須賀敦子詩集「主よ 一羽の鳥のために」
本屋を覘いていたら、「主よ 一羽の鳥のために 須賀敦子詩集」というのがあった。
これは須賀氏の死後、見つかったもので、1959年の1月から12月に書かれたものであるが、たまたたその時期のものだけがみつかったのか、この時期だけ詩作をこころみたのかはわからないらしい。須賀氏30歳、イタリア留学してしばらくの時期であるらしい。
(おかあちゃま じかんってどこからくるの?)という詩(無題なので、冒頭の一行を題名としてある)に、以下のようなところがある。行分けせずに引用する。
「そのむかし こどもよ ひとは じかんをもってゐなかったのだ。 そのとき いのちは よろこびで ひかりは たえることない うた だった。あさのつぎには ひるが来 ひがくれると よるがきた りんごの木には りんごがなり はるには はるの花が咲いた。」
ここで「じかんをもっていなかった」というのは、あるいは現在しかなかったと言い換えてもいいのかもしれない。人間以外の動物は過去も未来ももっていないだろうと思う。いつも現在にいる。
吉田健一の「時間」は、人間に現在をとりもどそうとする試みであったのだろうと思う。「冬の朝が晴れてゐれば起きて木の枝の枯れ葉が朝日といふ水のやうに流れるものに洗はれてゐるのを見てゐるうちに時間がたつて行く。どの位の時間がたつかといふのではなくてただ確実にたつて行くので長いのでも短いのでもなくてそれが時間といふものなのである。・・・」
精神科医の計見一雄氏は、上記の「時間」の出だしの文章を引用し、人間にとっての時間についての、重要なことはすべて述べられていると書いている、といい、さらに以下を引用する。「我々がどれだけ生きてゐるかはどれだけ現在の状態にあるかで決る。・・・」(「脳と人間」) そしていう。「精神分裂病の人から、ほとんど決定的に奪われてしまうのが、かくの如き時間である。」
丹生谷貴志氏は「奇妙な静けさとざわめきとひしめき」という吉田健一論(「吉田健一頌」初出、後に「天皇と倒錯」に所収)で、吉田氏晩年の「時間」や「変化」で吉田氏が示したものは、近代の病理に対して氏が導き出そうと試みた解決策の提示ではなかったのではないだろうか、ということをいっている。因みに、「奇妙な静けさと・・・」というタイトルは、精神科医の中井久夫氏が精神分裂病患者がその発症前後の短い時間に経験する「奇妙な静穏期」について述べた論文から、とられている。
この須賀氏の詩では、時間を持っていなかった人間が、時間を持つようになったのはアダムとイブが知恵の木の実をたべたときからである。
この須賀氏の小さな詩集が氏のもつキリスト教信仰に基づいていることは明白で、ある部分はほとんど主との対話である。
わたくしが若い頃、福田恆存から学んだのは宗教のもつ二面性ということであった。魂の救済にかかわる宗教と異教徒を呪詛し自民族に救済をもたらす黙示を示す宗教である。20世紀が脱宗教の世紀であったとすれば、21世紀はふたたび宗教の世紀になるのではないかという気がするが、そこでの宗教は個人を救済するものとしての宗教ではなく、民族を統合するものとしての宗教である。
須賀氏のこのささやかな詩集を読んでみても、そのキリスト教信仰はもっぱら魂の救済もかかわるものであって、集団のための宗教という部分はいささかもふくまれていない。これは須賀氏だけのことではなく、日本人のキリスト教信仰というのはもっぱら魂の救済だけのものとなっているように思われる。いわば新約聖書だけでどこにも旧約聖書のないキリスト教である。氏がイタリアでかかわるようになったコルシア書店の運動は単なる宗教運動ではなく、ナチスへの抵抗運動からはじまっているわけで、そこにかかわるようになって宗教は単なる魂の救済ではなくなったときに須賀氏はそれまで書いてきたような詩を書き続けることができなくなったのかもしれない。
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