⑨ 村上龍「希望の国のエクソダス」

 加藤典洋氏の「小説の未来」(朝日新聞社 2004年1月)からそのまま引用すれば、「希望の国エクソダス」は「中学生の一団が、「現代日本」の中で反乱を起こし、北海道に新しい「希望の国」を作る話」である。エクソダスだから、革命ではなくて、脱出であり、日本の中に「解放区」をつくる話ということになる。
 その重要なきっかけが中学生の集団不登校なのだが、そこでおきる学校との衝突は、ふたたび加藤氏の文をそのまま引用すれば、「六〇年代後半の大学での全共闘運動のような感じ」ということになる。しかし「ぼくたちの敵は手強い。負けるとわかっているのに向かっていくのはバカだ。機動隊から逃げるのは恥じゃない。戦うというのはそういうことじゃない。」という醒めた中学生の運動であり、かれらは中学生を対象にするナマムギ通信というネット組織をつくり、その会員数を力に(このあたり最近 mixi が上場して凄い人気というを想起させる)経済力を得、さらにそれを基礎に、今度は情報操作による通貨操作で巨万を富を獲得し、それにより北海道に「希望の国」をつくるのである。
 この小説は1998年から2000年まで、「文藝春秋」に連載され、その当時に近未来である2001年から2002年が主な舞台となっている。小説では2002年ごろ日本はがたがたになり国家は破綻寸前となることになっている。その予想は外れたとしていいのであろうが、中学生たちがおこなうさまざまな活動は梅田望夫氏が「ウエブ進化論」でいう情報の持つ力を、結構いい線で先取りして提示しているように思う。
 この小説では、日本が破綻寸前になるのは、先例重視、対立回避、問題先送りという日本に長年染み付いた体質によるのであるが、その体質にがんじがらめになっているどうしようもない世代が全共闘世代なのである。しかし全共闘運動というのは当時の大学当局、あるいは教授会の先例重視、対立回避、問題先送りの体質に反撥したのではなかったか?
 村上龍は1952年生まれだから、わたくしより5歳くらい下である。年譜によれば高校3年の時(1969年)に学校をバリケード封鎖して無期謹慎処分になっている。このあたりは「69 Sixty nine」に面白おかしく描かれている。ちなみにその書き出しは以下の通り。

 一九六九年、この年、東京大学は入試を中止した。ビートルズホワイトアルバムイエローサブマリンアビーロードを発表し、ローリング・ストーンズは最高のシングル『ホンキー・トンク・ウイメン』をリリースし、髪の長い、ヒッピーと呼ばれる人々がいて、愛と平和を訴えていた。パリではドゴールが退陣した。ベトナムでは戦争が続いていた。女子高生はタンポンではなく生理綿を使用していた。

 橋本治は「ぼくたちの近代史」で、村上龍の処女作「限りなく透明に近いブルー」を、あれは完全に高校生べ平連ですね、といっている。そういう見方はほかからは出ていないように思う。橋本治の鋭さでありユニークさである。平凡なる読み手であるわたくしは「限りなく透明に近いブルー」から高校生べ平連といったものを想起するようなことはまったくなかった。ただ村上氏の小説が、氏が佐世保で育ち、福生にでてきたという経歴からくる、アメリカ基地の街で生きることから生まれた文学、江藤淳加藤典洋流にいえば、「アメリカの影」のもとで書かれた小説であることは、強く感じる。村上龍の文学は全共闘世代より少し下の世代のもつ既存社会への違和感を、もっともよく表明しているものなのかもしれない。
 「69」を書いていたころの村上龍の世界は単純であった。「楽しんで生きている人」と「死んだように生きている人」の二分法である。「あとがき」で言う。

 楽しんで生きないのは、罪なことだ。わたしは、高校時代にわたしを傷つけた教師のことを今でも忘れていない。
 数少ない例外の教師を除いて、彼らは本当に大切なものをわたしから奪おうとした。
 彼らは人間を家畜へと変える仕事を飽きず続ける「退屈」の象徴だった。
 そんな状況は、今でも変わっていないし、もっとひどくなっているはずだ。
 だが、いつの時代にあっても、教師や刑事という権力の手先は手強いものだ。
 彼らをただ殴っても結局こちらが損をすることになる。
 唯一の復しゅうの方法は、彼らより楽しく生きることだと思う。
 楽しく生きるためにはエネルギーがいる。
 戦いである。
 わたしはその戦いを今も続けている。
 退屈な連中に自分の笑い声を聞かせてやるための戦いは死ぬまで終わることがないだろう。

 村上龍の文学は反=退屈の文学なのであり、「みんな退屈していた。」(原本がなくうろ覚え。当然「してゐた」であろう)とはじまる三島由紀夫の「鏡子の家」を継いでいるのである。
 しかし「希望の国・・・」の中学生たちは「楽しんで生きている」ようには見えない。村上氏の二分法が変ったのである。「危機意識をもって生きている人」と「危機意識をもたずに生きている人」の二分法へと。「危機意識をもたずに楽しんでいきている人」はもはやダメなほうへ分類されてしまう。「希望の国・・・」の中学生たちは、日本で一番危機意識をもった世代として評価され、それと対照の位置にいるこの小説で50歳をこえるくらいである全共闘世代は、危機意識を持たず、自分の現在に安住しているが故に、ダメ人間として徹底的に軽蔑されるのである。
 だが、中学生たちは「欲望」を持たない。上記の言い方であればエネルギーがない。「つるんと」していてぎらぎらしていない。だから本当のところ、この中学生たちがなにを原動力として、通貨操作をしたりしているのかがよくわからない。何かゲームをしているような感覚に近い。中学生たちがわが身に感じている危機意識から行動していると説明されるのだが、それが今一つぴんとこない。サバイバルをするためというなら、さっさと日本をでて、危機意識があるところで生きればいいのにと思う。アフガンで生きるナマムギくんのように。ダメな日本を救うなどという余計なお世話をなぜするのか、それがよくわからない。
 それでは、全共闘運動というのは「危機意識」から発した運動だったのだろうか、それとも「死んだように生きるのではなく、もっと楽しく生きよう」という運動だったのだろうか? もちろん、いろいろな要素が混じっていたのではあろう。しかし、《人間を家畜へと変えようとする》社会への異議申し立てという性格は色濃くあったのだと思う。そして、その当時、《人間を家畜へと変えようとする》とするのは資本主義という制度であると思われていたが、本当は《日本の特殊な社会構造》に起因していたのではないかだろうか? 村上龍がその作品のバネとしてきた《共同体的なもの》《村社会的なもの》への嫌悪のほうが《反帝反スタ》などということより、ずっと正確に相手の的を射ていたのではないだろうか?
 既成社会の中にとりこまれていくことは「死んだように生きる」こととされたわけであるが、それにかわる「楽しく生きる」やりかたあるいは場としては、全共闘運動は「解放区」の中の祝祭空間しか発見できなかった。それが大学を出たあと、なし崩しに既成社会にとりこまれていく原因となったのではないか?
 全共闘運動は、大学組織や教授会がはからずも露呈した先例重視、対立回避、問題先送りという体質に徹底した反撥したわけであるが、マルクス主義的な色眼鏡で世界をみていたため、それが日本に特殊な《共同体的なもの》にかなりの程度に由来することを看過してしまい、それどころか解放区でのチャンバラごっこの中ではじめて友達を発見し、共同体的な中で生きる楽しささえ発見してしまったのではないだろうか? それが大学を出たあと企業社会という、まさに《共同体的なもの》の中にスムーズに溶け込んでいけた理由なのではないだろうか? 
 現代日本の一番の問題は共同体的なものをどう評価するかにかかっているように思う。グローバルスタンダードが問題になるのも、格差が問題になるのも、みなそこにかかわる。グローバルスタンダードは共同体を破壊し、格差も共同体を破壊するのである。
 日本の現状の歪みは、左の側がグローバリズム反対で、右の側が共同体破壊に走っているということである。左右の役割が入れ替わってしまっている。つまり、左が保守で、右が革新。もちろん、右の側も古きよき日本の家族制度といったものに郷愁を感じているひとも多いわけだから内実はぐちゃぐちゃであり、そのもとをたどると、アメリカに依存することを前提としている保守陣営という矛盾に突き当たる。アメリカンウエイ・オヴ・ライフとジャパニーズウエイ・オヴ・ライフは衝突するにきまっている。グローバリズムを推進しながら靖国参拝という小泉路線の矛盾である。もちろん、グローバリズムを推進するから、そのカウンターバランスとして靖国参拝をせざるとえないということなのであろうが。和魂洋才。
 昭和初期のサラリーマン社会は今よりずっと能力主義で、終身雇用などという制度はなかったといわれる。しかし故郷に帰って田畑を耕すという手は残されていたのである。高度成長期に故郷からどんどんと田畑が失われていくようになったので、会社が《故郷》のかわりにならざるをえなくなった。その会社までもが能力主義による機能集団化していくとするならば、もはや共同体はどこにも残っていないことになる。
 それで村上龍も弱気になる。

 正直にいうと今、少し混乱しているんです。つまりかつて僕はグローバリズムに対して、ある種の期待感を持っていました。旧来の日本のシステムの嫌な部分、村八分とか相互扶助とかいって、集団が個人を圧殺する構図が崩れるんじゃないかという期待です。
 ところが調べてみるとそう単純なことじゃない。グローバリズム、あるいは市場原理主義がいかに恐ろしいか、ということがだんだんわかってくるわけです。(中略)
 昔は失業者を吸収する共同体があったということなんですね。都市で失業したら田舎に帰って農業やればいい、あるいは町工場がある商店街がある、失業の受け皿、セーフティーネットがあった。(中略)
 村八分はあるし、差別はあるしで、僕は日本の村落的共同体って好きじゃなかったんだけれど、そういうものが日本を支えてきたことは認めざるをえない、そういう混乱です(笑)。(「『希望の国エクソダス』取材ノート」文藝春秋 2000年 金子勝氏との対談)

 全共闘運動が壊そうとして壊せなかったものを今グローバリズムが破壊しようとしているのだろうか? そして全共闘世代はかって自分たちが壊そうとしたものが、その中に入って生きて見ると決して悪いものとはいえないと思うようになり、むしろそれを擁護する側にまわろうとしているのだろうか?
 村上龍はかつて「コインロッカー・ベイビーズ」でも「愛と幻想のファシズム」でも日本を破壊しようとした。しかし、近年は、「希望の国エクソダス」でも「半島を出よ」でも日本を護る方向になってきている。村上龍の「愛国心」の源というのは何なのだろうか? 三島由紀夫は神風連のアナクロニズムグローバリズムに対抗しようとした。村上龍の小説を読むかぎりは日本にはいいところなど何もなくて、滅びてしまっても別にかまわないようにも読めるのだけれども。
 「思想としての全共闘世代」の背表紙に小阪修平氏の写真がある。なんだか「欲望」のあまりないような「エネルギー」の足りないようなイメージの人である。本に書かれたことからみても、生きることを楽しんできた人であるようには読めない。それが、その当時に「つかまれた」しまった全共闘運動の問題をづっと今日まで引きずってきている理由なのではないだろうか? 「ふりはらう」ためにもエネルギーがいるのである。結婚するのは簡単だが、離婚にはエネルギーがいるという話がある。若いときに、よくわからないままに気がついたら結婚してしまっていた相手と、なんとなく現在までずるずると来てしまった話が「思想としての全共闘世代」なのであるなどといったら、小阪氏は怒ると思うけれども。

希望の国のエクソダス

希望の国のエクソダス

『希望の国のエクソダス』取材ノート

『希望の国のエクソダス』取材ノート

69(シクスティナイン) (集英社文庫)

69(シクスティナイン) (集英社文庫)

小説の未来

小説の未来