福田逸「父・福田恆存」

 

父・福田恆存

父・福田恆存

 この本を買ってきたのは、わたくしが最初に決定的な影響を受けた文筆家が福田恆存であること、本屋で目次をみたら「鉢の木会」についての文章が相当部分を占めていたことなどによる。最初福田恆存にいかれ、その文学仲間の集まりである「鉢の木会」の中村光夫大岡昇平吉田健一三島由紀夫なども読むようになったというのがわたくしの20歳台の読書の大きな一つの流れになった(他には村上陽一郎氏を出発点とする科学論、科学哲学の方向・・最終的にはポパーにたどり着いたが、後から考えるとポストモダン思想との最初の遭遇、また医学部で講義される医学というものにどうにもないめないものを感じたことを発端にして読むようになった医療論や医学論の本・・養老孟司さんの本など随分と読んだ・・などであろうか)。この流れは最終的には吉田健一でとまったのだが(吉川逸治、神西清はほとんど読んでいない・・神西氏のチェホフの翻訳は随分と読んだが)、吉田健一とチャタレー裁判のかかわりにも関心があって、その話も収載されているようであったのも買ってみることにした一つの理由である。文言もうろ覚えであるが、吉田健一がチャタレー裁判に証人として出て、「猥褻とは他人の情事をあげつらう態度をいう」といった趣旨のことを述べたという話をどこかで読んだことがある。最近の日本はとんでもなく猥褻な国になっている。
 一般的に有名人の身内が書いた本というのはどうも苦手である。吉田健一のお嬢さんが書いた吉田暁子「父・吉田健一」(これはひたすら父親礼賛の本)も、本書(父親との葛藤を書きたいらしいが、基本的にはこれまた父親礼賛である。そもそもが歴史的仮名遣いで書かれている)も、父親というお釈迦様の手のひらの中での話という印象が否めない。本書もざっと目を通した限りでは、何か新しいことを教えらえる部分はあまりないように感じた。最後のほうは福田恆存が主宰した劇団「雲」とか「欅」の話が中心になっている(逸氏もまたこの劇団運営に深くかかわったらしい)。福田氏に入れ込んでいた時期に福田氏の劇を一つだけみたことがある。劇団欅の「億万長者夫人」だったと記憶する。これが何とも悲惨なもので、基本的にお金をとれるレベルではないと感じた。学芸会に毛の生えたというか喜劇のはずなのに客席から一向に笑い声がきこえないのである。これを観たことが、福田氏のしていることに疑問を感じるようになった一つのきっかけとなった。福田恆存の書いたものは「芸術とはなにか」も「人間・この劇的なるもの」も、あるいは「平和論に対する疑問」あるいは「常識に還れ」にしても後に残るのではないかと思うが(一番残るのは「私の国語教室」であろうか? あるいはロレンスの黙示録論の翻訳?)、氏が心血を注いだであろう「雲」とか「欅」とかの運動は後には何も残さなかったのではないかと思う。
 福田恆存というひとは一番の根っこはカトリックの人であったのだろうと思う。演劇を通じて、何かカトリック的な全体感覚といったものを伝えたかったのだろうと思う。T・S・エリオットの「カクテル・パーティ」のようなものを目指したかったのであろう。しかし氏はついに「カトリック無免許運転」で終わった人で、カトリック教徒になることは最後までなかった。それがチェスタトンのような強さを最後まで持てなかった理由なのだろうと思う。
 そしてその息子さんといえば、カトリック的な方向にはまったく縁がなさそうなひとで、それが描く福田恆存像はとても暗いし、どこにでもいそうな平凡な一個人である。著者はほぼわたくしと同じくらいの年齢のかたで、明治大学教授とあるが、この本が初めての単著単行本なのだそうである。長らく学問の世界にいて、書くことが父親のことしかないというのもよくわからないことである。