斎藤美奈子「文庫解説ワンダーランド」 片山杜秀「大学入試問題で読み解く 「超」世界史・日本史」 池澤夏樹「知の仕事術」

 

 斎藤美奈子さんは、わたくしから見るとフォミニズムの陣営のひとで、どうもフェミニストは敬遠したい思いがあるのだけれど、それでも本書を買ってきたのは庄司薫の「赤頭巾ちゃん気をつけて」が論じられていたからである。
 これは「なんとなく、知識人」という項で、田中康夫の「なんとなく、クリスタル」とともに「ン十年後の逆転劇に気をつけて」というサブタイトルのもとで論じられいる。
 さて中央公論版の「赤頭巾ちゃん・・」の解説は佐伯彰一氏が書いているのだそうであるが、斎藤氏は佐伯氏の解説が、この小説が「観念的、思想的な新現象」を述べた書であることを見落としているという。それを明るみに出したのは、2012年の新潮文庫版の政治学者刈部直氏による解説なのだという。そこでは冒頭から「これは戦いの小説である。あえてもっと言えば、知性の戦いの」と、高いテンションで宣言されているのだそうである。ただ刈部氏にそれが出来たのは、「赤頭巾ちゃん・・」が書かれた1968年から40年以上という時間がたっているからであるとして、出版されてからあまり時間がたっていないときに作品の表面の軽い調子をみて「ナメて」安易な解説などを書くと後で逆転をくらうことがあるから気をつけろ、というようなことを斎藤氏は言っている。
 わたくしは「赤頭巾ちゃん・・」を出版直後の1969年に読んでいる(斎藤氏は1968年に書かれたとしているが、間違いだと思う。この小説は1969年の東大入試中止が題材になっているので、1968年には書かれえない)。その当時わたくしは福田恆存にぞっこんであったので、この「赤頭巾ちゃん・・」を読んでてっきりその福田氏の思想を巧みに小説化したものと思い込んでしまった。その当時には小説というのは作家の思想を物語を通じて提示するものだと思い込んでいたのである。それで福田恆存の思想というのは「優しさ」とかに通じる何かのようなものと思い込んでいて、その当時の学生運動を見ていて、思想というのが他人を批判する(あるいは他人より上に立つ)ことをひたすら目指しているように思えて、そのいきかたの不毛を指摘している思想であると思っていた。薫くんのいう「逃げて逃げてにげまくる」というのもそういう方向と受け取ったのである。しばらくしてNHK教育テレビで「成人の日」の「大人になるとは?」といった討論番組があって、そこに福田恆存庄司薫もでていたので見ていたら、庄司氏が福田氏に論難されてたじたじになっているのを見て、あれれと思った記憶もある。
 いずれにしても、この「赤頭巾ちゃん・・」が庄司氏が自分の思想を表明する手段として小説という方法を採用していることは明らかであると思った。それで「薫ちゃん四部作」を政治論文として読むというような試みを以前ここでしたことがある。(2004年3月30日の記事) 庄司氏は小説についてはこの四部作で筆を折っているが、庄司氏にとってはそれは自分の思想表明の手段に過ぎなかったので、それを書いてしまえばである、小説というもの自体には興味が持てなかったのであろう。小説としては10年前に氏が本名の福田章二の名で書いた処女作の「喪失」で氏はもう書きたいものを書いてしまったはずである。
 この「赤頭巾ちゃん・・」を読んでしばらくしてから、わたくしの興味は福田恆存から吉田健一に移っていって、作者の思想を表明する手段としての小説というもの自体を否定的にみるようになって「赤頭巾ちゃん・・」という小説自体への興味は失われてしまったが、斎藤氏がいう「赤頭巾ちゃん・・」の主題「知識人/大衆という線引きが失効した時代に、自分は知識人としていかに生きていったらいいのか」という問題は必ずしも古びていないと思う。
 それで庄司薫の項に興味があって買ったのだが、柴田翔「されど われらが日々−」などの項も、村上龍の項も面白かった。「されど・・」は今読む人はいないだろうが、六全協がわからないなどという以前に作者の男女観の古色蒼然という点だけからもまったく読むに堪えないものだろうと思う。
  片山氏の本は何を読んでも面白いということで買ってきたのだが、「おわりに」にある片山氏の受験体験が面白かった。とにかく大学受験がいやで、推薦入学で入れる私立に入ることに全力を傾注したのだという。この方、小学校受験しかしていないらしい。幼稚園のときに小学校受験合宿にいった、と。その合宿の年1969年の4月に「沖縄反戦デー」の騒乱をまのあたりにして、個人史的には大きな経験だというから早熟なひとだったのだろうが、上記の「赤頭巾ちゃん・・」もそうだが、このころの受験というのはそれぞれのひとにいろいろな影響をあたえているのだろうと思う。自分のことを考えても、学者になるつもりはまったくないのになぜ大学にいくのかということがなかなか納得できない時があった。それで医学部受験を決めたときに少しほっとしたのを覚えている。医者になるためにはとにかく大学にいく必要があったからである。
  池澤夏樹氏はどうも進歩的文化人の香りがして好きではないのだが、「はじめに」に「反知性の時代の知性」とあったので読んでみようかと思った。これから世の中は「反知性」あるいは「反インテリ」という動向が続くのではないかと思うので、その中で堂々とこういうことを書くのはなかなかのものであると思う。(もともとアメリカは反知性の国であったのだと思うが、何だかそれが世界中に拡散していくような気がする。)
 わたくしが吉田健一にいかれてまずかったなと思うことの一つは、情報収集あるいは知識をえるための読書というのをしばらく馬鹿にしてしなくなったことで、それで渡部昇一さんの「知的生活の方法」などというのも、随分とタイトルだけみて読まないでいた。損をしたと思う。「知的生活? 何それ、ケッ!」と思ってしまったのである。
 この池澤氏の本、本人がつけたタイトルなのだろうか? 芸がない。「あとがき」に「パーソナルなことを書かない」などと書いているが、池澤氏の文章の一種の臭みというのは、自分というのが出すぎる点にあるのではないかとわたくしは思うのだが・・。