、運もある。信念をもっていても何もできないままでおわるひとももちろん多い。だが、ホメイニー師もヨハネ・パウロ二世も、サッチャー首相も訒小平も信念を貫いたひとだった。だからこそ、何事かを達成できた。ところで、信念というのは近代合理主義で説明できるものなのだろうか?
本書で一番複雑で理解がむずかしいと思われる人間が訒小平である。共産主義というものをどのように考えていたのだろうか? 中国という広大な土地を一つの国としてまとめていくためには、なにかイデオロギーが必須と考えていて、共産主義が一番有効性が高いと思っていたのであろうか?
1979年にはまだマルクス主義は生きていたが、後から振り返ると、その終わりのはじまりだったということなのだろう。1979年がまた近代啓蒙の終わりのはじまりだったのかどうかはまだ明かにはなっていないのだと思うが。
第二章以下では、イラン、ポーランド、イギリス、中国、アフガニスタンをそれぞれもう少し詳しく見ていくことになる。
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