二つの正直

 「論語子路篇、十八」に以下のような有名な(だろうと思う)一節がある。

 葉公が孔子に自慢気に話しかけてこう言った。
 わたしの村に正直者の躬と呼ばれる男がいます。なぜそう呼ばれるのかというと、どこからか迷いこんで来た羊を躬の父親が自分のものにしてしまったのを、子でありながら、父が盗んだと証言したからです。
 それに対して、孔子がこう言った、
 わたしの村の正直者はいまの話とは違うのです。
 父は子のためにその罪を隠し、子は父のためにその罪を隠します。それこそがわが村での正直ということなのです。
 隠すということは、一見すると不正直のようにみえるかもしれません。しかしこれが父子の間の情愛の自然というものであって、その互いに隠しあうということの中にこそ正直ということの本当が備わっているのです。

 有名といってもわたくしがこれを知ったのはもう五十歳をとうに過ぎての頃で、渡辺昇一さんの本でであったと思う(「正義の時代」文藝春秋社 1977年 のな中の「公的信義と私的信義」)。
 最近の自民党の新潟でのごたごたとか、あるいは日大の騒動を見ていると、今から2500年ほど前の中国の文人のこの言葉を思い出す。
 身内の恥を外に晒さない、ということを組織人として当然の弁えと考えるか? そんなのは前近代の話であって、もはや現代では通用しないと考えるか、である。
 山本七平氏は「日本では、会社という機能集団はある規模にまで大きくなると必ず共同体化していく、あるいは共同体化に成功しないと存続できなくなる」といっていた。
 日本のかなりの問題は「会社という機能集団はある規模にまで大きくなると必ず共同体化していく」ということに根ざしているのではないかと思う。これは会社にだけみられる問題ではなく、ある程度の規模の組織では常にみられることではないだろうか?
 現在、労働の形態について「日本に固有の「メンバーシップ型」雇用から世界標準の「ジョブ型」雇用への転換」ということが議論されているが、「日本では、会社という機能集団はある規模にまで大きくなると必ず共同体化していく」という問題を抜きに議論をしても、実のある議論にはならないのではないかと思う。
 そして、自分のことを考えてみても孔子様の論のほうが葉公さんの議論よりずっと情味があるように感じる。
 葉公さんの議論は、中華人民共和国のほうへと引き継がれているのではないだろうか?