読んできた本(3)

 一浪して大学に入る前後に読んだ本については記憶が混乱していて、前後関係がはっきりしないところが多いが、おそらく大学に入ってすぐに読んだのが、江藤淳の「成熟と喪失」であったのだと思う。
 大学に入ったのが昭和41年(1966年)で刊行も同年、おそらく氏の「夏目漱石」や「小林秀雄」などを読んできた延長として手に取ったのではないかと思う。
 「成熟と喪失」は、小島信夫安岡章太郎吉行淳之介庄野潤三などのいわゆる「第三の新人」達を論じたもので、江藤氏は小島信夫庄野潤三を評価していたのだが、わたくしは吉行にいかれてしまった。
吉行の小説の主人公は、中学時代読んだ「風と共に去りぬ」のレット・バトラーや後年読んだ三島由紀夫の主人公たちなどとも共通する、橋本治が「「三島由紀夫」とはなにものだったのか」でいった「塔の中の王子様」である。
とは言っても、レット・バトラーは「塔の中の王子様」ではない。塔からは出ている。ただ、スカーレットにはレットという人間が全く理解できないのに対し、レットにはスカーレットという人間が全部解ってしまう。そういう非対称性にあこがれたのだろうと思う。
他人が自分の内面にずかずかと入り込んでくるのが嫌、だから。そんなことが起きないように「鍵のかかる部屋」にこもって本でも読んでいたい。吉行の小説でも主人公と娼婦との関係はそのようなものであると思う。

などとグダグダと吉行あたりの本を読んでいる内に事件がおきた。まあ事件などというのは大袈裟なのだけれど。

 1966年大学入学だから、日本に限らず世界が燃えた1968年の2年前、当然、日共系、反日共系の学園闘争が周囲でも渦巻いていた。
 当時、反日共系のスターは吉本隆明で、それでおそらく、その「自立の思想的拠点」を読んでみたのだと思う。この本は昭和41年の初版だが、わたくしが持っているのは第五刷 昭和42年11月10日発行のものである。ということは教養課程2年の後半であるはずである。なにしろ、「プロレタリアート」とか「階級」とか「マルクス主義」とか「ルカーチがどうたらこうたら」といった生硬な言葉がてんこ盛りの本である。
 啖呵を切ったり、喧嘩を売るのがうまい人だなとは思ったが、内容は少しも理解できないし、感心もしなかった。
しかし、その中の「情況とは何か Ⅳ」というのに、こちらの陣営には碌なやつはいないが、敵の陣営にはまともな奴もいるとして江藤淳福田恆存の名前が挙げられていた。
 江藤の本はすでに読んでいたので特に驚かなったが、福田については心底驚いた。「紀元節復活運動」などというアホなことをやっている貧相なおじさんとばかり思っていたからである。
 しかし、そこで薦められていた福田の「芸術とは何か」や「人間・この劇的なるもの」を読んですっかり頭をどやしつけられてしまった。
 今から思うとカトリック的な世界観というか宇宙観というのに初めて接してびっくりしたということなのだろうと思う。福田にいかれたあまり通った、「福田恆存評論集」がおいてあった渋谷の大盛堂書店の棚もありありと思いだせるくらいである。レジの左側の中段の棚。
 そして同じ福田の「チェーホフ」にもいかれた。
 「これでチェーホフが敵としていたものの正体が明らかになった。なんぢの敵を愛せよ、なんぢ自身の徳を完成するためにーひとたびこの矛盾に気づくや、チェーホフの心は執拗にその矛盾を固執した。」「問題はチェーホフの性格にある。彼には絶対他人を裁けないのだ」。

 福田恆存は「鉢の木会」という作家の親睦会?にも属していて、そこには大岡昇平三島由紀夫吉田健一なども参加していていた。それで、それらの作家も読むようになった。
 という流れで吉田健一も読むようになり、ついにはそれに帰依するようになった。
 しかし福田の場合と違い、脳天をどやしつけられるのではなく、じわじわと説得されるという経過だった。
 その頃刊行されていた原書房版の「吉田健一全集」は後年の「ヨーロッパの世紀末」以降の著作とは異なり、新聞などに連載されたエッセイなども多くおさめられていた。
 もちろん、「英国の文学」「東西文学論」「英国の文学の横道」「英国の近代文学」「三文紳士」「酒宴」「文学概論」などの早期の代表作は網羅されていたのだが、そこに氏の代表作の一つである「文学の楽み」が欠けている。どういうわけか本棚には第7巻が欠落している。そこにおさめられていたのだろうか? ということで「文学の楽み」はかなり後でよむことになった。
 「英国の文学」も面白かったが(まず、英国の気候から説き起こすところ(「真夏の世の夢」の真夏とは6月を指すとか 有名なソネットのshall I compare thee to a summer’s dayの夏も同じ、とか)、要するに、文学は頭で読むのではなく、体全体で読むという方向を初めて教えられた。文学は思想伝達の手段ではなく、もっと豊かで広い世界を伝えるもので、とすれば、文学の究極は詩であるというようなことである。
  とはいっても、この頃面白がって読んでいたのは、エッセイ集のほうで、例えば「乞食王子」の所収の「傍観者」。そこでの王子様の演説。「えー、本日、この記念式典に臨みまして、・・・甚だ欣快と致す所、・・・申すまでもなく、製糖事業は、・・・爾来十余年、・・・ここにお集まりなりました皆様も、・・・一言述べさせて戴いた次第であります。・・・」 今読みかえしてみたら、「鴎外が、女というものは行動を起すと、眼隠しで道の両側が見えなくさせられた馬車馬のやうに一直線に進む」という一節もあった。今ならなかなか書くのに勇気がいるかもしれない。
 吉田氏の翻訳にも随分と楽しませてもらったが、特にウォーのもの「ブライズヘッドふたたび」「ピンフォールドの試練」「「黒いいたずら」など。
 「黒いいたずら」には「黒んぼの牝」ななどという言葉も出てくるので、現在では廃刊になっているのではないだろうか? この原題は「Black Mischief」で、要するに「黄禍」に対する「黒禍」。それを「黒いいたずら」と訳すところも吉田氏ならではで、氏はこの小説の大きな特徴が雅(elegance)ということにあるといっている。
 この実に面白い優雅な小説を今の読者が読めないとしたら本当にお気の毒である。原著なら読めるのだろうか?と思い、今アマゾンでみてみたら、原著は入手可能なようである。
 この頃の氏の文章は、晩年のものに比べれば、句点がしっかりと打ってあって読みやすい。

 さて、教養課程の2年が終わるころ、本郷では例年、インターン制度廃止のためのストと称する授業ボイコットを数年前から年度末に行っており、先輩が来て「お前らもストに参加するんだぞ」というので、唯々諾々とそのストというものに参加することになった。
 例年、このストというのは、5月から6月には解除されており、わたくしは、これは年度末の試験をレポートに変えさせるという密かな目的もあったのではないかと勘繰っているのだが、期末試験がレポートになるのは有難いし、どうせ数か月で解除されるのだからということで何も考えずに、ストにはいった。それが東大闘争(紛争)として翌年まで続くことになるなどとは夢にも思わなかった。
 ということで、1年を超えるモラトリアムが始まることになった。「魔の山」に登ったまま、そのまま閉じ込められてしまったようなものである。
 この1年くらい沢山の本を読んだことは後にも先にもないと思う。