小谷野敦 「評論家入門 清貧でもいいから物書きになりたい人に」

  [平凡社新書2004年11月10日初版]


 本書を読んで、本を読むこと、それについて書くことなどについていろいろと考えることろがあった。たとえば、わたくしがいくつかの本を読んで、その感想をこう形でインターネット上にアップしている、そういうことについてである。もっとも、本書のテーマがそういうことであるというわけではない。本書をだしにしてのわたくしの個人的な感想である。
 ある人が日本の経済の状況について関心をもって、それに関係する本をいろいろと読んだとする。読んでみるとさまざまな説があり、さまざまな主張があることがわかる。それを専門にしている学者の間でさえ意見がわれているのだとしたら、その正邪を素人である読者が判断できるものだろうか? もしもできないのだとすれば、それを読むことは意味がないだろうか? 学者間の意見の違いが何に起因するのかということについては理解できるかもしれない。あるいは意見の違いが事実についての判断ではなく、どの事実が大事かという価値観の違いに起因していることがわかるかもしれない。少なくとも何が問題とされていて、それについてどういう意見があるかはわかる。その問題についての一種の地図がおぼろげに書ける。おそらく、可能なのはそこまでである。
ところでその人は素人なのであるから、正統的な学問手続きの訓練をきちんと経ている学者の意見と、そういう学者からみればトンデモである自称経済学者の区別がなかなかつかない可能性がある。むしろ正統派学者の書いたものは難しくて理解できず、トンデモ学者のほうがわかりやすいことさえありうる。クルーグマンが「クルーグマン教授の経済入門」でいう、ギリシャ文字式、ジェットコースター式、空港式である。多くの人間はギリシャ文字式で書かれた本など読めないから、われわれに読めるのはあまりに近視眼的で大きな視点をまったく欠いている本か、大惨事を予言する法螺話だけかもしれない。そしてクルーグマンがいうように、ギリシャ文字式で書く人でも、自分の無能を覆い隠すためにわざと難しく書いているものもいるのだとしたら、われわれはどうしたらいいのだろう。サミュエルソンやスティーグリッツの教科書を一から読むことをはじめなければいけないのだろうか? しかし、われわれは経済学者になりたいのではない。たんに日本経済の現状について自分なりの判断を下したいだけである。しかも、われわれが知りたいのは日本経済の問題だけではない。さまざまな問題について基礎から学んでいくためには、われわれの人生はあまりに短い。
 そうであるなら、素人がまとな本をそうでない本を見分けることは容易ではない。自分のことにひきつけて考えても、わたくしがこのHPでとりあげている本は、おそらく味噌もクソも一緒であり、まともなものからまったくの屑まで、いろいろであろう。ひょっとすると、箸にも棒にもかからないもののほうが多いのかもしれない。
 わたくしがある本を読んで、内容をこう理解して、こういう感想をもった、というところまでは事実であるが、それはわたくしにとって面白かったあるいはつまらないかったというだけのことである。ぜひほかのひとにも読んでほしいということでもないし、そのようにいう自信もない。それなら、そういう文章をなぜアップしているのだろうか?
 専門の勉強のために本を読むのではなく、楽しみのためだけに専門外の本を読んでいる人間がどんなことを考えながら読んでいるか、その一つのサンプルにはなるかもしれない。感想を書く場合、それを読んでくれる人を想定できるほうがずっと客観的に書けるものである。自分のためだけに日記として書いていると、それが本当に自分の思っていることかどうかがわからなくなってくる。というのは、だれかに読んでもらえる可能性があって文章ははじめて一種公的なものとなるからである。私的な文ではなくするためにインターネットにアップしている、そういうことであると思う。
 だからそれは誰かに読まれてもかまわないものではあるが、積極的に誰かに読んでもらいたいということではない。もしも誰かに読んでもらいたいのであれば、もっと結構の整った文であるべく心がける必要がある。ここにアップしているのは、そのような推敲した文ではない。
 
 さて、小谷野がこの本で主張しているのは、文を書くなら積極的に本を作って売ることをめざせ、ということである。インターネットに個人的な文をアップしても、それは第三者からの批判を経ていない文であるから私的なものであり、編集者なりの目を通してから出版される本こそが公的な性格をもつということなのである。たしかにその通りで、このホームページでは、他人に読んでもらうための礼儀作法が一切考慮されていない。自分にさえ解ればいいという「個人的」なものとなっている。
 かってはプロの学者などというものがおらず、アマチュアが後世に残る著作を書いたという時代もあった。「ローマ帝国衰亡史」を書いたギボンは、プロの歴史家ではなかった。ギボンのころには、まだ専門の歴史家などはおらず、学問としての歴史学などというものもなかった。自然科学の分野でも、科学が専門の学問分野として認知されるようになったのは19世紀以降のことである。
 「文学の楽み」の最初の章の「大学の文学科の文学」で、吉田健一は、「文学は学問ではない。ここの所が大事である。・・・(英国で英国の文学を大学で講じようとしても)その中で学問的に取り上げられる部分が殆どない・・・。それを学生に教へる段になると、知識の伝達よりも教へる方が優れた批評家であることが必要になつてくる」と書いている。
 ここで吉田健一がいっている優れた批評家というのはプロであろうか? 大学の文学部の教授という肩書きからいえばまぎれもないプロである。しかし、教えていることが学問、つまりは知識の伝授であるのかということになれば、大きな疑問が生じる。
 吉田健一ケンブリッジに学んでいるが、学問をしたとは思っていないであろう。批評とは何かということを学んだのであろう。だから、「ヨオロツパの世紀末」のような本を、学問の書であると思っているはずはない。それでは何なのか、といえば、批評であると答えるだろう。吉田健一という人間には、ヨーロッパの18世紀あるいは19世紀はこのように見えたということである。ヨーロッパの長い歴史の中で18世紀あるいは19世紀はどのようなものとして位置付けられるか、それが言えるためには、その人にヨーロッパの歴史全体がどにように見えているかということがなければならない。現在の学問の極度の専門分化のなかでは、ヨーロッパ史の専門家などというものはいない。古代ローマの専門家であったり、中世イギリスの専門家であったり、さらには古代ローマの民間宗教の専門家であったり、中世イギリスにおけるノルマン人の信仰についての専門家であったりもする。
 そういう立場からすればヨーロッパの18世紀から20世紀初頭までの歴史をたかだか250ページたらずの本で鳥瞰してしまうなどということは考えられないことである。だからこれはどこから見ても学問の本ではない。とすれば、これはプロの仕事ではなく、アマチュアの著作ということになるのだろうか? 批評はアマチュアの仕事、あるいはアマチュアでもできる仕事ということになるのだろうか?
 小谷野によれば、カントやフッサールハイデガーは哲学という学問をしている人であるが、ニーチェキェルケゴールは「自分の考えを述べている人」である(もっともラッセルの「西洋哲学史」では、ハイデガーは全然でてこないから、ラッセルにとってはハイデガーは哲学者ではなく「自分の考えを述べている人」と分類されていたのであろう。そういえば、フッサールの名前もない)。「自分の考えを述べている人」と批評家は同じなのであろうか? 吉田健一もまた「自分の考えを述べている人」なのであろうか?
 「ヨオロツパの世紀末」を客観的な本であると思う人はいないであろう。 学問というのは何がしか客観的なものでなればいけない、というのが小谷野の前提である。学問というのは事実とぶつかる。意見や考えというのは事実とぶつからなくてもいい。事実とぶつからなければ、どのようなことでも主張できる。しかし、批評家とは、勝手にいいたいことをいうだけのひとなのであろうか?
 「ヨオロツパの世紀末」における事実といえば、それはボードレールヴェルレーヌの詩であり、ヴァレリーの評論である。なにしろ、「それで話が簡単になり、ヴァレリイがヨオロツパである」などというとんでもない文まである。小林秀雄流の飛躍と断定の文章である。
 小谷野はカナダに留学した時、はじめて小林秀雄流の文章で書かれたものは学問にならないことに気づいたという。しかし、日本で評論としてあつかわれているものは、ほとんど小林秀雄亜流の感想文ばかりである。もっと学問を尊重せよ、というのがここでの小谷野の第一の主張である。
 たとえば、丸谷才一の「忠臣蔵とは何か」が批判されている。わたしも初読したときに、ちょっとしたエッセイの材料程度の思いつきを、無理に一冊の本に引き伸ばしたような薄手な印象を受けた。「・・・という可能性は考えられないだろうか。いやきっとそうに違いない」というような小谷野の言い方を借りれば、可能性と蓋然性を区別していないような議論ばかりなのである。忠臣蔵という芝居を日本人が好むのは御霊信仰(崇りじゃー!というやつ)と関係があるのではないかという思いつき、おそらくそれは若いときエリオットの詩にぞっこんいかれて、その時、詩の背景にブレーザー民俗学があることが深くこころに刻まれ、そこにあるカーニヴァル的なものこそが文学の根幹であるという思いが消えずにいて、しかもそれがうまく自分の小説では実現できていないという思いがあり、ある時、忠臣蔵の解釈にカーニヴァル論を応用できるのではないかと思いついた、そういうことなのではないだろうか? そうでないとすれば、かただかあの程度の仮説になぜあれほど入れこむのかが理解できない。
 そう思ったのであれば、エッセイとして書けばいい。エッセイに書いておいて、あとは学問的な検討をみなさんに期待するとしておけば何の問題もない。しかし自らが調べ出して、自説に都合のいい(あるいは自説を支持するといえばいえなくもない程度)の説を恣意的に配置して一冊の本をつくるから、おかしなことになる。意見、見方であれば何の問題もないものが、事実とぶつかると馬脚をあらわしてくることになる。小谷野のいうように学問的な手続きを踏んでいない。
 丸谷の「忠臣蔵」は仮説を提示している。それなら吉田の「ヨオロツパ」も仮説を提示したものだろうか? ヨーロッパは18世紀にその精華を開花させたが19世紀には頽落し、それが世紀末においてふたたびヨーロッパらしさをとりもどすことになった、などというのは検証のしようがないことであり、ぶつかる事実のないものだから仮説とはいえない。それは見方である。
 あるものがあるひとにはどうみえるか? それはそのひとにはそう見えたということであって、正しいとか間違っているという話にはならない。「ヨオロツパといふ一つの文明の歴史を振り返つて見るとヨオロツパがその性格を完成し、我々がヨオロツパといふものと結び付けて考へる各種の特徴を凡て備へるに至つたのが西暦で言へば十八世紀であることを強く感じる」、というのが「ヨオロツパの世紀末」の基調なのであるが、「我々は強く感じる」などといわれて、自分はそんなことは感じないという人もいるだろう。しかし、日本人がヨーロッパと思っているのは19世紀ヨーロッパという畸形のヨーロッパなのであるから、本当のヨーロッパを知れば考えが変わるはずである。本当のヨーロッパの姿を伝えたいというのが著者の姿勢なのである。少なくとも、わたくしについていえば、この本を読んでヨーロッパ18世紀への見方が変わった。18世紀が事実そういう世紀であったというのではなく、ヨーロッパ18世紀にはそういう風に見える部分もあることを知ったということである。視野が広くなったといえばいいのだろうか?
 われわれが本を読んで、それを面白いと思うのは、小説などのフィクションでなければ、何か今まで知らなかったことを知ったか、新しい見方を知った場合である。本書では岸田秀河合隼雄中沢新一などの著作が、それが学問ではないと批判されている。小谷野によれば精神分析学そのものが二十世紀最大のいんちきなのであるから、岸田や河合が批判されるのは当然である。小谷野のいう通り、フロイトが自説の前提とした仮定はすべてまちがっているのであろう。しかし、臨床の現場においては、誤った仮定のもとでも患者がよくなることがある。困ったことであるが事実である(もちろん、悪くなるもこともたくさんある。そのほうがずっと多いかもしれない。生齧りの精神療法はほとんど害のみをもたらす)。
 また小谷野がいうようにユングはオカルトなのであろうが、患者との接し方、距離のおきかたを教えてくれるという点で、ユング派である河合の本は、臨床医にとって、きわめて有用、有効であるのも事実である。いんちきな説に依拠しても、優秀な臨床家であることはできるのである(河合が心理療法家として優秀であるのは、彼がユング派の精神分析を学んだこととは少しも関係ないかもしれないし、ユング派にも優秀な臨床家と無能な臨床家がいるというだけのことかもしれないが)。
 中沢新一の書いているものはどう考えても学問ではない。ではそのしていることは何なのかといえば、既存の権威をすべて疑ってみるということではないだろうか。合理的な時代には非合理を、信仰なき時代には仏教をというように、その時々に正統であるとされているものから距離をおくという姿勢なのであろう。だから正統とされている学問手続きなど薬にしたくもないだろうから、小谷野の批判などなんとも思わないはずである。そういう点では確信犯のアマチュアであるのかもしれない。
 岸田の本も、河合の本も、中沢の本も、われわれに一つの新奇な視点を提供する。河合の中空構造論などは、日本には何からの万古不易の本質のようなものがあるという間違った仮定にもとづくものであり、本当は戦後日本にしか当てはまらない議論であるとして批判されているが、たとえば天皇制がなぜ日本で連綿と途絶えることなく続いてきたかということだけ考えてみても、日本において、非常に長い間よしとして受け入れられ続けているいくつかの発想が存在する可能性はある。これは可能性であって、蓋然性ではないけれども、それでも、中空構造論はわれわれに一つの視点を提供するものであるので、ただもういんちきとして排除することもないようにも思う。(ではあるが、「中空構造日本の深層」は1982年に刊行されており、今読み返してみると、随分とその当時の思潮によりかかったきわどい議論が多い。この説を現在提示したら高い評価を受けるかどうか、相当疑問である。それ以前に、日本語としておかしい主語と述語が対応していないような部分が散見される(ひとのことは言えないけれども)。「ユングはむしろ無意識に存在する創造的な可能性に注目し、それは―特に彼の言う普遍的無意識を問題とするならば―決して意識化しつくせない無限の可能性をもつものであった。」 句点以下は、「それを・・・・・もつものであると考えた。」とでもしなければおかしい。このような文があちこちにある。)
 本書で比較的高く評価されている江藤淳の「成熟と喪失」や山崎正和の「鴎外 闘う家長」にしても、小林秀雄流の他人をだしにしておのれを語る部分もあるわけで(山崎の描く鴎外像は、山崎の自我像であるとしか思えない。「鴎外 闘う家長」がその陽画であるとすれば、「舟は帆舟よ」はその陰画である)、それでもそれが力をもつとすれば、江藤や山崎自身の病理が時代の病理と通低すると、彼らが信じることができたからであるに違いない。どうも、学問かどうかということには、あまりかかわらないように思える。
 問題は上野千鶴子のようなフェミニズムの場合である。ジェンダーの基礎に生物学的なものがあるかということはフェミニズム論にとって決定的に重要であるので、それらにかんする学問的な成果を無視した立論は成立しえないからである。しかし、たとえば進化論といった学問分野でも、ドーキンスとグールドの対立にみられるように、何が学問の成果であるかについての明らかな合意がえられているとは、とてもいえない。社会生物学は当初大きな批判にさらされたけれども、現在では無視できない学問分野になっている。それにもかかわらず、文科系の学問でそれを視野に入れているケースはまだ多くはない。「成熟と喪失」で江藤が依拠しているE・エリクソンアイデンティティ論も精神分析の系統であって学問的にはいんちきなのかもしれないが(今では人口に膾炙しているアイデンティティという言葉をわたくしがはじめて知ったのは、「成熟と喪失」の中でであったと思う)、そこで描かれている大草原をいくカウボーイの孤独な姿は本物である(ゆっくり行け、母なし仔牛よ・・・)。だから、エリクソンの学説が崩壊しても「成熟と喪失」が無意味な説となることはない。しかし、ジェンダー論にとっては、性差の相当部分が生物学的なものであるかどうかというのは学問の骨格、根底にかかわる問題であるから、もしもジェンダーの相当部分が生得のものであるなら、現在のフェミニズム説のかなりの部分は崩れ去ることになる。
 そうだとすれば、生物学や進化論についての学問動向は他の分野にも決定的な影響を与えることがあるわけだから、専門分化する一方である学問の成果を、一般にわかりやすく啓蒙していく人が必要とされるてくるのは当然である。しかし、そういう啓蒙のチャンピオンの一人であるドーキンスが論じていることにしても、進化論の最先端の研究者からは時代遅れでものたりないものであろうし、もう一方の啓蒙の旗頭であるグールドは、正統派を自認するドーキンス派からはトンデモ扱いされている。
 哲学の分野でも、小谷野が高く評価するポパーは進化論を自分の哲学の基礎においているとしているが、生物学分野の人間からみるとその理解は二昔以前ということらしい。またポパープラトン理解などもプラトン専門家から見ると噴飯ものらしい。一番力を入れたようである物理学の観察者問題についてもどうもカスをつかんだようであるし、専門である科学哲学にかんしてもクーンのほうが科学の現場の実態とよほどうまく対応している。
 にもかかわらず、ポパーのほうが魅力的なのである。クーンよりポパーのほうが学者としてずっと柄が大きい。視野が広いし、ものごとの根底で一番大事なものをつかんでいるという印象がある。そして、もしもポパーが自分の主張の学問的な細部に拘泥していたら(量子物理学についてはそうしていたのかもしれないが)、柄の大きな主張はできなかっただろうと思うのである。読者からいえば、ポパーが述べている物理学、進化論、科学史、あるいは確率論などについて、最新の学問動向がどうなっているのか、何が正しいとされているのかについて、リアルタイムでついていくことは不可能である。われわれに言えるのはポパーの著作自体がわれわれを惹きつけるかどうかということだけであって、ポパーの著作をささえる諸事実についての学問的な批判などということは、よくなしうるところではない。
 ポパーの著作を読んでわれわれが感じるのは、そこにポパーというひとがいるという感じである。クーンの著作からは、そのような印象をうけることがほとんどない。透明なのである。学問の本がつまらないのは、書いている人の匂いがしないからである。啓蒙書であっても、そこに著者に体臭がない本はあとに残らない。ドーキンスとグールドをくらべたら、どう考えても、グールドの著作のほうに、人間の匂いがする。
 ポパーほどの大物ではないが、養老孟司なども個々の専門家にいわせるとくそみそである。あれだけ広い範囲のことについていろいろなことを言っていれば、その分野の専門家からすれば、よくもあんなに大胆なことを大風呂敷を広げていえるものだ、素人はいいなあ、ということになるのであろう。しかし、養老には元東大解剖学教授という肩書きがあり、しかも何かの間違いで本が馬鹿売れしてしまったものだから、かれの杜撰な説が権威として広まっていくのではないかということが、学者側から見ると、不安で仕方がないらしいのである。
 本書でいう評論家の例として、わたくしがまっさきに思い浮かべるのは養老孟司である。わたくしなら評論家でなく、批評家という言葉を使いたいが、この人の著書には著者の姿が明確にいつもある。要するにいいたいことがある人である。養老がベストセラーを出すまでにあれだけ沢山の本をだしていた(わたくしの本棚にも50冊ほどある)のも、そもそも本をだしてもらえたのも、他人とは違う何かがある人であり、それを出版側も認めたからである。
 とくにいいたいこともないけど本をだしたいなどというのは本末転倒である。どうも宮仕えがいやだから、人交わりが苦手だから物書きになりたいなどというのは弱いと思うのである。小谷野が評価している梅原猛は一冊もわたくしは読んでいないけれど、過剰なところがあるひとのようである。そういう何かがなければ読者をひきつける何かはでてこないだろうと思う。多分、小谷野にしても過剰なところがある人なのである。「もてない男」はその過剰なところがいいほうに出た本だから売れたのである。
 最後に「エッセイストのすすめ」という章がある。しかしエッセイストというのは文章がうまくなければお話にならないはずである。そしてわたくしが古いのかもしれないが、大人の風貌とでもいったものも必要である。福原麟太郎の随筆などまさにそういうものである。そういうものが何もないひとがエッセイなど書けるはずがない。荒川洋治がこれからエッセイのジャンルが伸びるといったとしても、荒川ほどの文章家・批評家はそうはいないはずなのである。小谷野も人が悪いのではないだろうか。
 士大夫という言葉はもう化石となっているのかもしれないが、本当の本というのは、士大夫が書き士大夫が読むものであって、読むときにそれを書いたひとのことが確かに感じられて、そこに考えるという行為がなされているのが見えるものをいうのではないかと思う。そういうものがない本というのは、読んでいてつらいものがある。そういう点では、評論はいいとしても、小谷野敦のエッセイというのは、まだ読みたいとは思えないというのが正直なところである。
と書いたあとで、なんとはなしに「もてない男」のあとがきを見ていたら、自分としてはこれはエッセイのつもりとあった。何気ない四方山話のところどころ自分の考えを入れるのがエッセイなのだそうである。しかし「もてない男」は四方山話だろうか? 竹林の七賢人風の清談のようなものばかりがエッセイであるとはいわないけれども、それでも・・・。



(2006年4月23日ホームページhttp://members.jcom.home.ne.jp/j-miyaza/より移植)