下田淳「ヨーロッパ文明の正体」

    筑摩書房 2013年5月
 
 朝日新聞の書評で取り上げられていたのをみて、買ってきたのだが・・。
 すごいタイトルの本である。「私は、本書でヨーロッパ文明の「正体」を暴こうと思う。」と著者はいう。その意気やよし、といいたいところだが、何だか変なのである。学問的手続きとして根本的におかしなところがあるのではないかと感じた。
 わたくしの考えでは、学問の出発点は目の前にある膨大な先行研究である。それを少しづつ見ていく。そのうちに現在、一般的に受け入れられている説に納得できない部分がでてくる。それについてのいろいろな先人の見解を比較検討する。どの説を見てもどこかに納得できない部分が残る。それでいろいろと考える。こういう説明をできないものだろうか? そう考えると現在まで提出されている説よりも、もう少しうまく現実を説明できるように思える。しかし、自分の説はもう誰かがすで述べているのではないだろうか? さらに懸命に調べる。どうやら先行の研究の中には自分の考えとまったく同じというものはないようである。それなら、これは世に問う価値があるのではないか?・・というのが正統的な学問の手続きなのではないかと思う。「劫初より造りいとなむ殿堂にわれも黄金の釘一つうつ」(与謝野晶子) であって、自分の前の世代から脈々と営まれてきた営為に自分のようなものも参加させてもらってささやかな貢献をしていくというものなのではないだろうか?(自分の釘がささやかであっても黄金であるという自負をもって。)
 ところが、本書によれば、著者は専門分野(ヨーロッパの宗教史)で自分が見出したと考えるある規則のようなものが、宗教史のみならず、ヨーロッパの歴史全体にも適応できるのではないかと考えたようなのである。そしてヨーロッパの歴史の様々な部分につき検討してみた。あれもこれもみんなうまく説明できる。そうか、自分はヨーロッパの正体を発見したのだ! ということがあって、自分の専門分野以外の先行研究の検討はその後になされているようなのである。自分はヨーロッパの正体を発見したのであるから、今までヨーロッパの正体を発見できなかった先人の見解は間違っているに決まっている。だから、先行研究についてなすべきことは、そのどこがおかしいかを指摘するだけである。(もちろん、先行する個別研究で自説を補強するように見えるものは積極的に採用するが。)
 殿堂を自分一人でつくった。だが、その殿堂は宙に浮いていて、地についていない。足りないものは何か? 今まで「ヨーロッパの正体は何か?」をめぐって提出されてきた様々な学説のなかのどのあたりに自分の説は位置するのかという、自説を相対化してみる感覚である。
 わたくしはヨーロッパの正体は何かをめぐる諸学説についてはいたって無知であるが、ここで著者が主張していることはとっくに誰かが主張しているものもあるのだろうと推測する。ここで新しいのは論の主張の内容ではなく、論立てに採用されている言葉・用語だけのように思う。しかもその言葉はかなり曖昧で、曖昧であるがゆえに何にでもあてはまるようにみえてしまう。それで新しい発見のように見えてくる。
 著者が発見した新しいキーワードは「棲み分け」である。この言葉を使ってヨーロッパを分析解明しようとしたひとはいなかった、しかしだからといって新発見ということがいえるのかが問題である。先人が「棲み分け」という言葉を使っていなかったというだけかもしれないのである。
 混沌としたものが分かたれていくのが「棲み分け」なのだそうであるが、その例として、キリスト教典礼民間信仰や娯楽がかつては混沌としていのが、民間信仰は迷信として駆逐され、純粋なキリスト教の祭りと民俗的な娯楽祭に時代とともに分離していくことを挙げている。こういう「棲み分け」はヨーロッパにのみみられ他文明にはみられないもので、それがヨーロッパ近代社会をを立ち上げたというのが著者の主張であるらしい。
 とすれば、まずなされるべきことは、このような「棲み分け」がヨーロッパ社会にのみ見られ、他文明には見られないことの徹底的な検証である。この部分は先行研究ですでに明らかにされているのであり、現在の学問世界での共通認識になっているであれば、著者はその検討は先行研究の成果に委ねて先に進むことができる。しかし、どう考えてもそうとは思えない。わたくしのような部外者が考えても、これは宗教の強度が強いところではどこでもおきる現象なのではないかと感じる。日本でも浄土真宗が広がった地域ではそういうことが見られると中井久夫氏がいっている。(中井久夫「西欧精神医学背景史」:「森の文化を根こぎにしたのは浄土真宗で、その支配地域は民話・民謡・伝説・怪異譚を欠くことで今日なお他と画然と区別される。」 そして中井氏によれば、ヨーロッパでは“森に二十歩入れば人は(聖俗双方の権力から)完全に自由”であった。下田氏の考えるヨーロッパとは平野だけのように読めるが、ヨーロッパには森もあるのである。) また混沌としたものから民間信仰を駆逐しようとしてもそれは消えることはなく、それは地下にもぐりオカルトとなるのではないだろうか?(橋本治「宗教なんかこわくない」:「ヨーロッパのキリスト教圏だって、“個人の幸福=魂の救済”を祈るキリスト教と、“生産物の豊穣”を祝う民間信仰の二つがある。(キリスト教は)“地域の神を滅ぼす”をやってしまったので、その“滅ぼされた神々”が後々に“オカルト”となって祟るのである。」)
 ここで著者が「棲み分け」と名付けるものは言葉としては「分離」でも「並立」でもいいわけで、特に「棲み分け」と呼ばなければならない必然はないように思う。この命名今西錦司氏の用語を意識してのことらしい。それでかなりのスペースをとって今西説の要点が紹介される。しかし今西説の生物学という学問のなかでの位置づけということについてはまったく言及されない。わたくしが理解しているところでは、生物学界では今西説というのはほぼ無視あるいは黙殺され論外であるとされているのではないかと思う。今西説はダーウイン進化論の否定(適者生存とかいった競争の原理で生物界を説明するのではなく、生物間の共存を生物学の原理としようとするもの)であるが、現在の正統的な生物学はすべてその基礎をダーウイン進化論に置いているのだから、生物学のなかでは住める場所がない。今西説に言及するのは西洋的な?競争の原理をきらう東洋的?日本的?な和の原理?を信奉する一部の人文学者だけなのである(それも京都の方面に多い?)。
 生物学の理論としての今西説は破綻しているとされていることを著者が認識しているのかどうか、それがわからない。今西説というものがあることは事実、そこにおいていろいろな生物の棲み分けということがいわれているのも事実、しかし「棲み分け」ということで生物界を説明できるのかといえば否ということのはずである。そうであるとすると、わざわざ今西説に由来する「棲み分け」という言葉を使ってヨーロッパの歴史を説明しようとするのがなぜなのか、それがよくわからない。それに、今西氏が「棲み分け」ということでいおうとしたことと、著者が「棲み分け」という言葉で西洋に見ようとしているものには相当の隔たりがあり、今西氏の用語である「棲み分け」を導入しなければならない必然のようなものは特にないとわたくしは感じる。論証の手続きが粗雑なように思う。学問というのはもう少し地道なものなのではないだろうか?
 この前の記事に書いたような理由で、最近、橋本治の「ロバート本」と「デビット100コラム」を思い出し、本棚から引っ張り出してきて読み返している。面白い。「ロバート本」の「日本語から心理学用語を排斥しろ」というコラムにこんなところがある。

 近代の知識人の最大の悲劇っていうのはサ、近代の間中ズーッと大衆が近世してたってことを知らないことね。日本の近代っていうのは、「現実は遅れてる」って言う人の間にしか存在しなかったのね。だから従って、言われっ放しの“現実”の方は全然近代していなくて江戸時代だったっていうことね。洋服着て江戸時代やると“現代”だっていうのが日本の常識なんだよ。・・近代ってのは、「近代自我は幻想だ!」って言う人の間にしかなかったんだよ。・・その言葉の指す意味実態内容が分からないと神秘主義になるっていうのは、日本近代に於ける翻訳の歴史ってのを見れば分かると思うんだけどサ。

 ここでの知識人と大衆との話を「棲み分け」などという言葉で分析しても何かがでてくるとも思えないが、意味実態内容が分からずに「棲み分け」などという言葉を使っていると神秘主義がでてきてしまい、何でも説明できるように思えてきてしまうのではないだろうか?
 本書の最後に、「家庭をかえりみず執筆活動に専念することを許してくれた妻と娘に心から感謝したい。最後に、本書を年老いた母に捧げる。」とある。こういうのを読むとわたくしは江戸時代が洋服を着ているように感じてしまう。
 少し前に読んだ安富歩氏の「原発危機と「東大話法」」とか与那覇潤氏の「中国化する日本」など(これらは橋本治氏の本で紹介されていたのだが)、最近の人文系の本は一つの仮説から非常に大胆で壮大で包括的な論を展開するものが多いように感じている。それでも与那覇氏のものは、そこでの論は自分にオリジナルなものではなく、最近の歴史学会のメイン・ストリームの見解を紹介しているだけというものであった。その現在の主流説が正しいということはもちろんないにしても、現在、こういう方向が支持されているのだと知ることは無駄ではないと思えた。しかし、本書は更に大胆なのである。だがそれにしては、参考文献のなかに、塩野七生氏の「ローマ人の物語」とかロバーツの「図説世界の歴史」といったものが挙げられているのが解せない。これは二次資料でさえなく、先行研究といったものではとてもない。署名のある著作であるから Wikipedia からの引用とは違うけれども、こういうのを参考文献としていいのだろうかと疑問に感じた。
 現在の人文系の研究環境というのはとても厳しいのだろうと思う。一冊単著を出版するのも大変なのだろうと思う。だからいろいろなことを入れたくなるのはわかるのだが、p267以下の「一中年の主張」などという部分はないほうがいいと思う。いきなり新聞の投書欄がでてくる感じになってしまい、学問的な主張というより床屋政談になってしまっている。
 わたくしがこの本を読んだのは、自分がヨーロッパに関心があり、理科系と文化系ということにも興味があり、その両方取り上げられている本であると朝日新聞の書評で紹介さわれていたためなのだが、ここでの理科系とはどうも数値化のことらしい。あるいはスケジュール管理といったことらしい。それに対する文系というのは「適度」とか「遅さ」といったことらしい。つまり理系は「過度」と「速さ」なのである。
 しかしこのような恣意的な用語法でいいのだろうか? ここで理科系といわれているのは通常の言い方では理性偏重といった方向のことであろう(一昔前の言い方では「デカルト的世界観」)。またここで理系資本主義といわれているものは、渡部昇一氏の言い方での「色相世界」であり(「教養の伝統について」)、競争社会である。そのような競争社会からの脱落者として渡部氏はラフカディオ・ハーンを描く。ハーンは西欧競争社会からの脱落者でありながらも西欧世界の優越を信じていたのであり、日本に来てはじめて非西欧的、非競争的、非色相社会的にも文明が形成できる(渡部氏のいう「白雲郷」)ことを知った。最近の渡辺京二氏の「逝きし世の面影」なども、スペンサー的競争社会に編入される以前の江戸末期から明治にかけての日本を共感をもって描いている。ここで下田氏が理系資本主義として問題にしているようなことは文明開化以来の日本での最大の問題であるわけで、すでに無数の論がある。漱石の「猫」の金田一家の描き方をみるだけでもいい。適度と遅さの資本主義だって橋本治さんが長らく主張してきている。中谷巌氏もそちらに転向した。どうも下田氏が自分の新しい発見であるとしていることはすでに言われていることが多いように感じる。学問をするためには先行文献を徹底的に読み込むことがまずはじめであるように思う。
 なんだか、書いているとどんどんと辛口になってきてしまい著者に申し訳なく思う。理系の学問においては、学説は物質とぶつかる。いくら学説が完結していて整合性があっても物質の振る舞いを説明できなければその説は受け入れられない。逆に奇妙奇天烈でそんなことはありえないというような説であっても、どういうわけかうまく物質の振る舞いを説明できてしまうのであれば有望であり生き残る。ポパーもいうように説は奇妙であればあるほどあっという間に反証がでてしまう可能性が高いわけだから、それが生き残るなら見込みのある仮説といえる。
 人文系の学問における理系の物質に相当するものは事実であろう。しかし事実というのは何を事実とみなすかという段階ですでに価値観がはいってくる。人間の歴史は一回限りのものであるから、こういうことがおきたということはあっても、それがそうでなければならなかった必然性がそこにあるとはいえない。それがそうなったのは偶然であるという説もまた成り立つ。天変地異とか疫病の流行というのは必然的な出来事ではない。しかしそれはその後の世界に決定的な影響をあたえる。日本に東日本大震災がおきたことは偶然ではあっても、それがおきなかった場合とはまったく違ったその後の歴史を形成するであろう(ある確率において大きな地震がおきるということは理系学問からは必然なのであろうが、それがいつおきるかは偶然である)。ロシアにおいてソヴィエト革命がおきたことは必然であったのか? ドイツがロシア攪乱のためにレーニンを封印列車で送り込むなどということをしなければ、ひょっとするとそれはおきなかったのかもしれないし、おきていてもまったく違った形のものであったかもしれない。
 下田氏は気候と国民性を結びつける議論(寒冷なところに住むひとは勤勉になる、といった議論)を血液占いと同じような恣意的なものといって退けている。さて、竹村公太郎氏の「日本文明の謎を解く」で氏は「先進国と呼ばれている国々の近代産業化の成功の原因が、人種的に優秀だったとか、勤勉に関して道徳的であったということではない。それは単に、物理的に太陽との距離が遠かっただけであった」といっている。昼間暑くってとても働く気がしないような国(国旗に月や星が使われている国、実は世界の大勢)からは近代産業化はおきてこないということである。氏はいう。ユダヤ教は砂漠の中から生まれてきた。見渡す限りの不毛の砂漠、何もなく誰もいない。そこにあるのは「永遠で、無限で、絶対の神」なのだ、と(「雑草が生えていて神がいるだけの荒野」(千夜一夜))。ところが四季の変化のある日本ではそのような「永遠」観念など生まれようがなく、そこから生まれるのは「無常」という観念なのだ、と。下田氏は暑くない地域すべてから文明が生まれたわけではないという。その通りである。逆は真ならず。気候は条件の一つにすぎない。極端に暑くも寒くもない地域にキリスト教がひろまったということがヨーロッパ覇権の一つの因子ではあるはずである(そして、キリスト教がヨーロッパで生き残ったこともほとんど偶然であるだろうし、キリスト教はヨーロッパにとっていい方にも悪い方にも働いたはずである)。
 下田氏は「私は、本書でヨーロッパ文明の「正体」を暴こうと思う」という。こう書くことによって、ヨーロッパ文明の基盤をなすかなり単一な何かが存在するということが、検証なしに導入されてしまう。そのようなものはないかもしれず(単なる様々な偶然の積み重ねの産物)、あっても非常に多くの因子の組み合わせであるかもしれず、また多くの要因と偶然の複合であるかもしれない。
 要するに歴史ということについていえるのは、今こうなっているという現実だけであり、後はそれに加えられた無数の解釈(説明のための仮説)があるだけということなのだとわたくしは思うのだが、そういう感覚は下田氏にはないようなのである。それで下田氏の書いていることが納得できないのだと思う。
 最近の人文方面の著作には、歴史を理科系的に見るというか、ごく単純な法則によってすべてを説明したいとする志向のものが多いように感じる。下田氏は「理系」が嫌いなようで、「理系バカ」(数値とか規則とかですべてを見ようとする人を指すようである)をののしっているが、わたくしにはこの本は「理系」的に見えてしまう。人文系というのは「厚み」で理科系と勝負をするのが戦略でなければならないように思う。だとすれば、参考文献にせめてこの数十倍くらいのものがほしいと感じた。
 

西欧精神医学背景史 (みすずライブラリー)

西欧精神医学背景史 (みすずライブラリー)

宗教なんかこわくない! (ちくま文庫)

宗教なんかこわくない! (ちくま文庫)

ロバート本 (河出文庫)

ロバート本 (河出文庫)

逝きし世の面影 (平凡社ライブラリー)

逝きし世の面影 (平凡社ライブラリー)

果てしなき探求〈上〉―知的自伝 (岩波現代文庫)

果てしなき探求〈上〉―知的自伝 (岩波現代文庫)

貧乏は正しい! (小学館文庫)

貧乏は正しい! (小学館文庫)

日本文明の謎を解く―21世紀を考えるヒント

日本文明の謎を解く―21世紀を考えるヒント