梅田望夫「ウェブ時代をゆく −いかに働き、いかに学ぶか」 (2)希望の国

 
 村上龍氏の「希望の国エクソダス」は「一言で言うなら、中学生の一団が「現代日本」の中で反乱を起こし、北海道に新しい「希望の国」を作る話」(加藤典洋「小説の未来」朝日新聞社2004年)である。文春文庫の「文庫版あとがき」で村上氏は、なぜ中学生を主人公にしたのだろうと自問し、「シリコンバレーウォール街で活躍する日本人をヒーローにしたほうが自然だったかも知れない」といっている。
 中学生たちが反乱に利用するのが、インターネットでのメール配信サイトであり、それを利用して経済力と発言力を確保し、そのころ起こったとされる通貨危機に際してNHKの国会中継を乗っ取り、全国(そして世界)に自己の主張を発信し、そこからえた信用を利用して投機筋を撃退し、日本の経済危機を救い、それによる莫大な利益により北海道に「希望の国」をつくる、というのがおおよその筋である。
 この小説は最初、1998年から2000年にかけて「文藝春秋」誌に連載された。いわばおじさん雑誌に掲載されたわけである。既成社会で惰眠をむさぼる大人たちに「現代日本」はこういう問題を抱えているのだということを伝えようとしたのだと思われる。そういう点では梅田氏の「ウェブ進化論」とどこかで呼応するところがあるのかもしれない。もっとも梅田氏がアメリカ発の希望を発信するのに対して、村上氏は日本の現状の絶望を滔々と論じるのであるが。なにしろ「あの国(日本)には何もない、もはや死んだ国だ」というのであり、「この国には何でもある。本当にいろいろなものがあります。だが、希望だけがない」ということなのであるから。
 以下、乗っ取った国会中継での中学生代表ポンちゃんの演説からひろってみる。「生きていくために必要なものがとりあえずすべてそろっていて、それで希望だけがない、という国で、希望だけしかなかった頃とほとんど変わらない教育を受けている・・。学校では、どういう人間になればいいのかがわからなくなるばかりで、勉強しろ、いい高校に、いい大学に、いい会社の、いい職業に、ってバカみたいにそればっかり。幼稚園、小学校、中学校と進むうちに、いい学校に行っても、いい会社に行っても、それほどいいことがあるわけじゃないってことがよほどのバカじゃない限り、わかってくるわけで、それじゃその他にどういう選択肢があるかということは一切誰も教えてくれない。」 「ウェブ時代をゆく」はまさにこの選択肢の提示そのものであるようにも思える。もちろん、「13歳のハローワーク」もまた、その選択肢の提示のための本であったわけである。
 「希望の国・・」で描かれた中学生集団はどことなく本書で描かれたハッカーたちと似ているところがあるような気がする。もっともこの中学生たちは梅田氏が紹介するハッカーたちに較べて異様にクールなのだけれども。加藤典洋氏は「小説の未来」で描かれるこの異様にスマートな中学生集団の持つ弱点として、彼らの「つるんとした感じ」と彼らが作ろうとしている北海道の「希望の国」の余りに清潔なあり方を指摘する。この「つるんとした感じ」というのはいかにも文学的な表現であるが、たとえば「彼らには無駄なことの繰り返しの痕跡がない」というようなことである。村上氏は小説連載開始当初は、この中学生たちが他者への共感を欠くために失敗していくというストーリーを構想していたらしい。「つるんとした」というのは、秀才すぎるために頭が悪い人間のことが理解できないということかもしれない。「希望の国・・」の語り手で、1億大衆の代表というか冴えない中年男、35歳の週刊誌のフリー記者のテツは、小学校の下校の合図のドボルザークの家路をききながら、こんな感慨をもらす。「おれは悲しい気分になっていた。何か無駄な繰り返しが若い頃に必要だとか、そういう風には決して思わない。安心できるものに囲まれて暮らすほうが平凡だけど幸福なのだとも思わない。ただ確かなことがあるような気がした。それは、無駄なことの繰り返しはおれたちを安心させるということで、そのことが妙に悲しかったのだ。」
 北海道の「希望の国」は風力発電で運営されるまことにエコロジカルな情報都市として描かれている。本書で紹介されているグーグルという会社、食べ物、飲み物は無料で、ジム設備や洗濯機も完備、洗車、オイル交換、理髪、内科医診察まですべてただという信じられないような会社設備も、社員に仕事に没頭できる環境を提示しているということもあるかもしれないが、一種アメリカ的なマニアックな健康志向、ジョギングするアメリカ人というものをも連想させる。グーグルは(大迎にもと梅田氏は言っているが)「邪悪なことはせず、世界をより良き場所にする」というミッションを掲げているのだそうである。グーグル社内でタバコを喫うひとはいるのだろうか?、というようなことをちょっと考えた。
 あまりに清潔であることを文学者である加藤氏は欠点であると考える。そこで氏は「希望の国・・」の修正版として、こんな場面を夢想する。ある中学生がこういう。「この国(北海道の「希望の国」)には何でもある。希望もある。だが、欲望だけがない」 清潔さというのはどこか欲望と背馳するところがあり、欲望というのはどこかから邪悪を呼びよせてくるものであるように思う。
 村上氏は「『希望の国エクソダス』取材ノート」での金子勝氏との対談で、「正直いうと今、少し混乱しているんです。つまりかつて僕はグローバリズムに対して、ある種の期待感を持っていました。旧来の日本システムの嫌な部分、村八分とか相互扶助とかいって、集団が個人を圧殺する構図が崩れるんじゃないかという期待です。/ところが調べてみるとそう単純なことじゃない。グローバリズム、あるいは市場原理主義がいかに恐ろしいか、ということがだんだんわかってくるわけです。・・・/村八分はあるし、差別はあるしで、僕は日本の村落共同体って好きじゃなかったんだけど、そういうものが日本を支えてきたことは認めざるをえない、そういう混乱です(笑)」と、なんだかとても素直に語っている。
 当然、これは個と組織と公共の問題につながっていく。それについては稿をあらてめて考えてみたい。
 

13歳のハローワーク

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希望の国のエクソダス (文春文庫)

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小説の未来

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