ノーベル賞とイスラム国と希望の国

 
 日本人がノーベル賞をとったと沸いている。日本人はノーベル賞好きなのだそうだけれども、こういう騒ぎは世界中どこでも見られるのだろうか? わたくしはノーベル賞自体には関心がないけれども、受賞者の一人の中村氏が、「日本には研究の自由がない」というようなことを言っていることが報道されていたことは面白いと思った。氏は勤めていた会社と自身の発明の特許権を裁判で争い、嫌気がさして会社を辞め、アメリカにいったひとではなかったかと思う。日本の会社社会で自分の勤めている会社を訴えたりしたらまずアウトである。
 それとは別に日本人の大学生がイスラム国に参加しようとしていたことが報道されている。その情報によれば、このひとは日本の社会での価値観になじめず、まったく別の価値観があるように見えるところにいきたいと思っていたのだそうである。それで村上龍氏の「希望の国エクソダス」を思いだした。
 「希望の国・・・」では、主人公のひとりの中学生のナマムギくんがパキスタン国境のパシュトゥーン族のことを、「すべてがここにはある、生きる喜びのすべて、家族愛と友情と尊敬と誇り、そういったものがある」という。日本には何でもあるが、こういったもの、「家族愛と友情と尊敬と誇り」、要するに「生きる喜び」がないのである。「希望の国」の中学生たちは北海道に希望の国を作ろうとしたのであるが、この大学生はイスラム国に希望の国を見出したのだろうか? そこには「生きる喜び」があるのだろうか? 少なくとも「生きる理由」はある? あるいは「死ぬ理由」がある。
 日本ばかりでなく、西欧でもイスラム国に参加しようとする若者が少なからずいるらしい。西欧社会での生き方に何か息苦しさを感じ、それとは別の生き方が輝いてみえるという人たちがいるのであろう。最近の日本の若い人たちの一部が右寄りになってきているように見えるのも、その主張の旗の下に集まることによって、そこに「家族愛と友情と尊敬と誇り」の場が回復できると感じているのかもしれない。
 中村氏は典型的な「出る釘」のひとである。日本的共同体では極めて生きづらいであろうひとである。一方、イスラム国の大学生は就活に失敗して希望を失っていたというような話もある。就活とは日本的共同体への参画儀式のようなものである。日本では家族といった共同体をどんどんと破壊してきているから、もしも会社という最後の共同体をなくしてしまえば、どこにも所属する場がないひとがこれからどんどんとでてくることになる。グローバル化の進行で、終身雇用とか年功序列といったシステムは崩れていく方向であることは確実であろう。そうすると、イスラム国のようなところに「失われた共同体」を求めていくひとがこれからもでてくるかもしれない。そこでは、少なくとも「役割」はあたえられる。
 もう一つ思い出すのがオウム真理教である。あのようなカルトな宗教に高学歴の人が多く参加していたことに、当時、多くのひとがびっくりしていた。橋本治さん はオウム真理教のことを「生きがいを提供してくれる会社組織」といっていた。(「麻原彰晃の作った“会社”というのは、会社社会に適合できない人間達に対して、「君にもやりがいのある人生を!」と訴える、経営基盤がいたってあやふやないかがわしい会社だった。」)
 今の日本にいて生きがいも生きる喜びも感じられず、それでもそれがどこかから降ってくるようにあたえられることを望んでいるひとが増えてきているのかもしれない。そういうものはだれかからあたえられることを待つものではなく、自力で掴み取るものであることを戦後、知識人といわれるひとたちは一貫して啓蒙してきたのであると思うが、それが結局失敗に終わろうとしているのかもしれない。
 

希望の国のエクソダス (文春文庫)

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宗教なんかこわくない! (ちくま文庫)

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