北中淳子「うつの医療人類学」(3)第2章「気のやまい」 第3章「「神経衰弱」盛衰史」

 
 第2章「気のやまい
 日本では西欧精神医学の渡来とともにうつ病が登場したといわれる。それ以前には、西欧と違い、憂鬱感は「自然なこと」として、むしろそこにある種の美意識が日本にあったからというような説明がされる。しかし北中氏は前近代の日本では本当に「鬱」は医療の対象にならなかったのだろうかという疑問を提示する。
 伝統医学での「鬱症」は現代のうつ病とは異なるのか? それを考えるためには、前近代の「気」概念を検討する必要がある。伝統医療では気は天地宇宙さらには人体をみたすエネルギーを指し、それはこころの動きと密接に関係するとされた。それが鬱滞すると「気鬱」が生じるとされた。だが、それは次第に中国での本来の「気」の概念を離れて、江戸期には「こころ」の比喩的な表現に近づいた。本来体の中を流れるものであった「気」は次第に身体から離れ、「気のせい」といった表現が普通になっていった。
 そこに西洋医学がはいってきた。当時の西欧は体液病理学が主流であったので、メランコリアの原因も黒胆液の鬱滞によるとされていた。すなわち心身一元論であったが、還元的思考への移行期でもあった。当時の日本人は神経の概念をもたず、脳も重要な臓器とは思っていなかった。明治にはいり、呉秀三が1901年にクレペリン流のドイツ神経学的精神医学を紹介したことが日本も近代的な身体観に移行していく。クレペリン躁鬱病概念からうつ病も本態は躁鬱病であるとされ、旧来からの「鬱症」や「気鬱」の概念は忘れられていった。そのため「鬱病」は限定的な「脳病」であり、特殊で危険な病気と思われるようになった。したがって「鬱病」の診断は社会的な死をも意味しかねなかった。その一方、「不定愁訴」のようなものは西洋由来の精神医学の体系からはこぼれていった。
 1990年代以降のうつ病の隆盛によりそれに大きな変化が生まれている。「心ー体ー社会」をつなげる医学言語としての「うつ病」が誕生してきたのではないかと著者はいう。その起源としては一世紀前の「神経衰弱」をみていく必要がある。

 第3章「「神経衰弱」盛衰史」
 1990年意向、うつ病をめぐる言説の変化の原因としては、二つが考えられる。1)SSRIなどの新世代の抗うつ剤の登場。2)この病いを「個人の弱さ」によるものではなく、「社会的ストレスの産物」すなわち「過労の病」とする言説の台頭。後者の背景には「うつ親和性性格」という言説がある。「まじめで、几帳面で、他者配慮的」な性格のひとが長引く不況のなか、まじめな人が、そのまじめさゆえに陥る「過労の病」がうつ病であるとする見方である。
 精神医学の領域では鬱病躁鬱病に吸収されていくなかで、従来の「気鬱」は「神経衰弱」という病名?となっていった可能性がある。
 「神経衰弱」は1868年にアメリカの精神科医によって提唱された病名である。日本でも「複雑化する近代化社会がもたらす文明の病」「過労の病」として紹介された。これは現代のうつ病概念に近い。「中年の働き盛りの人」のなりやすいものとされ、当時の知識人や一般労働者の休職の理由として広く用いられた。中国や日本の伝統医学では「神経」という概念自体が存在していなかった。一般に日本でその概念がしられるようになるのは1880年代以降とされる。
 しかし、神経衰弱については精神科医は懐疑的にみるものが多かった。それは過労によるものではなく、もともと脳に弱点を持つものがかかるのだという批判である。心因論・状況論への根本的な懐疑であり、真因は生物学的異常であり、心労は誘因にすぎないとした。しかし病理解剖学的な検索では脳に異常は発見できなかった。
 一方、西欧ではフロイトの「神経症」概念の登場によって、神経衰弱は心理的な病になっていった。そういうなかで「神経衰弱」は「生存競争場面における劣敗者の示す反応」とい見方が日本でも強くなり、「神経衰弱は病気ではなくそうした人間なのである」というようなことがいわれるようになる。
 そういう潮流のなかで、正統的な医学のなかでは「神経衰弱」患者は相手にされなくなっていったが、そういう「見捨てられた」ひとびとを相手にしたのが森田正馬による「森田療法」であった。それが対象としたのは「神経質」で、それは遺伝的器質的なものではなく「自己内省的で理知的」であるという一種の気質であるとされた。
 しかし日本が戦争体制にはいっていくと神経衰弱患者は激減していく。
 神経衰弱が人格の問題であるとされ実態をなくしていった時期である1932年に下田光造が、一見神経衰弱のように見えるが、「模範人」が陥る神経疾患を報告した。「何事にも徹底的で、いい加減ということができない、やり始めた仕事は徹夜してもやりぬく、正直で几帳面で、正確で、義務心責任感が強い」性格(執着気質)を持つものがなる。これは躁状態になることはなく、重大な心身の過労により発症する。この下田説は日本が戦争に突入していくなかで忘れられてしまったが、戦後ドイツの人間学的精神医学の思想が紹介されたことで再発見された。その代表がテレンバッハの「メランコリー親和型性格」である。社会精神医学的見方の台頭である。
 
 こういう話をみてくると精神医学というのはなんともいい加減なものだなあと思う。もちろん身体医学だって誉められたものではないのかもしれないが、これに比べれば少しはましなようにも思う。だからこそ多くの医者が「器質的疾患」という概念にしがみつく。「器質的疾患」というのは身体側に目に見える何らかの変化が観察できる病気のことを指す。精神医学領域の病気では脳に器質的な変化はまだ発見されていないと理解している。うつ病のセレトニン不足説は仮に病理形態学的な変化を脳にみつけることができないとしても、セレトニンを増加させる薬を投与することによってうつ病が改善するとしたら、うつ病は脳の神経伝達物質の不足によっておきるとする仮説を支持することになり、広い意味での「器質的疾患」としてうつ病をあつかえることになる。そうなると医者は安心できることになる。
 結核症は結核菌がおこす。と同時に結核は貧困の産物でもある。抗結核剤の発見以前から経済状態の改善により、すでに結核は減少しはじめている。精神疾患の社会精神医学的見方の台頭というのは、結核とのアナロジーでいえば、結核の貧困起因説である。これは公衆衛生の分野では従来からある争点で、コッホと対立したペッテンコーフェルのコレラの原因はコレラ菌だけではないとする説までさかのぼれるはずである。事実下水道の整備でコレラの発症は激減した。過酷な労働環境を改善することはうつを減らす可能性がある。問題は、目の前にいる結核の患者さんの病因が貧困であるといわれると多くの医者は非常に居心地が悪いということである。医者はやはり結核の原因は結核菌だと思っており、その治療は抗結核薬だと信じていて、貧困の改善(栄養状態の改善)だとは思っていないのである。しかし抗結核薬が発見される以前には結核の治療は清浄な空気と滋養強壮であったわけある。魔法の弾丸(抗生物質)の発見以来、病気は治せるものと思われるようになったことがわれわれの疾病観を変えた。その中で、社会精神医学的見方が色濃くある精神医学の領域は、器質的疾患を信じる医者からみると百年くらい遅れているように見えるのではないかと思う。そして「脳派」の精神科医は、もしも簡単にうつ病が治せる薬がでてきたら、社会精神医学などというのはどこかに飛んでいってしまうぞと思っているのではないだろうか?
 本書の記載をみても、わたくしが医者になった1970年代はじめは精神疾患への見方が今とは随分と異なっていたことがわかる。
 「メランコリー好発型性格」というのをはじめて知ったのは笠原嘉氏の「精神科医のノート」によってであったと思う。1976年刊行であるが、わたくしが持っているのは1979年の6刷だから、医者になって5〜6年してである。何で読んだのかは覚えていないが、そのころ心身症のようなものに興味をもっていたので、そのためだろうと思う。この本を読んで、精神科というのも面白い分野かもしれないと思ったのを記憶している。学生時代に習った精神医学は今から思うと60年代の精神医学だったわけで、さっぱり関心が持てなかった。
 今「精神科医のノート」の「メランコリー好発型性格」の章を読んで、テレンバッハがこの性格のものにうつが多いという論を発表したのが1961年であることを知った。この本が書かれるわずか15年くらい前であるので、不真面目な学生で授業には録にでていなかったが、授業では一つの定説としてはまだ教えてはいなかった可能性が高いように思う。どうも下田の「執着型気質」はテレンバッハの説により再発見されたらしい。
 笠原氏によれば、この「メランコリー親和型」性格の説が日本に入っていたのは昭和30年代であり、その時代というのは、精神科の外来に患者が急増し、その多くがうつ病であった時代なのだという。それも軽症の単相性の内因性のうつ病であった、と。ノイローゼという言葉が憂うつ症におきかわっていったのだという。
 復興期や成長期にある社会や伝統志向の強い体制社会ではメランコリー親和型の性格が多くつくられ、かつ社会の中で大きな役割を果たすが、価値が多様化し、権威の所在が不明確な時代になると、この性格からうつが発症しやすくなるのかもしれないと笠原氏は述べている。この性格は過渡期のものであり、良心の源泉としての父なる神が死滅していく中間段階に特有なものであると中井久夫氏が言っているのだという。日本とドイツにそれが多くみられるのはそのためであろう、と。
 「精神科医のノート」には「スチューデント・アパシー」の章があるが、ここで描かれているスチューデント・アパシーの像は最近問題になっているいわゆる「新型うつ」の像ときわめて近いものがある。笠原氏は「メランコリー親和型のうつ」はまもなく終わり、その後にくるのはアパシーのようなものであるのではないかと予想していた。現在、従来型の「メランコリー親和型」のうつが減り、代わりにいわゆる「新型うつ」が増えてきているのは笠原氏の予言が的中しているのかもしれない。
 笠原氏は「メランコリー親和型のうつ」も「アパシー」もともにその根底にあるのは「強迫性心性」なのであるとしていて、それらへの本当の対策は現代の「強迫性心性」を生産する構造への対処にあるのではないかとしている。
 笠原氏によれば、強迫性心性とは「人生に不可避的につきまとう不確実性、予測不可能性、曖昧性を極小にすべく、人間がつくりあげる心理的防御機制なのだという。そのために単純で明確な生活信条と様式を設定して、それにより整然たる世界を構築できると考えて空想的万能感を抱き、不確実性の高い生活領域へは参加せず、生活圏を狭隘化していく。単純な二分法で世界をみて、曖昧な中間領域の存在を許さないのだ、と。
 こういう話は養老孟司氏の「都市化」「脳化」「こうすればああなる信仰」といった話にも繋がってくるように思う。あるいは「科学的思考」「理科的思考」の問題点ということかもしれない。そのように考えれば、うつ病というものを明確な生物学的物質的背景から定義できないと不安という心情もまた強迫的心性なのかもしれない。
 人生一寸先は闇と思うような心情とそれは真っ向から対立するものなのであろう。医者がこういうことを言ってはいけないのだが、健康診断の些細な異常に一喜一憂しているひとをみると、強迫的だなあ、健康に悪いぞと思ってしまう。
 笠原氏の本には「二重の見当識」という章があって、精神医学というのは対象へのアプローチの仕方が複眼的ということを言っている。生物学系の学問でありながら、自然科学的方法論のみならず、人文科学系の方法論にも強い関心を持たざるをえないのだ、と。また時には、病人の側の論理や利害と一般社会通念の側の論理と利害との中間に立たなくてはいけないこともあると。分析的理性的部分認識よりも総合的直感的全体認識が求められることも多い、と。そのように両棲類的であるが、これは決して楽ではなく、明快な自然科学的論理だけで通用する分野にも憧れはある、と。
 何だか笠原氏の本のことばかり論じているが、北中氏には総合的直感的全体認識への強い共感があることを感じる。文化人類学はもともと西欧を相対化することを目指した学問であるはずで、そうであるなら科学という西欧の学からみると見えないものを発見していくのがその学の目指す方向だと思う。その立場からみると精神医学はきわめて興味深い分野であるはずで、生物学的に筋を通そうとするとすぐに無理がでてくる分野であるので、西欧が得意とする分析的理性的部分認識では見えないものがたくさんあることを示す場としては格好である。
 心と身体、個人と社会、正気と狂気を等分に見やる中点的位置を保つことが精神医学では求められており、そこに精神医学の魅力と矜持があると笠原氏はいう。笠原氏は精神医学の分野でも決して主流にいた人ではないかもしれないが、部外者からみると生物学的精神医学というのは魅力的には見えない。笠原氏のような立場が魅力的に見える。しかしそれは書斎からみればということであって、現場の修羅場においてはなかなかそうも言っていられないところがあるのだろうと思う。北中氏は現場にも入っているひとなので、総合的直感的全体認識への共感と現場での現実とで揺れ動いているところもあるようにも感じる。それが精神分析的なものにかなり距離をおいていたり、リワークなどへ共感したりしている部分にあらわれているように感じる。
 ということで次は第4章「「精神療法」と歴史的感受性」をみていく。
 
 

うつの医療人類学

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精神科医のノート

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