岩田健太郎「新型コロナウイルスの真実」(4)

 第三章「ダイヤモンド・プリンセスで起こっていたこと」は約60ページあり、本書で一番多くの紙数が割かれており、岩田氏がもっともいいたかった部分であろうと思われる。そしてそこでいわれるダイヤモンド・プリンセス号でおきていたことには、日本が持つある根源的な欠陥が露呈していると岩田氏は考えるが故に、続く第4章は「新型コロナウイルスで日本社会は変われるか」と題されることになる。
 わたくしのような感染症の公衆衛生学的側面にきわめて疎い人間にとっては、今回の新型コロナウイルス感染症につて、おれが何かただならぬもののようだなと感じるきっかけになったのは、一つは武漢の閉鎖であり、もう一つがダイヤモンド・プリンセス号での感染の急速な拡大の報道ではなかったかと思う。
後者はクルーズ船という閉鎖された空間での出来事であるから、素人からみればきわめて監視が容易で感染拡大防止対策がやりやすい状況であるように思えたからである。そして専門家が多数投入されているにもかかわらず、まさにあれよあれよという感じで感染が拡大していく報道をみて、わたくしなどは、このウイルスは空気感染をするのだろうか?などというまことにお粗末なことを考えていた。
 以下、岩田氏の主張を見ていく。
 2020年1月25日に香港でダイヤモンド・プリンセス号を下船した乗客の中から新型コロナウイルス感染者がみつかった。そのクルーズ船には3000人以上の乗客が乗っていた。当初、国は「とりあえず横浜港に停泊させて調べましょう」というくらいの軽い思いで多寡をくくっていた。ところが、横浜港で乗客数十人のPCR検査をしてみたら、なんとそのうちの10名から陽性の反応がでた。政府はそれで驚いた。
実は、クルーズ船は感染症に弱いというのは感染症の専門家の間では昔からの常識であったのだそうである。
しかし日本の官僚はそれを知らなかったから、「感染者は一人なのか、それなら大きな事ではない」と甘くみた。ところが案に相違して、感染者が多数見つかったので、厚生労働省はあわてた。それでDMATを呼んだ。これは災害派遣医療チームのことで、災害時のリスクマネジメントを専門としている部隊である。(もっとも、厚生省の直接の管轄下にいる医師団はDMATしかなったから、それを送るしかなかったということもいわれている。)
 一方、アメリカでは最初からCDC(疾病予防管理センター)を動かした。だから、専門家集団としてのCDCアメリカに寄港したロイヤル・プリンセス号から乗客をさっさと下船させた。
 厚生省の管轄下にはFETPという感染症の現状分析のプロもいるが、彼らは臨床の専門家ではなく、一時、ダイヤモンド・プリンセスに入りはしたのだが、すぐに出ていってしまっている。
 DMATは救急医療の専門家ではあっても感染症のプロではない。船内では厚生省とDMAT、さらにDPATという精神科の専門家集団までが配置された。
しかし、感染は拡大する一方である。そこで厚生省は日本環境感染学会を招集した。はじめて感染症の専門家が登場することになった。彼らはレッドゾーンとグリーンゾーンを分け防護服の正しい着脱法などを指導した。しかし、彼らも「もう船内には入らない」といって、三日で退去してしまった。自分たちの本来の職場が多忙になってきたからというのがいわれている理由であるが、こんな感染リスクが高いところにはこわくていられないというのが本当の理由だったのではないかと岩田氏は推測している。
 その後は国際医療福祉大学の専門家が入れ替わり立ち代わりはいって、さまざまな問題の指摘をしている。しかし、彼らには対策を命令する権限が与えられていなかったので、抜本底な改善をすることができなかった。
 ここまでのさまざまな専門家の出入りは、厚生労働省的にいえば、専門家がつねに配置されていたということになる。しかし、二次感染がどんどんとひろがっていたのであるから、岩田氏にいわせれば、形式だけはととのっていても内実がまったくともなっていなかったということになる。
 このように、ダイヤモンド・プリンセス号で感染がどんどんと拡大していたにもかかわらず、その情報は表にはでず、その解析も表にはでてこなかった。それを不安に感じた岩田氏はファイスブックにダイヤモンド・プリンセス号の中に入りたいと何度も書いた
 (それを見て?)厚生省の高山義浩氏から連絡があった。高山氏も対策本部が船内にあるのはおかしい。船外に本部を出すべきであると考えていた。
日本環境感染症学会の一員でもある岩田氏ははじめその会員として船内に入ることを考えたが、日本環境感染症学会はもう船内には入らないと宣言していた。DMATの一員として入ることも考えたが、岩田氏はDMATのメンバーではなかった。いろいろ曲折があったが、最終的には高田氏から「DMATとして入ってください」といわれた。
 それで船にいってみると、厚生省の人から、「DMATの下で働いて下さい。しかし、感染管理はやらないでください」といわれた。それでDMATのほうにいったが、「そんな話はきいていないな」としてDMATのトップのところにいってくれといわれた。
そのトップからは「感染管理をしっかりやってください日本環境感染学会はたちかに三日間でいろいろと指導をしていったけど、でも逃げちゃった。俺たちは感染症の専門家を信用していない。本当に怒っている。だからあなたは好きなことを全部やっていいです」といわれた。
それで国際医療福祉大学のひとと一緒に船内をみてまわることになった。そうすると、すぐに感染症対策が構築できていないことがわかってきた。たとえばPCR検査をするのに検疫官が同意書を検査対象のすべてのひとから紙でとることをしていた。検疫所では紙で同意書をとるというきまりがあり、それがここでも続けられていたのである。感染防御よりも形式。実際にそのために何人もの検疫官が感染してしまっている。なぜ口頭での了解ではいけないのだろうか?
 また精神科医の集団であるDPATも船内の入る必要があったのか? 通常、精神科の面談は対面でおこなう。しかし、この場合はテレビ電話ではいけないのか? DPATのメンバーも防御服は着ていた。しかし、かれらはその正しい着脱法を訓練されていない。だからDPATのメンバーからも感染者がでている。船内は、確かにゾーニングはされていた。だがゾーニングの意味は理解されていなかった。
 そういう指摘をしていると、「みんな一生懸命にやっているのに、それに水をさすのか。今まで自分たちがやってきたことは全部、意味がなかったというのか? そういうやつは出て行け。」ということになって入船からわずか二時間で船から追い出されてしまった。
 ここまでが、岩田氏によるダイヤモンド・プリンセス号での顛末である。

 ここからはそれについての岩田氏の解釈。
 クルーズ船のような感染症に弱いとされている環境で感染症がおきた場合に、まず考えるのが下船させるか船にとめおくかということである。3千人の乗客をどこで隔離するかという問題があり、船に留め置く判断はやむをえなかったかもしれない。それなら二週間の経過観察期には感染を拡大させないという強い覚悟が必要である。感染が拡大していけば、観察期間がどんどんと延長されていってしまうからである。しかし、厚生省は専門家を配置するといった形式にこだわって、実際の感染拡大策が機能しているかには十分には留意しなかった。典型的な官僚の形式主義である。これを岩田氏は安富歩氏の造語(安富歩「原発危機と東大話法 傍観者の論理・欺瞞の言語」明石書店 2012年)を引用して「東大話法」と呼んでいる。その特徴はああいえばこういうで決して失敗をみとめないことである。
 よく知られているように、岩田氏は下船後、氏が見てきたことを伝える動画を発信している(日本語と英語で)。なぜ英語でも発信したかというと、日本のメディアは読者や視聴者がみたいと思うことを発信するのが自分たちの使命であると思っているので、岩田氏の動画は「日本はちゃんとやっている」という視聴者が見たいと思っているニーズから外れるものであり、日本語だけだと無視されたり矮小化されたりすることを危惧してであったという。
この動画はわりとすぐに氏自身によって削除されているのだが、これは何かの圧力によってではなく、氏が入船した翌日から、日本の感染対策がとてもよくなったということを多くきいたので、自分が動画を出した効果が確認できたと思ってであるという。(もっとも動画に対する圧力はなかったが、自分が所属していたある学会のガイドラインメンバーからまったくしらないうちに外されていたといったことはあった・・)
 最近刊行された高橋洋一氏の「FACTを基に日本を正しく読み解く方法」にも、このエピソードについて言及されていて、岩田氏の論に沖縄県立中部病院の高山医師が反論したことが述べられている。岩田氏は日本ではエピカーブ(流行曲線・・感染症の発生の時間、場所などの感染状況をデータ化したもので、感染症が発生すれば必ずとる基本データ)を取っていないとしていたが、それに高山氏は反論したのだという。高橋氏によれば、岩田氏の動画投稿が2月18日、国立感染症研究所のホームページにエピカーブが掲載されたのが19日、ここからわかることは、感染研は当然のことながらエピカーブを作っていたが、それを岩田氏の投稿があるまでは公表していなかったということである。
 岩田氏は、世界中のどこもがさまざまな失敗をした新型コロナウイルス対策において日本もまた失敗したことなど問題ではない。問題はうまくいかなかったにもかかわらず「ちゃんとやった」という論法でそれを直視しないことである、という。事実、岩田氏のしたことを日本の恥を世界にさらしたといった受け取りかたをするひとがでてくる。
 そういう態度が何より問題となるのは、日本が何を主張しても、本当のことをいっているのか?という目でみられるようになることである、と岩田氏はいう。
 ダイヤモンド・プリンセス号で検疫がはじまった2月5日から2月18日まで、検査の件数と陽性者数以外は対外的には何も発表されていない。岩田氏によれば、それは日本にCDCがないからおきたことである。専門家が対応するシステムがなかったのである。
 要するにシステムの問題である。たとえば新型コロナウイルス担当大臣は感染症のことなどなにも知らないひとである。感染症の対策は、感染症の専門家がやるべきであって、素人が手を出すところではない。

 岩田氏のいうように、感染症の対策は、感染症の専門家がやるべきであっても、その対策によって経済活動はとんでもないことになっているようであり、現在のような委縮した行き方はそうそうは続けてはいられないという声が日増しに大きくなってきている。そうなれば、もう狭義の感染症対策の問題ではなく、政治の領分となってくる。
 ダイヤモンド・プリンセス号での感染対策は完全に狭義の感染症対策の範囲である。しかし、日本全体を、あるいは一つの自治体単位を大きなダイヤモンド・プリンセス号とみたてて、ダイヤモンド・プリンセス号でとるべきであった対策をそのまま適応するとしたら、そこでは否応なしに政治の問題がでてくる。

 そしてダイヤモンド・プリンセス号での対応が失敗したことの原因も、現在の日本の新型コロナウイルス対応がそれなりにうまくいっているように見えることも(次章で岩田氏もそう評価している)、ともに日本の持つ特質が関係しているということはあるかもしれない。例えば、人間関係がすべてに優先する相互監視社会的な日本の特質である。
 昔、山本七平氏の本を読んでいて、今次大戦末期、輸送船のほとんどが沈められ、戦地への物資の補給がほぼ不可能になっていた時点においても、補給の担当の部門は淡々と物資の運搬計画を作り続けていたということが書かれていたのを読んで驚嘆したことがある。その部門の仕事は移送の計画を作ることで、輸送船を準備する仕事はまったく自分の管轄外であって、何ら自分の知ったことではないのである。
 同じ山本氏の「日本はなぜ敗れるのか 敗戦21ケ条」においては「日本の敗滅をバシー海峡におく」ということがいわれている。バシー海峡というのは日本の輸送船が敵の潜水艦によって次々に沈められたところで、そうでありながら日本は移送の経路を変えることはなく、同じ海峡を相変わらず通り、次々と沈められていった。日本では戦場での戦果と消耗は問題にされても、戦場にたどりつくまでの消耗は問題にされなかったようなのである。
 日本の軍隊は失敗しても失敗しても、いつも同じ作戦でくるので、敵からみると、動きがきわめて読みやすかったといわれる。しかし個々の兵士は強く、特に有能で部下の信頼の篤い中隊長のいる部隊はそうであったのだそうである。日本の軍隊の序列は陸軍士官学校などの学業の成績できまり、その後の戦功などはほとんど関係がなかったらしい。

 日本の官僚も出身大学と公務員試験の成績でその後が決まり、現場においての成果などはあまり問われず、なにかをすることが大事なのであって、すれば仕事は終わりであり、それがうまくいったかどうかはほとんど問われないのだろうと思う。
 確か、小室直樹さんの説だったと思うが、日本では機能集団はただ機能集団であるだけでは機能せず、それが共同体化してはじめて機能することになるのだという。とすれば共同体の和を乱す人間は、いくら有能でもダメであるとされることになる。

 岩田氏が最近上梓した「ぼくが見つけたいじめを克復する方法」に、2015年の日本化学療法学会総会で学会場での専門書売り場から岩田氏の著作が一切排除されていたということが書かれている。岩田氏自身の著作ばかりでなく、岩田氏が推薦文(帯文)を書いた本までも排除されていたのだそうである。学会長から出版社や書店に岩田氏の名前がはいった本は一切展示販売しないようにという要請があったためなのだそうである。随分と大人気のないことをするものだと思うが、その学会長は岩田氏の著作のどこかで自分のことを批判されたと感じたことがあったのであろう。
 今度のダイヤモンド・プリンセス号でのことも、船内で氏がおこなった言動によって氏が排除されたというのではなく、岩田氏がそこに来ること自体を面白く思わないひとがいて、「岩田が来たらすぐに追い出せ」というようなことになっていたのではないかと思う。そうでなければ入船後わずか二時間で下船させられるというのはあまりに早すぎると思う。「岩田ってやつは変だと思ったらたとえ目上の人間でも平気でずけずけと批判するとんでもないやつだ。今度も何言いだすかわからない」というようなことだったのではないだろうか?
 有名な、『論語』の子路第十三。「葉公、孔子に語りて曰わく、吾が党に直躬なる者あり。其の父、羊をぬすみて、子これを証す。孔子の曰わく、吾が党の直き者は是れに異なり。父は子の為めに隠し、子は父の為めに隠す。直きこと其の中(うち)に在り。」
 おそらく、岩田氏は一部の人にとっては葉公のように見えるのである。まさか、この学会長が自分は孔子の列に連なると思っているということはないと思うが。

 抗生物質の使い方の指南書の著者としての岩田氏の名前は以前から知っていたが、医療のありかたについて発言する人としての岩田氏のことを知ったのは、たまたま何かのことで氏のブログ「楽園はこちら側」に行き当たったのがきっかけだったと記憶している。確か、ディオバン事件のころではなかったかと思う。それで日本禁煙学会の行動への情理兼ね備えた(?)揶揄であるとか、あるいは近藤誠氏の変貌と現状への同情に充ちた批判であるとかを大いに納得できるものとして読んだ。
 近藤誠氏はもともと放射線科の医師(それも放射線診断学ではなく放射線治療学の専門家)であった。日本では血液系のものを除けば、悪性腫瘍は従来は基本的には外科医が治すべき疾患とされてきた。放射線治療とか抗がん剤治療とかは外科医がもはやできることがなくなった場面になったとき、姑息的に行われる敗戦処理というような位置づけであった。
 近藤氏はその当時の日本の乳がん治療の現状への批判者として学界に登場したのではないかと思う。日本は世界でも最後まで乳がん手術にハルステッド手術をおこなっていた国の一つではないかと思う。現在でこそ、乳房温存手術が標準治療になっているが、かつては乳がん部位だけでなく周囲のリンパ節や大胸筋までもふくめ広範に切除するハルステッド手術が広く行われていた。それは基本的にがんは原発部位から遠心的に広がっていく疾患であるという理解を背景にしている。近藤氏は、乳がんはしばしば早期から遠隔に広がることがあるので局所のみをいかに大きくとるかということの追求には意味がなく、それよりも原発巣切除+放射線治療(あるいは抗がん剤治療)をするべきであるということを主張して、そのためほとんどの外科医から蛇蝎のごとく嫌わられることになった。外科医たちはいかに安全に広範囲に切除を行えるかという手術の腕を競ってきたので、「俺たちのシマに口をだすのか! 俺たちが一生懸命やっていることに意味がないというのか!」というような反応をしたのである。外科医たちは、自分たちは孔子の側の人であり、近藤氏は葉公の側の人、直くない人であるとしたのである。それで近藤氏は医学界全体から「いじめ」(岩田氏)を受け、「がんもどき」理論などというおかしな方向にいってしまったという。
 日本化学療法学会総会で学会場での専門書売り場から岩田氏の著作の一切排除であるとか、今回のダイヤモンド・プリンセス号からの排除であるとかも岩田氏は一種のいじめととらえている様である。
 たとえ間違った方向であっても一生懸命に努力しているひとは批判すべきではないとするのが日本の風潮があるが、それは間違っている。サイエンスの場での議論は正しいか間違っているかであって、一生懸命に努力しているか否かではない。
 それなのにあるひとの主張が間違っていることを指摘すると、主張者の全人格を否定したようにとられ、あるいは学会全体の空気を乱したとされて、いじめられ排除されるのはおかしい、というのが本書での岩田氏の主張の一番の根幹であるように思う。
 前述の高橋洋一氏は、両論がある場合どちらか一方が正しいということはまずなく、あちらが6割、こちらは4割正しいというのが通常であるという。
科学の営為において何が真理であるかをわれわれは認識できるのかということについては、古来多くの議論がなされてきている未だ解答がえられていない(あるいは永久に解答が得られることがない)問題であるが、その問題については、わたくしはポパーの立場を自分の立場としてきている。
 われわれは何が正しいかを決して知ることはできない。知ることができるのはあることは間違っているという個別の判断だけであるというのがポパーの論である。だからあるときに今までの説では説明できない事象がみつかったときに、その説には問題があることがわかることになる。《われわれは決して真理にいたることはないのだから、われわれは謙虚でなければならない》、それがポパーの主張である。(もっとポパー自身は謙虚など薬にもしたくない偏屈なひとであったようだが。)
 おそらく岩田氏の論にもし問題があるとすれば、科学の正しさにいささか信を置きすぎているとことにあるのではないかと思う。もちろん、岩田氏を“いじめて”いる側が謙虚であるなどということではまったくなくて、単に俺の領分に口を出すやつは許さないぞ、というだけなのであろうが・・・。
 「ぼくが見つけたいじめを克服する方法」で、岩田氏は医療ミスがおきた場合、ミスをした個人を責めてはいけない。ミスがおきた要因を解明していくことこそが大事であるといっている。
 もしも岩田氏が“いじめられた”のであり、それが日本社会の病理に起因するのであれば、いじめたひとを糾弾しても意味はなく、その病理を変えられるかが問題になる。それで次章は「新型コロナウイルスで日本社会は変わるか」と題されることになる。
 (わたくしも、おそらく陸軍内務班での私的制裁などからの連想で、いじめというのがかなり日本に特有な現象ではないかと思っていたのだが、ある時ダールの何かの短編小説(たぶん「あなたに似た人」)を読んでいて、イギリスのパブリックスクールにおいても、上級生による下級生のいじめがほとんど伝統のように行われているのを知り驚いたことがある。いじめというのが日本社会の病理とかかわるという見方も検討の余地がある問題であると思う。)

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