新潮社版「福田恆存評論集」

 
 昭和41年から42年にかけて新潮社から刊行された。全7巻の評論集である。グリーンと白のツウトーンカラーのなかなか洒落た造本である。簡易な函入り。
 福田氏の本を読みだしたきっかけははっきりしていて、すでに書いたと思うけれど、吉本隆明氏のたしか「自立の思想的拠点」のなかの文に、味方の陣営には碌な思想家がいないが、敵の側にはまともなのがいる、として江藤淳氏と福田氏の名前を挙げているのを読んだことによる。それまで福田氏については紀元節復活運動などというあほなことをしている痩せて貧相なおじさんという印象だけがあったので、吉本氏がそういうひとを誉めているのが解せなかった。それで読んでみることにした。読んだのが教養学部の時であるのが確かなのは、買ったのが渋谷の大盛堂だったことをはっきり記憶しているからである。レジのすぐ横の棚の割合と低い方に置かれていた。
 一読して、打ちのめされた。今にして思えば、初めて読んだ思想家らしい思想家であったわけで、単に思想というものにはじめてであった衝撃だけであったのかもしれないが、そのころわたくしの周囲に渦巻いていた学生運動というものについて、それが何か変であると感じていたにもかかわらず、そのどこがおかしいのかうまく言葉にできないでいたのを、実に上手に、まるで手品か魔法のように明晰に説明してくれているのに、ただただ感嘆した。いわゆる進歩的文化人がいかに嫌らしく醜く、かつまた反権力を標榜しながらもその実、屈折した権力志向をもっているかということを細大漏らさずに教えてもらった。その教えが効きすぎて、丸山真男氏の本などは読まずに馬鹿にするようになった。これはあとから考えると大変にまずいことであった。吉本氏もいうように「敵」の側にもまともなひとはいるのである。要するにまともなひととそうでないひとがいるというだけの当たり前のことなのだが、そのことに気づくのには、残念ながら、相当の時間を要した。。
 福田氏の属した「鉢の木会」のメンバーの本もまた読むようになり、それで吉田健一三島由紀夫大岡昇平中村光夫といったひとたちの作も読むようになった。時間がたつうちに、三島氏と吉田氏が残っていき、やがて福田氏への酔いも少しづつ醒めていった。さらに三島氏がああいう死に方をしたので、三島氏にもだんだんと距離をおくようになり、吉田氏だけが残ることになった。
 なんで福田氏への熱が醒めていったのか? 結局、福田氏のいう「全体」あるいは「自分を超えるもの」というのは嘘なのだと思うようになったからなのだと思う。どこかで福田氏は自分は「カトリック無免許運転」なのだというようなことをいっていたが、人間は個として存在している限りは不幸なのであり、「自分を超える何か」に帰属しているという感覚を持てるようになったとき、はじめてそれを脱することができる、というのは実に魅力的で蠱惑的なレトリックではあるのだが、嘘なのである。わたくしが勝手に「カトリックの詐術」と名づけているこういう論法は、その気になってみるといたることろに存在しているように思うが(保守の論理の一つの典型でもある)、結局は、人間は神によって魂を授けられた他の動物とはまったく隔絶された霊的である存在なのだという見方の上にはじめて成立するものなのだから、カトリック的な世界観を裏から導入してきてしまう。
 福田氏が直接「神」を口にしたわけではない。シェイクピアの劇にある宇宙的な秩序感覚であるとか、「歴史的仮名使い」論で主張される文化の連続性の感覚、あるいは建国記念日では何の意味もなくて紀元節でなくてはいけないとする合理的思考への軽侮など、つねに外堀から論じてきて本丸については論じることを忌避していたが、それでもそこに浮かんでくるものは西欧的な「神」に通じる何かなのである。
 福田氏のかついだ神輿は、いうまでもなくロレンスであるし、そのロレンスを、もしも長生きしていたらカトリックにいったであろうと福田氏はいっていたが、福田氏と一番近いとわたくしに感じさせるひとはT・S・エリオットである。「カクテル・パーティ」とか「長老政治家」などのエリオットである。そしてわたくしが福田氏やエリオットに感じる素朴な疑問は、この人たちは本当に文学が好きだったのかなあというものである。これは小林秀雄氏などにも感じる。まちがいなく彼らは「文学者」いわれる存在なのであろうが、文学作品をただ文学として享受するのではなく、倫理的なものを提示している何かとして議論するというのはどこかおかしいのではないだろうか。それに対して、吉田健一氏はもう文学が文学としてただもう好きであったひとであり、そのほうが本物なのである、というようなことを考えるようになったのは、しかし、大分時間がたってからのことだった。一時はただもう福田氏の論にいかれたものだった。少し、引いてみる。
 

 『チャタレイ夫人の恋人』がわいせつだつて? − 冗談もいゝかげんにしたまへ。あのなかでロレンスが説きたかつた福音はかんたんなことだ。男は女にとつて、女は男にとつて、魅力ある生物になれ − たゞそれだけなんだよ。いゝ教へじやないか。従ひ甲斐のある教へじやないか。愛や誠実とちがつて、こいつは自分も相手も苦しめずにすむ。きみだつて魅力のある男になつて、女から騒がれたいだらう。だれだつてさうさ。人間が愛や正義や法律や論理を動員して、自他を縛らうと決心したのは、つまり男が女に、女が男に魅力を失ひかけたといふ事実を自覚したからなんだ。性の魅力の恢復 − 人間の幸福はそれだけさ、とロレンスはいつてゐるんだよ。ほかのものは全部その装飾さ。それがどうやら逆になつて、現在では性のはうが装飾になつてしまつた。しかもひとびとはその無理に気づかない。で、不満の理由をいつしようけんめい他に求めてゐる。そしてそれが文明といふことだと思ひこんでゐる。

 が、ほかでもない、チェーホフはさういふ思考法に − いはゞ西欧の近代精神に一矢をむくいてゐるのである。原罪の悪を仮説としなければ偉大と栄誉を獲得できないヒューマニズムとはなにものであるか、稚児のごとき無我の純粋な人間が天才や偉人や賢者よりも尊ばれぬ世界、あまつさへ嘲笑と軽侮とにあまんじなければならぬ世界、それが存在するかぎり、芸術も科学もよくなりはしない、さういふ世界が存在するかぎり純粋な魂は孤独のうちにじつと「たへしのぶ」ことよりほかに道はないのだ。

 前が「ふたゝびロレンスについて」、後が「チェーホフ」。ともに「評論集 2」所収。よく調べたわけではないが、前者は後年の文藝春秋版「福田恆存全集」には収載されていないように思う。ちょっと調子が高い文なので、気恥ずかしくなったのであろうか?