T・イーグルトン「詩をどう読むか」(3)

     
 しかし、このイーグルトンの本は詩についての本なのであった。
 この本で知らなかった英詩を随分と教えてもらい、その点でも本書を読んでよかったのだが、この本は英語でかかれた本であり(ダンテの「神曲」などもとりあげられてはいるが、それも英語訳で示されている)、ここでの詩とはすべて英語で表記されたものである。
 となるとまず英語の詩での韻律である弱強五歩格とか脚韻であるとかが話題になる。脚韻についてはある程度は耳で(眼で?)わかるところもあるが、弱強五歩格などというのは駄目である。
 本書362ページに、シェークスピアの「ヴェニスの商人」からの How like a fawning publican he looks! という台詞が、韻律の上では弱強五歩格として、like と fawn と pub と can と looks に強勢がおかれていることが言われた後、しかし役者がこんな韻律通りに朗誦したら観客からのよい反応は期待できないだろうといい、舞台では役者は、How と pub と looks に強勢を置くのではないかという。つまり通常の話し言葉に近い抑揚である、と。吉田健一の「英国の文学」によれば、「少しでも口調がいい英語の散文を韻律的に分解すれば、それがブランク・ヴァアスをなしてゐる場合が多くて、その意味でこれは我が国の五七調は七五調、或はフランスの十二音節句(アレクサンドラン)に相当する詩体なのである」ということなのだが、読む場合と話す場合は違うということなのだろうか?
 われわれがシェークスピアを原語で読む時も、おそらく、日常の会話の抑揚に近い強勢を無意識の内に感じているのではないだろうか?(なにしろ、それは劇であり、台詞なのだから) もちろんわれわれなどいってはいけないのかもしれないので、教養ある人士はシェークスピアを原語で読むとき自ずから韻律を感じ取っているのかもしれない。吉田健一は酔っぱらうとシェークスピアのブランク・ヴァースを絶叫したのだそうである。ソネットの方だろうか? ソネットは韻を踏んでいるから、ブランク・ヴァースではないのだろうが。Shall I compare thee to a summer's day? はどこに強勢があるのだろう? I, pare, to, sum, day ? 普通の英語として読むと、pare, sum, day ?
 この有名なソネットのことをはじめて知ったのは大学の教養の英語の授業で誰かの随筆を読んでいて、これを下敷きにした部分があって、教官がこれは有名な詩なんですね。こういうものを知っていないと、英国の文章は読めないんですね、とか言って全文をプリントしたものを配ってくれたときではないかと思う。しかし米帝国主義がどうとか、ベトナム戦争がこうとかいっている時代に何が Shall I compare thee to a summer's day だよ!というわけで、こんなものと思った。それでも覚えているのは、最後の二行のためだと思う。
  So long as men can breathe, or eyes can see,
  So long lives this, and this gives life to thee.
 何という自信、何という傲慢と思った。
 この詩が腑に落ちたのは「英国の文学」の最初の方にこれが全文引用されているところを読んだ時で、そこでは英国の夏というのがどんなに美しいか(その逆に冬がどんなに醜悪であるか)という説明の中ででてきたのである。
 
  Shall I compare thee to a summer's day ?
  Thou art more lovely and more temperate:
  Rough winds do shake the darling buds of May,
  And summer's lease hath all too short a date:
  
  君を夏の一日に譬へようか。
  君は更に美しくて、更に優しい。
  心ない風は五月の蕾を散らし、
  又、夏の期限が余りにも短いのを何とすればいいのか。
  
 原詩が弱強五歩格であったとしても、翻訳は定型にはなっていない。吉田氏の訳はほとんど逐語訳のように見える(強いていえば、最後の二行が「心ない風は五月の蕾を散らすし、/ 又、夏の期限は余りにも短い」となれば完全な逐語訳で、「何とすればいいのか」が余計なのかもしれないが)。ちなみにこの部分は西脇順三郎の訳では「君を夏の日にたとえても/ 君はもっと美しいもっとおだやかだ/ 手荒い風は五月の蕾をふるわし/ また夏の季節はあまりにも短い命。」となっている。最初に読んだのが吉田健一訳であるせいか、どうもこれは吉田訳のほうが優れているように思える。(西脇訳の「あまりにも短い命」という名詞での終止は不自然な感じがする。「あまりにも命が短い」としたほうがおさまりがいいような気がする。)
 吉田訳も西脇訳も自由訳であるが、「君を夏の一日に喩へようか。」という日本語だと「君を」で少し区切りがあって、「夏の一日に」が一息できて、「喩へようか」もほぼ区切りなく続く。3/8(3+5)/6(3+3)。「君は更に美しくて、更に優しい。」 3/9(3+6)/7(3+4)。「美しくて」はちょっと字余りの感じで、「美しく」の方がいいのかもしれないが、これだと整いすぎるのかもしれない。この1・2行は3が基調で日本語としての韻律を決めている。次の3行は「心ない風は五月の蕾を散らし、」で、 5/3/4/4/3。ここで今度は5が頭に来て調子が変わる。ごがつの「つ」とつぼみの「つ」が呼応し、ちらしの「ち」とも呼応する。さらに第4行では「又、夏の期限が余りにも短いのを何とすればいいのか。」で、「又、」で破調が来て、「夏の期限が余りにも短いのを」が一気に進み、「何とすればいいのか」も、3+3+4ではあるが、1・2行のゆったりした感じから、もっと急いた感じになっている。逐語訳のようにみえても、やはり韻律があり、散文訳ではない。だからむしろ「詩をどう読むか」でわれわれが考えることになるのは、現在ほとんど定型が失われている日本で、それでも詩が詩でありえるのはどうしてなのかということのほうである。
 イーグルトンによれば、「詩とは、フィクションで、言語上の創意に富む、倫理的な発言であり、各行をどこで切るかは、プリンターやワープロではなく、作者自身が決めるものである」という随分と無粋なものである。「倫理的」というのが入っているところはイーグルトンらしいといえるが。この「倫理的」は「経験的」と対置する言葉なのだそうで、「さまざまな人間的価値や意味や目的にこだわる」ことをいうのだとされている。それは事実や経験を述べるものではなく書く人の判断をふくむのだ、と。だが、そうであるならこれは詩でなく散文であってもいいわけで、詩と散文を区別するものは「各行をどこで切るかは、プリンターやワープロではなく、作者自身が決めるものである」という部分だけになってしまう。何か変である。
 それにくらべると「文学の楽しみ」で吉田健一が下している定義のほうがずっと粋である。「一定の言葉数で我々に最も大きな楽しみを与えてくれるのが詩」というものである。言葉はいろいろな働きをするが、その働きをすべて動員して言語の機能を使いきったもの、それが詩である。となれば「各行が切られているかどうか」というようなことは詩にとっては些末な問題であることになる。定型というようなことも、言語の機能を活かすために必要となることもあるし、かえってその目的のために桎梏となることもあるわけで、「一定の言葉数で我々に最も大きな楽しみを与える」という目的にとって必要となる場合とそうでない場合があるだけのことである。
 言葉はもちろん意味をもつわけだから、詩がまた「倫理的」側面をもつことは当然であるが、自分の倫理的見解で他人を説得しようとするのであれば、そのための手段としては散文を書くほうがいいので、散文というのはそのためにある。詩を倫理的見解の表現に使うのは、他人を説得しようというのではなく、言語の機能を総動員することで他人を自分の気分のほうに引き寄せようとすることで、論理での説得ではなく情緒による共感をめざしている。言葉は情緒もまたふくむのであり、そのような言語の側面を使うことは「一定の言葉数で最も大きな楽しみを与える」ことをめざす詩としては当然のことであるが、倫理的な発言の手段としては詩が適しているということはない。
 吉田健一は「文学の楽しみ」で「文学は乱を好まない」ということをいっている。詩というのは静かなものである。あるいは人を鎮める力をもつ。イーグルトンというひとは「乱を好む」人なのだと思う。詩という静かなものを読んでも、何かそこから波紋が生じ、世の中が動いていくことがないと許せないようなのである。
 福原麟太郎が「文学の学問」という文章で「文学の学問で、一ばん厄介なことは、総合研究ということができないことである。というのは、他人の力を借りることができない、何でもみな自分で直接に文学にあたらなければいけないという意味である。自分の代りに友人に文学を経験して貰って、それを自分のものにすることが、文学においては不可能である。・・文学というのは自分で経験してはじめて存在するものだからである。(「幸福について」所収)」といっている。吉田健一が口をとがらせて正面から言っていることを裏のほうからやんわりと述べている。大人である。
 イーグルトンもまた自分で直接に文学をあたることをしているわけであるが、そこから何か抽象的な理論を引き出してきて、他人もまた自分で経験することを薦めるのではなく、他人が文学を読むときの眼鏡を提供しようとしているように思える。これは一歩すすむと「自分の代りに他人に文学を経験して貰って、それを自分のものにすること」にいってしまいそうである。政治を志向するとどうしてもそのような方向がでてきてしまうのであろうか?
 ところで、中野好夫の「英文学夜ばなし」を読み返していたら、「ながらえばまたこの頃はふぐを食う」という句が紹介されていた。これは詩なのであろうか? 百人一首のなかの藤原清輔朝臣「ながらえばまたこの頃やしのばれん、うしと見し世ぞ今は恋しき」をふまえたものということだが。清輔のものは詩なのだろうか? 日本では俳句や短歌は詩とは別のものとされているようである。現代詩というのは俳句や短歌とはまったく別のところでおこなわれている。イーグルトンは現代詩のほうのいくつかは詩であるとみとめるように思うが、俳句とか短歌というのはみとめないだろうか? 「焼き肉とグラタンが好きという少女よ私はあたなのお父さんが好き」などというのは詩だろうか? しかし、新聞の短歌欄にでている短歌は随分と「倫理的」なものが多いような気がする。
 

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