梅田望夫「ウェブ時代をゆく −いかに働き、いかに学ぶか」(6)第六感

 
 前回のエントリーを書いていて、人間には第六感があるが、デジタルの世界にはそれがない、ということをいいたいのだろうか、と思った。で、梅田氏の本のどこかに第六感という言葉がでてきたことを思い出した。探してみると、p29〜30で、江島健太郎というかたの「ウェブ進化論」への感想の部分である。「ウェブ時代をゆく」に引用されている部分よりももう少し長く引用してみる。(ブログのいいところは、枚数制限などということを意識しなくてもいい点にあると思う。)

 人間には視覚、聴覚といったプリミティブな「五感」があるとされているが、実は脳というものは一般に考えられているよりはるかに可塑的で、高次知覚ではそもそも幻想と現実の区別などないということについてはすでに触れたことがある。
 つまり、いま我々はネットという突如として眼前に広がった「世界」に対してのみ有効な「第六感」を発達させる、長い長い進化の途についたのだ、と考えることさえできる。
 梅田さんはこの本の中でサンタフェ研究所のブライアン・アーサーの言葉をひいて「情報革命は産業革命に匹敵する数十年オーダーの大きな変化である」と言われているが、ぼくにとっては情報革命とはグーテンベルク活版印刷によって情報というものに物質性を与えた15世紀頃からこのかたずっと続いており、そういう中にあってのインターネットとは、1940年頃のコンピュータの登場すらインターネットのための序曲に過ぎなかったというぐらいの、ドイツの宗教革命やフランスの市民革命に匹敵する、数百年オーダーの巨大な変化のはじまりとして位置づけることができると考えている。
 繰り返すが、ネットは「仮想世界」ではなく「世界」だ。脳はこれらを区別することはできない。そこは「社会のようなもの」ではなくて「社会」そのものであり、生活の場であり、ビジネスの場であり、生産と消費の双方が行われる場である。そこは「こちら側」での知識や経験の多寡ではなく「あちら側」での体験の差のみが有効な差異として競争原理が成立しているビジネスの場でもある。

 いわゆる“第六感”の話ではなかった。ネット社会への感性は、五感を超えるものが必要とされるという話である。原文にあたってみようと思ったのは、梅田氏の本での引用部分では、江島氏のいわんとするところがピンとこなかったからで、原文を読んでみれば、江島氏の一番いいたいことは《ネットは「仮想世界」ではなく「世界」だ》というところにあるように思う。梅田氏は、《リアルの世界とネットの世界の二つの世界があるが脳はそれを区別できない》という主張と思えるが、江島氏の文では、《ネットもまたリアルの側だ》といっているように読める。
 そういう議論からすぐに思いだすのが、養老孟司氏がよくいう「数学者は数学の世界を手にとってさわれるような具体的なありありと感じられる世界だと思っている」という話である。羽生二冠にとって将棋の世界はリアルな実在の世界であろう。しかし、関心のない人にとっては数学の世界も将棋の世界も存在しないも同然であろう。また、それに関心がなくても生きていくうえでは、ほとんど痛痒を感じないであろう。問題はネット世界というものが、それに関心がないことが、近い将来は、生きていくうえでの決定的な不利となるような、現在における識字と同じくらいの重要性をもつものとなっていくのだろうか、ということである(現代においても「WORD」と「EXCELL」が使えないことは就職などにおいて相当に不利になっているかもしれない。それと同じ位の重要性を持つようになるのだろうか? 不特定多数無限大の人間にとって、ウェブ・リテラシーを持つことがどの程度必要とされるようになるのだろうか?)。ウェブ・リテラシーを持つことが意欲ある18歳の若者にとって非常な利点であるということはよくわかる。しかしハッカーたちの力で、コンピュータは大組織に鎮座する巨大な機械から、小さくて身近な個人の道具へとなったのである。GUIによりMS−DOSの呪文は不要になり、コンピュータは一部マニアのものでなく、誰にでも使えるパーソナルな道具へとなった。たとえば、ブログの作成はホームページを作るよりずっと簡単である。その動向に逆行して、これからはまた、原理を充分に知悉している一部のひとと何もわからずにただ使っているだけの多くのひとに、能動的少数派と受動的多数派に、二極分解していくことになるのだろうか? 
 わたくしの最大の関心は、情報のデジタル化が不特定多数無限大の思考の道具として、どのくらいの有効性を持つようになるかということである。とたえば、人間のもっている第六感のようなものが、ネットの世界を利用することで、より簡単に実現するようになるのだろうか?
 第六感について書かれた本でわたくしが思いだすのは、ライアル・ワトソンの「匂いの記憶」(光文社 2000年)である。なにしろ「生命潮流」のワトソン、ニュー・エイジ・サイエンスの旗手のワトソンが書いた本なのではあるので眉に唾をつけて読んだほうがいいのであろうが、意外に?まともな本で、ヤコブソン器官についての本である。ヤコブソン器官とは人間ではほとんど退化してしまったと考えられている鼻中隔の両側にひとつずつある器官である。これは系統発生的にはフェロモンの探知器である。人間では胎生期に出現するが発生の途上で退化してしまうとされていたのであるが、1991年にある臨床家がそんなことはないと言い出したらしい。(養老孟司氏は「ヒトの見方」(筑摩書房 1985年)でこの器官が成人でも観察できることを述べているから、プライオリティは養老氏にあるのかもしれない。しかし、日本語で論文を書くと突っ張って、氏は英語論文にはしていない。) 要するにワトソンがいいたいのは、人間だってフェロモンをふくむ広い意味での嗅覚によってものごとを判断しているのかもしれないということであり、さらにそれを敷衍すれば、意識にはのぼらないサビリミナルなものでありうるということである。サブリミナルというのは閾下ということで、たとえば、映画のフィルムに挿入された一枚の画像は見えてはいるが記憶には残らないというようなことである(この点の詳細については、下條信輔「サブリミナル・マインド 潜在的人間観のゆくえ(中公新書 1996年)」に詳しい)。
 もうひとつは、ダマシオの「感じる脳」(ダイヤモンド社 2005年)である。その主張である「ソマテック・マーカー仮説」は、よくいわれる言い方に直せば、われわれは悲しいから泣くのではない、泣くから悲しいのである、という話である。これは一見奇矯な説であるが、進化の歴史を考えるならばきわめて真っ当なものであって、中枢神経系の発達は随分とあとになっての産物であるからである。中枢神経系が生まれる以前から生き物は外界のできことにさまざまな反応をすることで生き延びてきた。ある外界の出来事に対して特定の反応を起こすことを発達させた生物が生き延びる。それは何ら意識されない。すなわち閾下である。なぜなら意識のもとである中枢神経系がまだないのだから。やがて中枢神経系ができて、身体が外界に反応しておこしてことを自覚するようになる。たとえば、今泣いていることを知る。それが悲しいという感情として自覚される。泣くのが先で悲しいは後である。ダマシオがいうのは、われわれは過去の経験を身体がおこした反応として記憶しているということである。
 Aという人物、Bという出来事、Cという書物、Dという音楽、それらはまったく共通性がないものであっても、ある共通の身体反応を生じさせるとすれば、そのひとにとっては共通の何者かである。頭で判断する前に体が判断している。
 さてグーグルが世界中の情報をデジタル化したとする。それを分類するために索引を相互にどう結びつけていくかである。グーグルが世界中のネット上の情報の重み付けをする場合、まったくメカニカルに何らかのアルゴリズムにしたがって、一切人間の頭脳を介入させずにおこなっているらしい。そうではあってもグーグルのしていることは人間の頭脳がしている行為のなんらかの変形ではないか、というのがたわくが捨て去ることのできない偏見である。つまりそれは身体を持たない頭脳だけといった存在なのではないか、理性だけあって情緒をもたないような存在ではないか、ということである。もしも情報の整理の過程で人間が感じている情緒に相当するようなものでさえも取り込んでいけるようになった場合、グーグルの情報の収集と整理はわれわれの知的生活に本当に役立つものとなるのではないかと思う。(たぶん、わたくしはコンピュータは感情をもてないという偏見を持っていて、だからHALが反乱をおこすとうろたえる側にいるのだと思う。)
 「バカにならない読書術」(朝日新書 2007年10月)で、養老孟司は「俳句も短歌も、僕はまったくだめ。俳句なんか、コンピュータに作らせたらいいと思ってるもの」などと俳人がきいたら憤死しそうなことを言っている。濁点とかをとりあえず考慮にいれなければ、俳句の文字構成は48の17乗という有限個の範囲内である。少なくともサルがタイプライターを叩いて、「ハムレット」が偶然できる可能性よりも、「古池や・・・」でも「枯れ枝に・・」でも、あるいはこの本の例でいえば「気をつけよう暗い夜道と女子学生」でも偶然できる可能性はまだずっと高そうである。問題は無限に続く17字の順列組み合わせの中から有意味なものを拾いだすこと、あるいはその有意味なものの中で、「古池や・・」と、「去年今年貫く棒の如きもの」と、「この土手に上るべからず警視庁」との間に序列をつけることが可能かということである。そしてそれらの間になんら序列はない、俳句というものに一切の価値をみとめないというひともいるかもしれないのである。
 デネットの「ダーウィンの危険な思想」(青土社2000年)にボルヘスのバベル図書館という空想が紹介されている。そこにはありとあらゆる“可能的な書物”がおいてある。それぞれの本は500ページで1ページ2000字。字の部分を構成するのはスペースかアルファベット100文字の集合(大文字か小文字の英語か他のヨーロッパ語の文字と、ダッシュと疑問符などで構成される)で、一冊100万字だから、100の100万乗の書物がそこにはある。それはわれわれの宇宙に存在する素粒子全体の数より多いからまったく空想上でしか存在しない図書館ではあるが、デネットが提起するのは、その書物たちの中から有意味な本そして「白鯨」あるいは「デヴィッド・カッパーフィールド」にいきあたることができるかという問題である。
 梅田氏の本でもアレキサンドリアの万能図書館のことが言及されている。それらの本の間の関連づけ、文脈づけ、解説、再構成は「群衆の叡智」がおこなうことが期待されている。しかし、個々のひとは違う肉体を持ち、違う人生経験をしているわけなのだから、ある本に感じる情緒的反応が他のひととどれだけの共通性をもつのだろうかということが問題となる。ここでは群集ではなく、特定の個人がどうしてもでてきてしまうのではないだろうか? Aさんがする関連づけとBさんのする関連づけはまったく違ったものとなるであろうが、それでも多数のひとの関連づけを集積していけば、そこに「群集の叡智」が働いて、そこに情緒的な反応に対応する何らかの“X”が生じてくるのだろうか?
 ウィキペディアが群集の叡智のよい例となるのは、それが最大公約数的な知見を求める活動であることが大きいように思う。それに対して書物の関連づけは、離れているもの、一見関係なさそうに見えるものを結びつけるものであればあるほど有用である。それはわれわれの知らなかったことを教えてくれるから。ウィキペディアももちろんわれわれの知らないことを教えてくれる。しかし、それが提供してくれるものは“情報”であり、“情報”だけであるように思う。
 村上春樹氏の作品をデジタル化し、そこに詳細な索引づくりと関連づけをおこなっていると、そこから「雪かき仕事」という言葉が浮かんでくるだろうか? そもそも、内田樹氏が村上春樹の作品に「雪かき仕事」という文脈づけ?解説?再構成?をおこなうことは、内田氏という人間を定義するものなのだろうか、それとも村上春樹氏の仕事を定義するものなのだろうか? たぶんそれは両者の共同作業なのであろう。しかし、村上春樹は小説とは三者協議であるといっているのだそうである。書き手と読者とうなぎくん、の。
 ということで、ネットにおける「群集の叡智」というのは、うなぎくんとしての機能なのだろうか、ということを考えてみたい。
 

匂いの記憶―知られざる欲望の起爆装置:ヤコブソン器官

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サブリミナル・マインド―潜在的人間観のゆくえ (中公新書)

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