(18)ヨーロッパ

 ヨオロツパは或る意味で我々が最も知らない世界の部分で我々は先ず誤解することでこれに接し、誤解が習熟に取り違えられて既に久しいことに気付いた時にはそれまでヨオロツパを我々が誤解したり習熟したつもりでいたりした原因である世界でヨオロツパが表向きに占めていた位置、そこでヨオロツパに割り振られた役が厳密にはヨオロツパでないアメリカとソ聯のものになっていた。

 「ヨオロツパの世紀末」の「後記」から。これは昭和四十五年八月の日付があるから、1970年に書かれていて、だからソ連がまだ存在している。
 なんだか随分と解りにくい文章で、吉田健一の文章に慣れていないひとには文意がとれないかもしれない。というか、「ヨオロツパの世紀末」の本文を読んでいないひとにはなんのことやら、であろう。ここで「ヨオロツパが表向きに占めていた位置、そこでヨオロツパに割り振られた役」といわれているのがヨーロッパ19世紀で、それが生んだのがアメリカとソ連であり、欧米などという言葉でアメリカとヨーロッパを一緒くたにして扱ってきたわれわれは本当のヨーロッパ、18世紀ヨーロッパを知らないのだというのが「ヨーロッパの世紀末」のいわんとしているところなのである。
 この「ヨーロッパの世紀末」を初めて読んだのはわたくしがまだ大学生の時だから、この吉田氏の奇矯とも思える説に随分と驚いたものだが、その後いくらか本を読んでいくと、18世紀ヨーロッパこそ真のヨーロッパという見方はヨーロッパの知識人には比較的よく見られるというか、むしろ正統的な見解であるかもしれないことがわかってきた。したがって、世紀末を18世紀ヨーロッパの蘇りとみる見方にこそ吉田氏の工夫があるとしても、18世紀ヨーロッパこそがヨーロッパの精髄という見方自体は、それを聞いて驚くわれわれがいかにヨーロッパの思想の正統に無知であったかを示すものであっても、吉田氏の独創はない。
 われわれはヨーロッパというものを産業化の光と影という方向からのみ見てきた。とするとアメリカとソ連が前景にでてくるのは当然である。そして産業化というのはグローバルなものであって、ヨーロッパという地域とは直接の関係はない。
 最近、ヨーロッパについて少し考えているところであるので、これを思い出した。
 「吉田健一の50の言葉」は一年くらいで完成と思っていたら、前回から随分と空いてしまって、とても今年中には終わりそうもない。まあのんびりやっていきたいと思う。