ピケティ

 
 いまピケティの「21世紀の資本」を少しづつ読んでいるのだが(まだ第2章あたり)、「アゴラ」に池田信夫さんの『ヨーロッパ左翼思想の到達点ー「21世紀の資本」』という文がアップされていた。
 そこにこんなところがあった。「ヨーロッパの左翼は、英米の「保守革命」の依拠するバーク的な自由思想に対して、ルソー的な人権思想を根拠にして「大きな政府」を提唱しているのだ。これはいまだに「弱者救済」の少女趣味で政治を語る日本の左翼よりはるかにレベルの高い、21世紀の左翼思想の到達点ともいえよう。」「ピケティが資本課税を提唱する根拠は結果の平等ではなく、本書の冒頭に掲げている人権宣言である。フランス革命におけるegaliteとは、ひとしく理性をもって生まれてくる人間には同じ権利があるという天賦人権説であり、そういう抽象的な人権の概念を否定する英米保守主義とは異なる。」
 「21世紀の資本」には訳者解説がなく、ピケティというひとがどんなひとかをまったく知らなかったのでウイキペディアをみていたら確かに「左」のひとである。パリの五月革命に参加後、労働運動に参加とある。まだ若いひとなので、5月革命には高校生くらいで参加したのだろうか?
 ルソーは苦手で、いやなひとだなあという偏見をもっている。すぐにすねてひがんでむくれるみたいな印象があって、そばにいてほしくないひとの典型である。こういうひとを庇護したヒュームはさぞかし大変だっただろうと思う。もちろん、ヒュームはイギリス経験論の側のひとで、どうもわたくしはスミスーヒューム路線のほうに親近感を感じる人間のようである。「天賦人権論」などというのは観念論の極致のように感じてしまう。こういうものは「われわれに命を与え給うた神は、それと同時にわれわれに自由をも与え給うた」というような文脈、絶対者の存在を前提にするのでなければ、ただの観念論に堕してしまうと思う。憲法にこう書いてあるから、ひとはこのような権利を持つ、と真顔で主張しているひとをみると不思議で仕方がない。
 では左翼の元祖?マルクスは天賦人権論のようなものから自説を展開したのかといえば、そうではなく、その当時のイギリスの労働者の悲惨を見て、人間はこのようであってはいけない、なんとかしなくてはいけないという「熱い思い」を抱いたことがそうさせたのだと思う。マルクス主義のもったあの途方もない感染力はその「熱さ」のゆえであったのだと思う。ピケティさんというひともその根っこに「熱さ」を持つひとなのだろうと思う。その「熱さ」のゆえに「21世紀の資本」が世界的なベストセラーとあんったのであろう。ただ「21世紀の資本」はアジテーションの本ではない。膨大な資料を渉猟し、事実をもって語らせる行き方をしている。それを少しでも多くのひとに知らしめようとして、経済学の本とは思えない数式の少ない文章の多い本を書いたのであろう。
 アマゾンのレビューで「これほどの専門書かつ大著にもかかわらず本書が各国でベストセラーになったという事実」は「格差に対する知識階級の切実な問題意識の高まりが先進国に共通したものである」ことを示しているとあるが、本当にそうなのだろうと思う。なにしろわたくしのような経済学音痴が買うのである。
 弱者救済が少女趣味であるかどうかはおいておいて、それは国の制度を変えて弱者を作らないという方向ではなく、できてしまったものを国が救おうという方向である。国というものがどの程度のことをできるのかについては議論が多いところであろうが、ピケティは国の制度を変えることにより格差を縮小していくことができるという立場らしく、それはこれから読む部分にでてくるらしい。
 
 ここまで書いた後で本屋にいったら「悪魔と裏切者 ルソーとヒューム」という本があった。山崎正一串田孫一著ということだが、この本の存在すら今までしらず、最近刊行(11月10日初版となっている)されたことも知らなかった。原著は昭和24年の刊行とある。65年前。なんで今これが最近再刊されたのかもわからないが、だから本屋はときどき覗くべきなのである。
 まだ「解題」と「解説」しか読んでいないが、重田園江さんという方が「解説」でこんなことを書いていた。山崎氏によると、ヒュームは「善良だが卑怯」で、自らの逃れがたい「健全さの悪」に無自覚である。これに対してルソーは「裏切り者」の誹りを免れない。本書は「妄想にとりつかれたルソー」と「そのとばっちりをうけたヒューム」を描いた本である。が、著者はルソーに肩入れしているようにみえる。
 ヒュームがとったのは「近代的な実証科学の方法」である。一方のルソーは「心情のロジック」、「主観」のみである。これは「客観対主観」の戦いではない。「近代人ヒューム」対「ロマン主義者ルソー」でもない。ヒュームはいくら極端なことを主張する場合でも、われわれの日常感覚は決して手放さない。一般人のバランス感覚や常識を尊重する。ヒュームは「理性は情念の奴隷」であるという。一方、ルソーが訴えるのはただ一つのことのみ、「自分の良心にきけ、そうすれば自ずと真実は明らかになる」ということだけである。ルソーは他人は騙せても、自分は騙せない、と主張する。
 実は近代は「世間の目と市民の常識」が尊重される時代であるとともに、自己の良心が絶対的な力をもってきた時代であった。ルソーはその実生活をみれば良心のかけらもない人間に見える。だが、そういう人間だからこそ、「健全さの悪」をみることができたのだ、と。
 竹内靖雄氏の「経済思想の巨人たち」によれば、ヒュームは知られている哲学者のなかでもっとも卑劣なこと悪意に満ちた行為が認められることが少ないひとなのだという。その「ヒュームの健全さの悪」である。
 ヒュームによると人間には二種類あって、物事を浅薄にしか考えられないために真理に到達できない人と物事を深淵に考え過ぎて真理を通りこしてしまうひとである。ルソーは明らかに考えすぎる人、深淵をみる人である。しかし深淵をみる人からは健全さには悪がみえるのである。
 なんでこんなことを書いているのかというと、ピケティというひとには、英米保守主義に「健全さの悪」が見えるのではないかと思うからである。そしてそういうひとがルソーとは違って、あくまでも実証的な手法でそれを述べているということである。
 マルクスは明らかにロマン主義者の相貌を持っていた。しかしピケティは手法としてはロマン主義に封印をせざるをえないのである。
 

21世紀の資本

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経済思想の巨人たち (新潮選書)

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