T・イーグルトン「詩をどう読むか」(5)
実は以下に書くことはイーグルトンとはあまり関係がない。イーグルトンは英語の詩について書いているので、それならば日本語の詩では、ということを見てみようというだけである。とりあげてみるのは、大岡信の「悲しむとき」。
最初の2連は以下。
子どものころは
悲しむとき
ひとりだつた。
悲しみは火口湖のやうに孤立して
悲しんでゐた。
その上を鳥がゆけば影がゆき
その上を舟がゆけば波もいつたが
悲しみは係累にかかはりのない紺碧の中で
悲しんでゐた。ひとりぽつちで。
最初の3行は、「子どものころは悲しむときひとりだった」とそのまま散文にしてもまったく問題ない。実に平易な書き出しである。問題は4行目で、「火口湖のように」というのは「孤立」にかかる喩であるが、これをとってしまって「悲しみは孤立して悲しんでいた」とすると日本語にならない。「悲しみは悲しんでいた」という文は成り立たない。この第4行を読んでいくと、「悲しみは火口湖のよう」であるという喩としてまず読めてしまう。だから「悲しみは火口湖のやうで、孤立して悲しんでゐた」という文ならぎりぎり成立する。「孤立して悲しんでゐた」の主語が何かが問題になるが。しかしここを「悲しみは火口湖のやうで/ 孤立して悲しんでゐた」としたら駄目で、「悲しみは火口湖のやう」という文と「火口湖のやうに孤立して」という二つの文が「火口湖」という語で結びついて一つになるというのが、散文とは異なる詩というもののありかたなのであろう。
次の連。「その上」の「その」は火口湖である。ここで「悲しみは火口湖のやう」ではなくて、「悲しみは火口湖」であることになってしまう。これまた散文では許されない詩のもつ特権である。3行目の「紺碧」も「火口湖」から引きだされている。つまり、この最初の二つの連で、「火口湖」という喩がなければ「子どものころは悲しむときひとりだった。悲しみは孤立していて、誰ともかかわりなく、ひとりぽっちだった」というだけの文になってしまう。
第3連と第4連。
だれかが片棒かついでくれる悲しみを
持つやうになると
悲しみにも
男女の区別が生まれた。(「をとこをんな」とルビ)
胸毛の生えた悲しみや
乳房で焔を押さへる悲しみ
われ人ともに悲しみを
かつぎゆくほどに
分かち持つそのひとしづくが
無量の重さ。
書き出しが「子どものころは」であるから、わたくしなら「大人になると」としてしまうところであるが、大岡氏はもちろんそんなことはしなくて、「だれかが片棒かついでくれる悲しみ」という卓抜な表現で、いきなり大人の世界が導入されてくる。第3連は「だれかが片棒かついでくれる悲しみを持つやうになると悲しみにも男女の区別が生まれた」という散文にしても文としては成立する。しかし「だれかが片棒かついでくれる悲しみ」というのは、散文であればかなりの説明をくわえることことが必要になるだろう。
だが、第4連は散文にはならない。「胸毛の生えた悲しみ」とか「乳房で焔を押さへる悲しみ」などというのは散文には使えない。しかも、ここでは文章が構成されなくなり、二つの悲しみが並列して投げ出されている。これも韻文にだけ許される世界である。
次の「われ人ともに悲しみを」の「われ人ともに」はわたくしの感じからいうと文語文に傾いている。「かつぎゆく」はもちろん「片棒かついでくれる」から導かれているが、ここでも喩が次の表現を導きだしている。いわれていることは、「大人になると、悲しみは男女のペアから生じるようになって、男が感じる悲しみと女が感じる悲しみは異なったものだが、それでも二人で一つの悲しみを担っていくことは、子どもの頃とは違った重さを生む」というようなことである。
第5連と第6連。
そのときはじめて
理解できる年齢がくる、
詩の恩愛を、
それにもまして詩ならざるものの慈愛を。
そのときはじめて
理解できる時がくる、
火口湖の孤立の中で
悲しんでゐた子どもの日の
悲しみ透明な青を。
この第5連と第6連を散文で表現しようとしても、非常に多くの言葉を費やしても、この二つの連が読者に感じさせるものを十全に伝えることはできないだろう。「一定の言葉数で我々に最も大きな楽しみを与えてくれるのが詩」と吉田健一がいう通りである。詩でしかいえないことがある。だから詩が書かれる。
いわれているのは「詩は大人にならないとわからないもので、大人の世界には詩とは異なる世界もたくさんある。そして大人になってはじめて、子供のときの単純がもっていた世界の美しさもわかってくる」というようなことであろう。
最終連。
波となり
たがひにたがひを重ね合ひ
ついには漆の艶さへ発して、
われ人ともに見分けのつかぬ
ひろびろの くろぐろの
悲しみの海とひろがつて、
わたしらを揺すつてゐる
悲しみの透明な青。
ふたたび火口湖の喩がもどってくる。そして、それはついには海となる。「ひろびろの くろぐろの」というのは散文では絶対に表せないもので、これは「たがひにたがひを重ね合ひ ついには漆の艶さへ発して、われ人ともに見分けのつかぬ」というかなりエロティックな表現を受けているのであるが(同じ大岡氏の「あかつき葉っぱが生きている」の「ひと晩じゅう/ 眠らなかった者たちに/ 昨日と今日の境目が/ あっただろうか// ふたりは天を容れるほらあなだった/ そこに充ちるマンダラの地図だった」を想起させる)、同時に「悲しみの海とひろがる」のでもあるから、エロス的な歓びがまた悲しみでもあるという世界を示している。そしてその複雑さが醸しだす「漆の艶さへ発」する「くろぐろの」の底には若い日の単純という「透明な青」がいつもあるのである。
こういうのを読むとやはり詩でしか表せないものがあるということを強く感じる。この詩は「火口湖」という喩に大きく依存しているが、「胸毛の生えた悲しみや 乳房で焔を押さへる悲しみ」という一読して忘れられない表現、「そのときはじめて」の繰りかえし、時に文語体に近づく語法、「ひろびろの くろぐろの」の「5・5」、「悲しみの 透明な青」の「5・5」+2、など、「一定の言葉数で我々に最も大きな楽しみを与え」るために最大限に技法が駆使されているが、それと当時に、そのような技法をこえた単純さへの憧憬をもこの詩は表しているわけである。宇佐美圭司というひとが、この詩は密室での抒情詩から、コミュニティというもっと広い場へでていこうという決意の表明であるというようなことをいっているが、違うように思う。これは大人になることの悲しみと歓びをうたったもので、その歓びの底には子供でなくなった悲しみが同時にある。しかしそんなことを散文でいってみても何の説得力もないわけで、だからこそ詩が書かれる。
イーグルトンは、詩の意味、語調、テンポ、響き、統語法、曖昧さ、句読法、脚韻、韻律、比喩(イメージ)につき様々に論じている。脚韻というのは(過去にそれを試みたひとがいるにしても)日本語ではほぼ実行不可能である。その他は日本語でも可能であろう。しかし、われわれがある詩を読んで何かを感じるということがすべての出発点で、何も感じないのであれば、いろいろな分析をすることには何の意味もない。
そして何かを感じるということは、ここでイーグルトンが書いているような知識があってこそ可能になるというようなことはないだろう。感じるひとは何も知らなくても感じるし、感じないひとはどのような知識があっても何も感じないだろう。ボルヘスは「詩をあまり感じ取れない人がいます。そして一般にそういう人たちはそれを教えることを仕事にしています」などとなかなか厭味なことをいっている(「七つの夜」)。
わたしが詩を感じ取れる人間であるのかどうかはわからない。あまり真面目で勤勉な詩の読者ではないし、ここで引用した「悲しむとき」は感じ取れるように思うのだが、大岡氏の詩にもさっぱりこちらに響いてこないものもある(たとえば「透視図法−夏のための」 一般に散文詩というのが苦手である)。もちろん詩を全然感じ取れなくても少しも困ることはないし、また詩を感じ取れると自負するひとが大岡氏を詩人とみとめないこともあるだろうし、大岡氏をみとめるひとが「悲しむとき」を評価しないこともあるだろう。
大岡氏も現代の日本の詩人のひとりであるが、日本で現代詩といわれるもののほとんどは何が書いてあるのかさっぱりわからない。それはとても痩せていて仲間内に向けて発信されているとしか思えない。現代音楽といわれるものとそっくり同じ状況に置かれているように思う。現代音楽は聴き手をもたず、現代詩は読者をもたない。聴き手が仲間の作曲家、読み手が仲間の詩人たち、ほとんどそれしかいない。その中で、大岡氏はわたくしのような門外漢にもつたわる詩を書いている数少ないもののひとりである。吉田健一は過激なひとで、ある時期の日本には中原中也しか詩人がいなかったとか、三好達治、中原中也、中村稔の次にようやく大岡信がでてきたというようなことをいう。日常に暮らす多くのひとにとって詩は(さらには文学は)まったく必要がないものである。だから詩という、読まれる前にはただの物理的存在に過ぎないものが人にどのように働きかけるかという客観的な法則などというものがあるわけはない。しかしイーグルトンは詩から働きかけられるということがおきるひとと詩の間には、そのことがおきることについての何らかの法則が存在すると信じているようである。しかし、かりにそのような法則が存在するとしても、その法則を利用して詩を書くとか、詩を感じ取れないひとを感じとれるようにすることはできないのだから、やはりそのような法則を抽出してくることにどのような意義があるのかよくわからない。
イーグルトンのしていることは、詩を感じ取れない人をもそれでも何となく詩を感じ取ったような気にさせること、そしてそれによって詩について議論ができるようにすること、さらには詩人もその置かれた状況に支配されているのであるから、詩からその状況をも指摘できるようにすること、そして過去からの詩を読んでくることで、その状況がつねに変わってきていることを示し、状況というものが変えられないものではなく、変えなくてはいけないものであることを示すことなのだと思う。
しかし、そのために詩を読むなどというのは随分と迂遠な方法であると、どうしてもわたくしには思えてしまう。
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