G・レイコフ M・ジョンソン 「肉中の哲学 肉体を具有したマインドが西洋の思考に挑戦する」

  [哲学書房 2004年10月15日初版]


 この本は実は読了していない。はじめの100ページくらいを読んだあとは、ぱらぱらと拾い読みをしただけである。どうにも、読み続けられない。きちんと読んでいない本について、感想を書くということは、本来であれば礼を失したことであり、してはいけないことなのであろうが、なぜ読めないのかということを考えてみたいというのが、これを取り上げた理由である。
 この700ページ弱、6600円という大著を買ってみようという気になったには、訳者が計見一雄となっていたからである。計見氏には「脳と人間」という精神病理学の本があり、以前読んで大変面白かった。その計見氏が訳したものだから間違いがないだろうと思ったのである。
 2000年に刊行された「第一回養老孟司シンポジウム 脳と生命と心」という本がある。その中に計見一雄氏の「精神分裂病と<肉体性をもつ言葉>」という講演が収められている。そこでの発想のもとになっているのが、この「肉中の哲学」なのであり、その講演での言葉を借りれば、「人間が世界を理解しようとするとき、自分の肉体の動きからの類推で考えることが根底にある」「肉体のメタファーを利用しなければ、人間はものを考えられない」ということである。そこから計見氏は「言葉が肉体性を失ってしまったことが、精神病の状態に至った大きな理由のように見える」「言葉が肉体の動きと結びつかなくなると、思考が運動性を失い、固定したものとなってしまいます。すると、生き生きとしたイメージが喚起されなくなりますから、現実感が喪失する」という方向で、自己の専門分野である精神科の問題へと議論を展開していく。そして、現在の臨床の現場、とくに看護の場で、「癒し」、「働きかけ」、「関わり」、「ふりかえり」などという体言止めのいやらしい言葉が氾濫していることをなげき、「支える」、「抱きかかえる」、「つかまえる」、「耳を傾ける」、「一歩踏み出す」「胸のうちを吐き出す」といった肉体の動きが見える動詞をなぜ使わないのかと論じていく。このシンポジウム記録の数ページに「肉体の哲学」のポイントは尽くされてしまっている。そこから得られるものを、内田樹橋本治の「わたしの体は頭がいい」路線にでも、三木成夫の「内臓とこころ」路線にでも、養老孟司の「脳化社会論」路線にでも、それぞれの関心領域と結びつけて、利用していけばいいのである。
 ところが「肉中の哲学」でおこなわれていることは、「肉体のメタファーを利用しなければ、人間はものを考えられない」ということを、最新の認知科学の成果によって厳密に証明していこうということなのである。しかし、厳密に証明するというやりかたは、どう考えても、「肉体のメタファーを利用してものを考える」ということことと相反してしまう。
 「肉体のメタファーを利用しなければ、人間はものを考えられない」のであれば、精神と肉体をまったく別個のものとしたデカルトが批判の対象となるのは当然であり、事実本書ではデカルト批判に多くのページが割かれている。そしてデカルト心身二元論が西洋思想のメインストリートにあることは間違いないから、本書は、「肉体を具有したマインドが西洋の思考に挑戦する」ということになる。
 しかし、そこで採用されているのは間違いなく西洋の思考法そのものなのである。認知科学の論文を読んだことはないが、Inroduction Materials and Methods Result Discussin Summery などという伝統的な西洋学術雑誌の形式に則って書かれているのではないだろうか? これはまさに客観性を保障する形式である。それなのに、本書で主張されているのが、<客観性などというのは存在しない>ということなのである。
 本書を読み通すことが困難である最大の原因は、あまりに瑣末な議論が煩わしいからである。何らかのメタファーによって腑に落ちるように理解してもらうことを期待した書き方ではなく、徹底した事実の列挙によって相手を説得論破していこうという書き方なのである。いうまでもなく事実による説得というのは、頭に働きかけるのである。体に働きかけるものではない。だから、本書を読んで、理屈としてはわかるけれども、芯からは納得できない感じが残ってしまう。
 なぜ著者らがそのような戦略をとらざるをえないかといえば、そうしなければ学問世界の競争で自分を主張できないからである。そして学問世界というのは、がちがちに西洋的思考に汚染されてしまっていることろなのである。
 本書で主張されていることはとても大事なことなのであるのだろうなということは、朧にはわかる。認知科学の啓蒙書でたとえば視覚認識のついての最新の知見を読むと、ただただ感嘆するような話がならんでいる。コンピュータによる画像処理などは児戯に類することがよくわかる。
 だったら、もう少しうまい書き方ができないものだろうか? 本書は野暮で野蛮なのである。言いたいことと、それを主張するやりかたが見事に相反している。本書にはアイロニーなどというものは微塵もなく、ひたすら真面目なのである。肉体というのはそんな真面目なものなのだろうか? 肉体は笑いなども必要とするものなのではないだろうか?


(2006年4月23日ホームページhttp://members.jcom.home.ne.jp/j-miyaza/より移植)

肉中の哲学―肉体を具有したマインドが西洋の思考に挑戦する

肉中の哲学―肉体を具有したマインドが西洋の思考に挑戦する