村上春樹 「蛍・納屋を焼く・その他の短編」  橋本治 「蝶のゆくえ」

  [新潮文庫 1987年 原著1984年初版]  [集英社 2004年11月30日 初版]


 この二つの短編集を較べてみようというのである。
 村上のこの短編集を読んでみたのは、一つには、「男流文学論」で、「蛍」が「ノルウェイの森」の元短編として、この短編で十分なのに、なんで「ノルウェイの森」なんて長編が必要なのだという文脈で言及されていたのと、もう一つには「納屋を焼く」が、加藤典洋編「イエローページ 村上春樹 Part 2」で印象深い紹介をされていたからである(そういうことなので、「イエローページ 村上春樹 Part 2」の読みからは、相当影響を受けた、というか、その読みの下で読んだ)。
 一方、橋本の短編集はごく最近でたばかりである。橋本治の本は相当たくさん読んでいるが、彼が本業であるとしている小説だけは例外で、いままで読み通せたことがなかった。今回、ようやく読み通したが、なにかうまく言えない厭な感じのようなものが読後に残った。それが何なのかということを、村上の短編集と比較しながら考えてみようというのである。

 「蝶のゆくえ」は、「ふらんだーすの犬」「ごはん」「ほおずき」「浅茅が宿」「金魚」「白菜」の6つの短編を収めている。「ふらんだーすの犬」「浅茅が宿」はまだしも、あとの題名はいまどき短編にこんな題名はつけないよ、というような即物的なそっけない題である。この短編集の特徴は、読んで intimate な感じがしないというか、なにかどこかつきはなしたような感じがあることなのだが、題名にもそれが現れている。もちろん、橋本は意識的にそうしているのであろうが。ちなみに村上の短編集は、「蛍」「納屋を焼く」「踊る小人」「めくらやなぎと眠る女」「三つのドイツ幻想」という題名の5編を収める。
 橋本の短編は背景の時代が実にはっきりとしている。というか、背景の方が短編で描きたいもので、そこにでてくる人物たちは、その背景を示すために必要だから登場しているようにさえ見える。橋本が描こうとしているのは、現在ただいまの日本である。そして、そこに描かれる日本は醜くて、まったく救いがない。
 「青空人生相談所」という橋本治の人生相談を収めた本がある。矮小な人間たちがする矮小な質問に対して、橋本が裂帛の気合で説教をしていくという、大変に面白い本である。この短編集はその質問者の日常を描いたような本なのである。著者橋本にとって、この短編に登場する人物たちがなぜそのように行動するかは完全にお見通しとなっている。登場人物にはまったく自由がない。現代日本という場の中で、親子、夫婦、同僚、嫁姑などが、ただ押し流されていく。
などと書いても、この短編集の雰囲気は、読んでいない人には、まったくわからないであろう。たとえていえば、こんなことであろうか? 最近、韓国のなんとかという俳優が日本にきて、それを追っかけている頭が空洞の(心も空洞なのであろうか?)女たちのことが話題になっている。その追っかけの一人を主人公として、その夫、子供、あるいは追っかけの仲間たちとの関係がいかにもそれとして納得できるかたちで書かかれているようなもの、それが「蝶のゆくえ」の任意の一篇なのである。そのおっかけ女は間違いなく日本の病理の一端を示している。しかし、そういう女の話を読んでも、我を忘れるとか、身につまされるというようなことはおきない。なんだか、全然、関係ない話を読まされたという印象だけが残る。
 なぜ、橋本はこのような短編を書いているのだろう? 現在日本のさまざまな可哀想な人たちの墓碑を立てようとしているのだろうか? たとえば、親に放置されて死んでゆく哀れな孝太郎少年(「ふらんだーすの犬」)のための墓碑。しかし、小説で墓碑を立てるというのは、実物よりも少し背丈が高く、輪郭がくっきりとしたものとして人物を描くことではないだろうか? つまり一登場人物であると同時に、どこかで永遠の相にも通じるものがなければいけないのではないだろうか? 「可愛い女」にしても「ボヴァリー夫人」にしても、それは単なる登場人物ではない。その当時のロシアやフランスがわれわれにとってはまったく関係がなくなっていても、それでも、その小説の魅力は失なわれない。しかし、この橋本の短編集の主人公たちは平成の日本を離れると、その存在基盤を失ってしまうのである。
 (ところで、韓国俳優のおっかけのような存在はどこの国にもいるのだろうか? それとも日本に特異な存在なのだろうか? 長尾龍一氏によれば、袖井林二郎編「拝啓マッカーサー元帥様」に示されているような国民を挙げてのマッカーサー神化の熱気こそが、日本の戦後史、そして憲法問題を解く鍵なのだそうであるが(「思想としての日本憲法史」(信山社))、ヨン様追っかけの心理とマッカーサー崇拝の心理というのはどこかで通低しているということはないだろうか?)
 考えてみれば、村上春樹の小説に、嫁姑関係なんてダサいものは全然でてこないし、会社の同僚との関係なんかもでてこない。親子だって「海辺のカフカ」だし、つまり、普通の人生相談にでてくるような、ちまちまかつどろどろした人間関係はまったく問題とされない。 とすると、小説になる人間関係とそうでない人間関係とがあるのだろうか? 村上はいかにも小説になりそうな人間と人間関係をとりあげ、橋本は普通なら小説にでてくることは考えられない人間と人間関係をあつかっているということなのだろうか?
 村上はいくつかの限定された狭い人間関係にこだわっていて、それを一生懸命に追求しているが、それでも、それは解らないと言っている。橋本はいろいろな人間関係すべてに関心があり、しかも、それらすべてを理解してしまうのである。
 村上の世界は一人称から他人を見るが、他人はいつも”ぼく”の理解を超えた何かをもっている。橋本は三人称の世界を描くが、そこの世界でおきることは、作者にはすべて原因がわかっている。そこには、謎はない。人物には謎がないが、なぜ登場人物に時代はそのような行動をさせるか、それを橋本は追求する。橋本が追求したいのは平成の日本がなぜこうであるのか、そこで生きる人間をかくも無残にするものは何なのか?ということであり、登場人物はその物語の中で、時代に典型的な悲惨を演じるのである。時代の病弊から外に出ようとしているような人物は一人もいない。
 たしかにわれわれは時代の制約に中で生きている。しかしわれわれは時代の制約がすべてであるとは思いたくない。時代の制約の中でも、それを超えた何かが自分を動かしていると考えたい。そして小説は、われわれの時代がわれわれにあたえる制約をではなく、その制約の中でも何事かを成し遂げたい、われわれの中にある”あがき”のようなものを描くものなのではないだろうか?
 橋本治の時論は、いつも抜群の冴えを見せる。われわれの時代がどのような時代であるかを、橋本以上にうまく分析してくれるものは、そう多くはない。それはわれわれを、一番大きいところで決定している制約の枠組みを示してくれる。しかし、その制約がすべてではない。少なくともわれわれはそう思いたい。
 一方、村上の小説は今の時代を描きながら、それに押し流されない、流れには逆らわないまでも、何とかその外にでようという希求しているものたちを描いている。「めくらやなぎと眠る女」の「いとこ」は、橋本の小説に登場する人物と同じ不幸を背負っているのかもしれないが、作者からつきはなされてはいない。
 村上の小説は、外国語に翻訳されて、現代の日本をまったく知らない読者が読んだとしても、それでも、そこから何かを感じ取ることが可能であるような普遍性を、どこかにもっている。一方、橋本の小説は日本の今を知らない読者が読んだら、ほとんど理解不能な小説なのである。
 橋本の小説は、”文学的”な小説には登場しない”普通”の人間を描こうとしているのかもしれない。村上春樹は、サリン事件被害者へのインタヴュー集である「アンダーグラウンド」を書く過程でたくさんの”普通”の生活者と接し、それが後の「海辺のカフカ」における星野青年や中田老人、あるいは「神の子どもたちはみな踊る」のなかの「かえるくん、東京を救う」での東京安全信用金庫新宿支店融資管理課係長補佐の片桐さんの造形につながっていったことは、十分に考えられる。しかし、その”普通”のひとというのは、社会を底辺から支えている黙々と働いているひとなのである。
 一方、「蝶のゆくえ」では、「ふらんだーすの犬」の20歳を少し過ぎた美加、「ごはん」の26歳の女三人組、「ほおずき」の19歳の女二人組、「浅茅が宿」の夫が定年をむかえた女である静子、「金魚」での嫁と姑、「白菜」での孝子とその老母、主人公はみな女であり、社会ではたすべき何の役割もあたえられていない。自分の位置が社会のなかでどこにもないという不幸がそこでは描かれている。そして、男たちも虚業に生きている。みんな空虚である。
 空虚といえば、村上の「神の子どもたち・・・」の「アイロンのある風景」では、順子が「私ってからっぽなんだよ」といっていた。小説というのは自分の空虚を知るひとを主人公にしたほうがうまくいくのではないだろうか? そうではなく、主人公の空虚を作者だけが知っているという小説はどうもうまくいかないように思う。そして作者が、主人公の空虚は社会の仕組みから必然的に生じてくるもので考えるとしたら、作者は、社会の分析へとむかう。
 橋本治の日本社会分析の執拗さの源泉というのが今ひとつ理解できないでいたが、「蝶のゆくえ」を読んで、その一端が理解できたように思った。橋本は自分の小説の登場人物を、すみからすみまですべて完璧に理解せずにはいられないのである。ほんの一点でも曖昧なところがあってはならない。神の立場にたって小説を書くという、いまどき珍しい古典的な小説観に依って書いている。だから、「加穂子は、真面目な女だった。自分ではそう思わない。しかし加穂子は、息苦しいほど真面目な女だった」(「金魚」)というような文章がある。主人公が知らないことを作者は知っているのである。しかし、「加穂子は、真面目な女だった」という文章は変ではないだろうか? 真面目だと自分で思っているとか、他人からそう思われているとかいうのならいい。しかし「真面目な女だった」という文章にはどうしてもひっかかるものがある。アゴタ・クリストフの「悪童日記」にある、「「<小さな町>は美しい」と書くことは禁じられている。なぜなら<小さな町>は、ぼくらの眼には美しく映り、それでいて他の誰かの眼には醜く映るかもしれないから。同じように、もしぼくらが「従卒は親切だ」と書けば、それは一個の真実ではない。というのは。もしかすると従卒に、ぼくらの知らない意地悪な面があるかも知れないからだ。だから、ぼくらは単に、「従卒はぼくらに毛布をくれる」と書く」、ということこそ真実であって、「真面目な女だった」と作者に書かれてしまったら、作中人物には行動の自由がなくなってしまう。
 小説を書いていて作中人物が作者の手を離れて自由に行動するようになれば、その小説は本物であるというような話があるが、橋本の小説では、どうもそういうことはおきそうもない。むしろ劇のように、外にある何かが、人物の動きのすべてを決めてしまうのである。
 「蝶のゆくえ」のある種の後味の悪さというのは、作中人物に一切の自由が与えられていない点に起因するのではないだろうか? 時代というものがいくら大きくわれわれを規定しているのだとしても、それでも われわれは、「自由意志」というものが、まったくはたらく余地がないとは、思いたくないのである。


(2006年4月23日ホームページhttp://members.jcom.home.ne.jp/j-miyaza/より移植)

螢・納屋を焼く・その他の短編 (新潮文庫)

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蝶のゆくえ

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