27 補遺・その1 庄司薫「狼なんかこわくない」

 中公文庫 1973年文庫初版 2006年10月改版 1971年単行本初版


 わたくしは赤・黒・白・青の薫ちゃん4部作は刊行当時にリアルタイムに読んでいるが、庄司氏のエッセイは「バクの飼主をめざして」を2000年ごろ読んだだけで、この「狼なんかこわくない」は未読であった。今回改版が発行されたのを期に読んでみた(直接のきっかけは、坪内祐三氏が週刊誌で紹介していた記事を読んだことによる)。「ぼくが猫語を話せるわけ」はいまだに読んでいない。
 4部作の感想については以前書いているid:jmiyaza:20040330。この「狼なんかこわくない」は、基本的には庄司氏が20歳ごろ書き、第三回中央公論新人賞を受賞した「喪失」についての自作解説である。「赤頭巾ちゃん・・・」で芥川賞を受賞してから書いているので、10年位後に書いた自作解説ということになる。
 「喪失」はそれほど長い小説ではない。わたくしの持っている中央公論社の新版単行本(1970年)で60ページちょっとである。一方、「狼なんかこわくない」は今回入手した文庫本で約200ページである。「狼・・・」は「喪失」だけを論じたものではなく、「喪失」に収録された「蝶をちぎった男の話」「喪失」「封印は花やかに」3作の創作経緯と10年後に書いた「赤頭巾ちゃん・・・」との関係を縷々述べたものであるが、明らかに重点は「喪失」にある。実作の小説の3倍の量の解説を書いてしまうというのは異常である。つくづくと庄司氏は意識の人であると思う。庄司氏は他者が自分の小説の中に自分の意図していなかったことを読むことを許さないのである。「喪失」という小説はこう読まれるべきであるということを説きつづけて倦むことがない。
 書いてから10年後の解説であるので明らかに後知恵と思われる部分もあり、「喪失」は庄司氏がいうとおりに読まれなければならないことはないことはないわけであるが、「喪失」と「赤頭巾ちゃん・・・」がワンセットのものであるということが、本書で庄司氏が力説する点なのである。「喪失」という小説はそれだけであれば、早熟な文学青年の若書きである。過剰な自意識が自分を「喪失」させるという、よくある話の一つに過ぎない(それが非常に巧みに書かれているのではあるが)。一方「赤頭巾ちゃん・・・」はそれだけ読めば、何となくお目出度いお説教のようにも思える小説である。微温的な甘ちゃんの意見という見方がでてきても不思議はない。政治の季節の真っ只中に書かれたものとしてはいかにも軽い。でも自分は自意識の不毛ということもちゃんと押さえた上で書いているんだぜ、ということがあると「赤頭巾ちゃん・・・」にも含み味がでるというものである。ということで「赤頭巾ちゃん・・・」は山の手の世間知らずのお坊ちゃんの机上の空論ではないのだということが「狼・・・」の主張ということになる。
 この改版文庫版「狼・・・」には萩原延壽御厨貴という二人の政治学者による解説がついている(萩原氏のものは文庫版刊行時に書かれたもの、御厨氏のものは改版にさいし書かれたもの)。御厨氏のものは25ページにもわたる堂々たる解説であり、「狼・・・」は政治学のテキストとして読むことが可能であるといい(事実、氏は自身のゼミの課題として4部作を指定してことがあると書いている)、薫ちゃん4部作は60年代後半の全共闘運動を批判しかつ否定することを意図した著作であることを言っている。
 どうして4部作が全共闘運動批判になるのか? それにはまず「喪失」に戻らねばならない、という構造になっているのが厄介な点である。庄司氏によれば「喪失」は古典的青春論の批判である。氏は古典的青春論は「天賦人間らしさ説」といったものに依拠しているという。「天賦人間らしさ説」とは純粋さとか誠実さといった人間的な諸価値は「生まれながらに」天から授かったようなものであるとする視点をいう。要するに人間は生まれたときは純真無垢であるにもかかわらず、生きていくうちに段々と汚れていく、というような見方である。これはエデンの園から尭舜の世、ルソーの高貴なる野蛮人まで、広く見られるものであり、最近の言い方であればピンカーさんが口をきわめて攻撃している「blank slate」説、《心は「空白の石版」》説ということになる id:jmiyaza:20060423。ピンカーさんはそれは生物学的にみて事実とは異なると力説するわけであるが、庄司氏は「天賦人間らしさ説」が正しいとしたら、人間は生まれたときが最高であとは落ちる一方ということになり、人が生きる意味がなくなってしまうではないか、そういう見方は人が懸命に努力して生きることをあざ笑う退嬰的なものではないかという視点から、否定しようとする。
 Blank slate 説が対立するものは、通常は遺伝決定説である。われわれが遺伝で決定されているとすれば、努力しても無駄である。それではあまりにも悲惨ではないかというのが、遺伝決定説への反撥の根拠の一つとなっており、blank slete 説に根強い支持がある理由になっている。ところが庄司氏は反遺伝決定派の論拠を、そのまま反 blank slate の論拠にしてしまうのである。おそらく庄司氏が反対しようとしているのは、ルソーの高貴なる野蛮人説である。自然状態の人間は無私無欲で温和であるのであり、われわれが貪欲で不安であり暴力的であるのは文明がそうさせているのだ、という見方である。ルソーと対立するのはホッブスである。庄司氏は、おれはホッブス派であるといっているのである。「人間は、すべての人を畏怖させる共通の権力をもたずに生きるときは、戦争状態にあり、万人が万人に敵対する」と説くホッブズに与するのである。ルソー対ホッブスということになれば、政治学の基本である。御厨氏の言も又むべなるかなである。
 庄司氏は、われわれはリヴァイアサンを必要とする、という。しかし庄司氏のいうリヴァイアサンは恐ろしい海獣ではない。文明なのである。庄司氏のいっていることは、われわれは本来は野蛮な存在なのであり、それを文明によって飼いならさねばならない、ということである。庄司氏によれば、全共闘運動は反=文明の動きであり、野蛮へと逆行しようとするもであるが故に阻止せねばならないのである。
 ところで「喪失」で描かれているのは、若者がいかにいやったらしい存在であるか、純真無垢などということからいかに遠い存在であるかということだけなのである(わたくしにはそうとしか読めない)。生まれつき無垢などとはとんでもない。生まれたときから不純であるということである。
 そこで描かれているのは、自分のことは自分が一番知っているぞということの競争なのである。そこでもっとも恥ずかしいとされていることは、自分がある行為をした本当の原因を自分でも知らないうちに他から指摘されることなのである。お前はいいことをしたつもりでいるかもしれないが、お前は本当はこういう不純な動機でそれをしたのだと他から指摘されること、そういうことは決してあってはならないのであり、そうなれば負けであり、また他人にそういうことを指摘できれば相手に勝ち、優位に立てることになる。とすれば他人から指摘されてうろたえないためにはどうしたらいいか? それには自分のいやらしさ不純さを徹底的に検証しつくして、それをつねに自覚していればいいことになる。相手にいわれたって、そんなことはとっくに自分は知っているといえれば大丈夫である。しかし、それはとても不毛な努力である。自分がいかにどうしようもない人間であるかを検証していくことに全精力を注ぐなどというのはとても愚かしい努力である。そういう負のエネルギーをいかに正のエネルギーに換えていくか、それを「喪失」執筆のあとの10年、思索を続け、その一つの暫定的な解答として書いたのが「赤頭巾・・・」だったというのが「狼・・・」の主張するところである。
 庄司氏によれば、全共闘運動は、「天賦人間らしさ説」に依拠し、おのれの若さにひそむ負の側面におよそ目を配らない点において自己洞察を決定的に欠き、自己の行動の本当の動機が他者より優位に立ちたいということにあることに気がつきもしない点において、救いがたい鈍感さを示しているということになる。実も蓋もない言い方をしてしまえば、全共闘運動家はバカだなあ、勉強してないなあ、もっと本を読めよ、ということが言いたいのである。全共闘運動は、その鈍感さと不勉強の故に、文明という、あやういバランスの上でかろうじて成立しているフィクションを破壊してしまう可能性があり、そのあとにはただ廃墟を残すだけの反文明的な運動であるという論理である。
 それに対立するものとして主張するのが、簡単な思考を避けろ、安易は即断はするな、自分だけが正しいとは思うな、わからないことを恥ずかしいと思うな、多様性を尊重せよ、という民主主義擁護の論なのである。要するに、民主主義というのは文明の産物なのであり、われわれは文明を擁護せねばならないということである。ここまでくれば確かに政治論文である。
 ところで、《自分のことは自分が一番知っているぞ》ということが、「狼・・・」執筆の根本のモチーフとなっていることはすでに書いた。とすると「狼・・・」は氏のいう青春の不毛をそのまま反映したきわめて自己防衛的な本ということになる。、そしてこの防衛機構こそが三島由紀夫が一生をかけて護ろうとしたものであったということを主張しているのが、橋本治の「「三島由紀夫」とはなにものだったのか」である id:jmiyaza:20020204。
 それは近代知性の持主にしばしば訪れる心理機構であると橋本氏はいう。三島由紀夫もそして庄司薫もともに典型的な近代知性の人なのである。「喪失」が中央公論新人賞に選ばれたときの選考委員は三島由紀夫伊藤整武田泰淳であった。「赤頭巾ちゃん・・・」が芥川賞に選ばれたときの選考委員でありこれを強く推奨したのも三島由紀夫であった。
 橋本氏によれば、三島由紀夫はつねに堅固な自分の世界をつくって他者がそれに侵入することをゆるさない「塔の中の王子さま」である。護りたいのは自分の認識の正しさである。正しく認識することによって、人の上に立てる、という機構である。相手は自分を理解していないが、自分は相手を理解している、ということであれば、決して負けることはない。とすれば、三島由紀夫が一番恐れたものは、わけのわからないもの、おどろおどろしいものが自分の中に侵入してくることである。だから、一番恐れたものは恋愛であることになる。自分でも理解できない何かによって相手に一方的にひきつけられることくらい恐ろしい事態はない。最大の願望は自分が安全な場所にいることであって、恋により自分の絶対が脅かされることはあってはならないのである。「「三島由紀夫」とはなにものだったのか」は、なぜ三島由紀夫は恋愛ができなかったかの研究でもある。
 そのようにみてくると「赤頭巾ちゃん気をつけて」で主張される「逃げて逃げて逃げまくる」という生き方は意味深長である。「赤頭巾」では薫ちゃんは女の子の誘惑からも逃げまくる。そして薫くんは最後にこういう。「ぼくは海のような男になろう。あの大きなそしてやさしい海のような男に。そのなかでは、この由美のやつがなにも気をつかったり心配したり嵐を恐れたりなんかしないで、無邪気なお魚みたいに楽しく泳いだりはしゃいだり暴れたりできるような、そんな大きくて深くてやさしい海のような男になろう。・・・」 これは保護者の論である。相手より上にいるものの論である。ここでもまた自分が相手より優れていたいという構造が透けてみえる。これを東大法学部の論理といえば厭味に過ぎるであろうが、何の力も持たない薫くんがいうからいいのであって、これを財務省のキャリア官僚が口にしたら目もあてられないであろうことは間違いない。何しろ、薫くんの二人の兄貴はともに東大法学部であり、その兄貴たちがいうには、東大法学部というところは「みんなを幸福にするにはどうしたらいいかを考えている」のだそうである。これはもうなんともいやったらしい傲慢不遜な考えなのではあるまいか。自分が幸福になるではなくて、みんなを幸福にするなんてである。
 三島由紀夫は「大衆を嫌う王」であった、「討論 三島由紀夫vs.東大全共闘」での三島由紀夫はほとんど「我と共に立って戦おう」と民衆に呼びかける王であると、橋本治は揶揄している。最後の市ヶ谷でも、そんな呼びかけをしていたような気もする。三島由紀夫もまた、みんなの上にたたなければ気がすまない人であった。
 橋本氏によれば、近代知性は「一人の認識者に対して一つの世界」があるとする。そしてその認識者は相互に交わらずに孤独である。その認識者は世界のことを理解しているが故に主観的には世界の支配者なのであるが、客観的には世界の中のワン・ノヴ・ゼムなのであり、世界には人間の数だけ世界があるのだから、世界からは自分は必要とされない。
 全共闘運動のもった欠点、問題点というのは庄司氏の指摘通りなのでろう。しかし、それにもかかわらず、その当時、近代知性の行きかたにはある限界が見えてきていたのであり、それを突破する可能性を全共闘運動が垣間見せてくれたということはあるのかもしれない。また、小阪氏のようにそこに啓示を見たひとがでてきても不思議ではなかったのかもしれない。それは束の間の幻影であり、錯覚に過ぎなかったのであろう。しかし、全共闘運動が急速に衰微していったのは庄司氏らの批判によるのではない。そもそも知識人の論の力ないし影響というもの自体が、その後、急速に失われていったのであり、庄司氏の4部作以降の長い沈黙はそれによるものであろう。もう書くことに意味を見だせないのである。庄司氏は世の中を指導したい人なのである。そして小説により世の中を指導するという夢を幽かにでももてた最後の世代の人なのかもしれない。村上春樹は世の中を指導したいなどということは毛頭思っていないであろう。われわれの時代がわれわれに負わせている傷を深い場所で感じていくこと、しようとしているのはそれだけであろう。龍さんはちょっと違うかもしれないが。
 小説を書くということはわれわれの多様性を承認することと同義であると庄司氏はいう(クンデラも同じようなことをいっていたような気がする id:jmiyaza:20020128)。しかし、庄司氏の小説はそういう方向にはむかってはいかない。むしろマスを相手にしたきわめてメッセージ性の強いものである。だからこそ政治学者が解説を書くことになる。
 そのメッセージはいまだに有効であるのかということが問題となる。若いということが恐ろしい狼となりうることは、むしろ現在においてよりリアルになってきているのかもしれない。しかし、それが「大きくて深くてやさしい海のような男になろう」という方向では解決されないこともまた確かなように思える。
 庄司氏の小説が現在でも通用するかと問うことは、全共闘運動が残したものがなお今日的な意味を持つかと問うことにも通じるかもしれない。そしてそういうことを考えると68年〜69年という時代はまだ牧歌的な時代であったのだなあという感慨が浮かばないでもない。あの当時にはまだ可能性が信じられていたが、その後の30年ほどの間にだれも信じなくなってしまったものがたくさんあるような気がする。とすると小阪氏の本も古きよき時代への郷愁でもあるような気もしてくる。

狼なんかこわくない (中公文庫)

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