読んできた本(4)

 
 例年、大体3月には終わっていた医師研修制度反対ストライキが4月になっても終結せず、例年より長引いていたが、それでももう1~2月で終わるだろうと多寡を括って、4月からアテネ・フランセに通いだしたりした。(これは半年ほどで挫折した。もう10月頃には周囲がとてものんびり語学を学ぶという雰囲気ではなくなってきたからであるが、もう2年くらい続けていれば、自分にとってある程度使える唯一の外国語にフランス語がなっていたかもしれないと思うといささか残念である。)

 さてこの1年間くらいいろいろな本を読んだことはなくて、当然どの本をいつ読んだという記憶もはっきりしない。福田恆存とか吉田健一とかを中心に読んだのだと思うが、チェーホフ全集とかフロベール全集とかも書棚にあるから、そういった本もそのころ読んだのではないかと思う。チェーホフ福田恆存経由だと思うがフロベール中村光夫経由であろう。しかし、今書棚にある中村の本は、「人と狼」「汽笛一声」「パリ繁盛記」「雲をたがやす男」といった後期の戯曲が中心で、あと「戦争まで」といったフランス留学記も面白かったが、反=私小説の闘士としての中村光夫の本はあまり見当たらない。
 しかし、考えてみれば中村光夫も、福田恆存も、吉田健一も皆、反=私小説派であるわけで、その頃わたくしの周囲に吹き荒れていた《政治》運動といわれていたものは(共産党の下部組織である「民青」系の運動を除けば)実は政治運動ではなく、きわめて文学的な運動、徹底的に自分にこだわり、自分はかくあるべき存在であるか?を問い続ける、ほとんど宗教運動に近いともいえるような動きであるとわたくしは感じていた。したがって、ものを考えることをいやでも強いられた1968年前後の政治の季節を潜り抜けた人の中から加藤典洋さんや鹿島茂さんや糸井重里さんのような人たちが出て来たのも当然であると思う。吉本隆明氏のその後の変貌そのものが、全共闘運動がどのようなものであったかを如実に示しているようい思う。
その当時の自分としては、福田恆存中村光夫吉田健一を読むことが、周囲でおきていたことを自分なりの目で見るためにどうしても必要であったのだろうと思う。
 「いふまでもなく、トルストイドストエフスキーとの偉大はその原罪意識にさゝへられてゐる。チェーホフにはそれがないーかれは生れながらにして無我の善人であり、生れながらにして教養人であり、生れながらにして野生を欠いてゐた。といふことは、歴史と伝統とをもたなかつたといふことであり、階級のそとにあつたといふことにほかならぬ・・・」(福田恆存チェーホフ」)
 こういう言葉で1986年前後の疾風怒濤の時代を乗り切れると思っていたのが今から思うと微笑ましいが。当時は真剣にそれが可能と思っていた。

 そうこうしているうちにまた事件がおきた。1969年8月に刊行された庄司薫の「赤頭巾ちゃん気をつけて」である。これが頭をどやしつけられるように読んだ最後の本であると思う。
 1969年8月といえば、医学部での授業が再開されてまだ二ヶ月くらいで、授業を受けていても、授業粉砕!を叫んでヘルメットを被ってゲバ棒を持った人達が乗り込んでくるという状況で、まだまだ紛争(闘争)の熱気は沈静していない時期である。
 この小説は安田講堂封鎖解除とそれを受けての東大入試中止を背景として書かれている。主人公はその入試中止に遭遇した日比谷高校生の薫くんで、その当時の日比谷高校のいやったらしさを背景に(わたくしも麻布にいたので、そのいやったらしさというのはある程度は理解できるが、その当時、もっともいやったらしい高校といえば、筑波大付属高だったのではないかと思っている。付属駒場がその次?)
 都会対田舎、文明対野蛮という観点から、当時の混乱を二十歳前の若者の薫くんの目を通して描くというものだが、あろうことか、「赤頭巾ちゃん・・」を福田恆存の思想の小説化だと思ったのである。
とにかく、こういう手もあったのかと心底驚いた。今から思うとなぜそう思ったのかよく分からないところもあるが、とにかく当時はそう思っていたのだから仕方がない。
 庄司薫の著作については、「赤頭巾」以前に本名の福田章二名で書いた「喪失」を含め、ほぼすべてを読んでいると思うが、そこから受けたショックはとても大きかったようで、このブログでも繰り返し庄司薫の名前が出てきている。その中で一番まとまったものは、2004年3月30日のブログであるようである。もし興味があればお読みいただければ。