(12)詩
文学を詩と言い換えてもいい位であるのは、一定の言葉数で我々に最も大きな楽しみを与えてくれるのが詩だからである。
「文学の楽み」の第3章「詩と散文」の一節。
随分と長い間、文学というのは小説のことだと思っていた。中学から大学の教養学部あたりまで、読んでいたのはほとんど小説である。中学の頃は外国もの、高校から少し日本のものも読むようにはなったが、小説以外は小林秀雄で、詩というのにはほとんど縁がなかった(今でもそうだが)。
なぜ、そうなったのか? たとえば岩波文庫の巻末を見ると「イギリス文学」というところにはシェイクスピアの戯曲を除けば、ほとんどが小説である。バイロン、ブレイク、ワーズワース、テニスン、ブラウニングといった人の詩集、いくつかの評論はあるが大部分が小説である。「アメリカ文学」では詩はポー、ホイットマン、デッキンソンくらい。ドイツやフランスでも似たようなものである。つまり文学として紹介されているものの大部分が小説なのである。詩を翻訳で読んで意味があるかという問題もあるから、海外の文学であればそうなるということもあるかもしれないが、日本文学でも似たようなものである。
それで何を考えて小説を読んでいたのかというと、多分、何か「思想」というようなものを探していたのだろうと思う。例えば、ドストエフスキーの「思想」とか。
思想ということならば、小説などという虚構を通してではなく、普通の散文のほうがいいはずなのだが、直接にそれを述べると観念的になるので、小説の人物の行動を通してのほうが生き生きとした形で伝わるというようなことを考えていたのかもしれない。しかしそれも後知恵で、当時は何も考えていなくて、何となく高級なことをしているような気がしていただけなのだろうと思う。だからあとから考えると小説を読んだ時間は壮大な無駄だったことになるが、文章を読むことが苦痛ではなくなる程度の功徳はあったのかもしれない。
いずれにしても、詩では人物がでてくるわけでもなく、その行動もないわけで、文学を思想伝達するためのものと思っていたわたくしのような人間には無縁の存在としか思えなかった。では、詩とは何と思っていたのかというと、多分《感傷》といったものに通じる何かであったのだろう。
だから、俺は感傷的などではないぞと粋がっている人間は詩を軽蔑するわけで、結局、詩とは縁のないままで来てしまった。それでも太宰治の小説とか小林秀雄の評論から言葉を読む楽しみを少しは感じ取っていたのかもしれないと、今になっては思う。
上の吉田健一の文がいっていることは、詩とは何かということであると同時に、文学とは何かということでもあって、いわく「文学とは言葉を楽しむことである」。それで、散文とは「考えを述べること」ということになる。誰かが自分の考えを述べているのを読んで楽しむ、それを文学のすべてである。そして、考えだけではなく、書き方もふくめてすべてを楽しむ。
だが、詩は考えを述べるものではない。それは言葉というものが当初、考えを述べる、あるいはもっと一般的に「考える」ためのものとしてでてきたわけではないからで、詩は言葉の原初が持っていた「考える」こともふくめたもっと広いさまざまな機能のすべてを動員しようとするものなのである。
内田樹さんが、太宰治の「桜桃」の冒頭「子供より親が大事、と思いたい。子供のために、などと古風な道学者みたいな事を殊勝らしく考えてみても、何、子供よりも、その親のほうが弱いのだ。」という部分のスランス語訳をさらに日本語に直訳風にしたものを示している。「両親は子どもに優先する、というふうに私は思いたい。古代の哲学者たちのように、まず子どものことを考えるべきだ、と私も思ってみたのだけれど、そうもゆかない。両親は子どもよりも傷つきやすいのだから。」
だから海外小説の翻訳をもっぱら読んでいたなどというのは壮大な無駄だったわけである。内田氏が指摘するように、「子どもより親が大事、と思いたい」は「五七五」の語調である。そして第二センテンスの「何」の持つ機能。内田氏は、この「何」を交話的メッセージ(ヤコブソンの言葉らしい)といっている。それまでの著者の独白が、ここで読者への呼びかけに変わるというのである。「ねえ、読者諸氏よ! あなた方もそう思うでしょうけれど」という呼びかけがこの「何」であるというのである。「何」という言葉自体には意味がないのだが。
少し前の記事に、町田康氏訳の「宇治拾遺物語」の訳の一部を示した。「これはけっこう前のことだが、道命というお坊さんがいた。藤原道綱という高位の貴族の息子で、業界でよいポジションについていた。そのうえ、声がよく、この人が経を読むと、実にありがたく素晴らしい感じで響いた。というと、ああそうなの。よかったじゃん、やったじゃん、程度に思うかも知れないが、そんなものではなかった。じゃあどんなものかというと、・・・」 まず「業界」「ポジション」でつまずく。この言葉が導入されることで、昔昔の古文書の紙魚だらけの世界が現代につながってくる。そして「ああそうなの。よかったじゃん、やったじゃん」で読者が参加してくる。それに対し著者(町田氏?)は「そんなものではなかった」のだよと読者を諭す。「交話的メッセージ」がはじまっているのである。町田氏は確か詩人でもあったと思う。
荒川洋治氏が「詩とことば」で、田村隆一の「保谷」の冒頭、
保谷はいま
秋のなかにある ぼくはいま
悲惨のなかにある
を
保谷はいま 秋のなかにある
ぼくはいま 悲惨のなかにある
としたものとを比較している。言葉だけとればまったく同じである。しかしリズムが違う。後者はまったく平板。
こういう違いが早くからわかるようになっていればというのが悔いであるが、今さら言っても詮無いことではある。
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