岩田健太郎「新型コロナウイルスの真実」(5)

 第4章は「新型コロナウイルスで日本社会は変わるか」と題されているのだが、やや羊頭狗肉の趣がなきにしもあらずで、その点について岩田氏の明確な主張がなされているとは必ずしも思えず、論点の列挙におわっているような印象をうけた。
 岩田氏は日本の感染対策の大きな目標は間違っていないし、全体的にはうまくいっている、という。当初対応を間違えた中国や、現在(4月20日発売)大混乱のイタリアに比べればずっとまし。
 最初の水際作戦は失敗した。(無症状の感染者がいる病気を水際作戦で阻止することは不本来可能である。)それで次の目標を医療にかかる負荷を減らすことにおいた。重症者を中心に検査し、軽症者は検査をしないという方針をとった。この目標は正しい。事実かなりうまくいった。
よく韓国との比較がいわれるが、それには意味はない。おかれている状況が違うから(韓国は宗教団体の集まりが大きな感染源になった。しかし他の場所ではそれほど多くない)。韓国を例にとって日本ももっとPCR検査をすべきという議論は意味がない(そうはいっても岩田氏ももう少し日本でも多く検査ができたほうがいいとしているが・・。
 では日本の感染症対策の問題点とはどんなことだろうか? 
 例えば、厚労省が発表した診断基準である。当初は《武漢からの帰国者で37.5分以上が4日以上続くもの》とされた。しかし、この基準には科学的根拠はまったくない。役人がつくった「このへんで線を引きましょう。そういう基準が何かないとみんな困るでしょうから」という政治的なステートメントに過ぎない。(この線をみたさないひとでもコロナの感染者はいるという理解が同時になければいけない。) しかし、官僚は自分のつくったものに例外を認めないという悪弊を持っている。
 もう一つ、保健所の問題。保健所は厚労省からきた通知を金科玉条としてしまう傾向を持つ。厚生省がつくった便宜的な線引きを科学的基準であるかのように思い込んでしまった。なぜそうなるのか? 日本人の多くは自分で判断することを嫌うからであるし、責任をとることを嫌うからであるし、そもそも自分の頭で考えるのが嫌いなのである。
 お上のお達しには服従すべしという奴隷根性(岩田氏の表現)でもあるし、自分では責任をとりたくない、責任はお上にあるとしたいという心情でもある。だから厚生省の基準を満たしていないという理由で検査を断わられる事例が続出した。
さらに、対策はできているという自分がつくった神話を自ら信じ込んでしまうという傾向もある。例としては、専門家会議の尾身氏が出している「流行のピークを下げて、増加のスピードをおくらせるという対策」である。これ自体は正しい。だが、そこで示されるグラフには患者数にも時間軸にも数字がはいっていない。とすれば、これは観念であって具体的な目標ではない。このグラフでは、何がおきたとしても想定内といえてしまう。また実際に、日本ではPCR検査数が少ないから、グラフに書き込むべき実態が把握できていないのである。
 総じて、たとえ局地線ではうまくいっても、全体で勝つグランド・デザインがない。また、失敗したときにそれを認めるのが下手。
 新型コロナ対策では、たとえば、風邪をひいたらすぐに休むということがきわめて大切である。今までの日本にはそれが欠けていた。
 また日本の医療の問題:日本の医療には無駄が多い。たとえば、外来患者が不必要に多い。コロナ問題で外来患者が減っているが、これは裏をかえせば、もともと不必要な通院が多かったということでもある。たとえば、アメリカにはリフィルという制度があり、同じ薬を続けるのであれば、薬局で同じ薬の継続であれば、何回でも出してくれる。
 今回のコロナ感染拡大でインフルエンザ疑いでもキットによる検査はするなということになったがまことに歓迎すべきことである、これを機会に風邪の患者が病院にいくのは無意味というという真実が理解されることが期待できるかもしれない。
 今回の自粛で、みんなが一斉に朝出勤することが必要なのかという反省が生まれ、制限の解除後も今よりは満員でない電車が普通になるかもしれない。
感染症でパニックになるのは日本だけではない。アメリカなどもすぐにヒステリー状態になる。そうなると同調圧力もとても厳しくなる。
 日本での問題はそのパニックに政府も乗ってしまうことである。アメリカのCDCはマスク着用には意味がありませんとはっきりいう。日本ではマスクが配布される。
 この問題が一番悪い形ででたのが子宮頸がんワクチン接種の問題である。みんなが納得しないと強制できないとして政府は接種を強制しないが、それによる結果に責任をとろうともしないし、ワクチン接種の啓蒙にとりくむこともしていない。

 本書で岩田氏がみとめるように、また本書執筆から一ヶ月以上たった現在、おそらく多くの人がみとめるだろうように、日本の新型コロナウイルス感染対策は他の多くの国にくらべればかなりうまくいっているようにみえる。これはBCG接種が関係しているためかもしれないし、過去に流行した感染症の交叉免疫が残っているためかもしれない。理由は複合的かもしれないし、別のことを目指した対策が実際には本来の意図とは別の効果を偶然発揮したからかもしれない。真相はだれにもわからない。
 わたくしはまったく根拠がないことながら、岩田氏が指摘する日本のさまざまな問題点や厭なところが、今回の感染症対応においては、たまたま有効に働いたという可能性もあるのではないかと考えている。
 それは相互監視的で息苦しい日本社会の構造である。「とんとん とんからりと 隣組 地震や雷 火事泥棒 互いに役立つ 用心棒 助けられたり 助けたり(岡本一平 作詞))」 あるいは「欲しがりません、勝つまでは」。
 自分があることを我慢しているのであれば、ほかの人間だって我慢をすべきである、抜け駆けは許さないぞ、一人だけいい思いをするような奴は許さないぞ、といった心情。
 養老孟司さんはその著書で、よく「日本人は生きられませんから」という言葉を紹介する。ある時、中国人の留学生がドイツ人の学生に言ったという言葉であり、またスリランカのお坊さんも異口同音に言ったという言葉である。「個人で生きること」ができず、「世間で生きること」ことしかできない日本人。つねに世間の目を気にして、世間の制約のなかで生きている日本人。「世間」というのは英訳するとどういう語になるのだろうか?
 このエピソードが書かれている養老氏の「運のつき」は実に変てこな本で、学園紛争の時、全共闘学生に研究室を封鎖され、それまでの研究を続けることができなくなったうらみつらみを綿々と綴った本である。
 研究室封鎖にきた全共闘学生の言い分。「この非常時にのんきに研究なんかしてやがって!」 養老氏はそこに戦争中の雰囲気を感じたという。そして学生達が手にしていたのは、竹槍なのであった。
 ある種のうしろめたさを欠いた社会運動を自分は疑うと養老氏はいう。自分は正義であると思っているひとほど怖いものはいない。
 中国が最新IT技術で作り上げた以上の監視社会を、日本は「世間」の監視というローテクで実現しているのかもしれない。見ているのはビッグ・ブラザーではなく、お隣さん。
 日本が欧米でのシャットダウンとか厳重な行動制限に比べればはるかに緩い規制で、相当の効果をあげられているのは、まさに岩田氏が日本の官僚、官公庁、保健所の欠点・問題点と指摘する日本の後進性が有効に働いたということがあるのはないかという疑念をわたくしは捨てることができない。
 かりに、日本には全体で勝つグランド・デザインがなかったのだとしても、日本では、指令がなくてもおのずと全体が形成されてしまうのかもしれない。
ベンダサン「日本人とユダヤ人」では「日本教の中心にあるのは、神概念ではなく、「人間」という概念なのだ」ということがいわれている。「人の世を作ったものは神でもなければ鬼でもない。やはり向う三軒両隣りにちらちらする唯の人間である。」 
 欧米人はもしも神が存在しないのであれば、人間はありとあらゆる悪をなすのではないかという畏れをつねに抱いているのだそうである。
 そしてまた、橋本治氏は「宗教なんかこわくない!」でいう。「“自分の頭で考えられるようになること”-日本に近代化の必要が叫ばれるようになってから、日本人に終始一貫求められているものは、これである。」「日本人は、どういうわけか、「グズグズしている間にさっさと“その先”を考える」が出来ない。「えっ? そんなことまで自分で考えちゃっていいんですか?」というような寝ぼけたことを平気でいう。「答えはエラい誰かが持って来てくれるもんで、自分はその指示を待っていなくてはならない。その答えを先回りして考えたら失礼だし、そんなことを考えるのはメンドくさいから、おとなしく待ってる」という橋本氏のいう渋谷駅の忠犬ハチ公状態である。
 「お上のお達しには服従すべしという奴隷根性、自分では責任をとりたくない、責任はお上にあるとしたいという心情」と岩田氏がいうのもまさにこれである。そしてその自分で考えないという日本人のありかたが、結果として、日本の感染拡大予防に有効に働いたという可能性はなくもないように思うのである。
 さて、日本の医療問題:日本の医療には無駄が多い。たとえば、外来患者が不必要に多い、という問題:これは日本の医療が歴史的に規模が小さな開業医の診療所を中心に形成されてきたということが大きく関係しているのではないかと思う。日本の大きな病院はルーツをたどると軍の病院であったところが多い。日本医師会も主として開業医の集まりであって、多くの開業医は外来診療が主であり入院設備を持たないから、外来にどれだけたくさん患者さんがくるかが経営をもっぱら左右する。家庭医あるいはかかりつけ医という方向を医師会は宣伝しているが、患者さんの病気ではなく、患者さんの家族構成や人間関係にまで目配りできなければ本当の医療はできないというのがその主張である。その家族の嫁姑関係とか夫婦関係を熟知していてこそ痒いところに手が届く対応が可能となる。患者さんの血圧が高いのは仕事の上の悩みが原因であるかもしれず、夫婦関係のストレスがかかわっているかもしれない。単に血圧が高いから薬をだす、そんなものは医療ではないというわけである。
 アメリカにリフィルという制度があるのは、アメリカでは医療へのアクセスの敷居が高く、医療費がべらぼうに高いこともまた関係しているに違いない。風邪くらいで病院にいくなというのはまことに正論であるが、しかし日本では、風邪薬を薬局で買うより、初診料を払っても3割負担で医院で薬をもらうほうが安いというというようなこともあるらしい。アメリカの小説を読んでいると、調子が悪いとテオレノールをのむ場面がしばしばでてくる。
 新型コロナウイルスの流行を機会に風邪の患者が病院にいくのは無意味というという真実が理解され普及していくことが期待できるかもしれない。しかし、患者さんは「先生、ただの風邪ですよね。肺炎ではないですよね」というのである。新型コロナウイルスにおいてもまた然り。「先生、風邪ですよね。まさかコロナではないですよね」というわけである。
 しかし、岩田氏もいうように、今回の感染流行を機会に当面の対応として導入されている電話での診療とか遠隔診療を機に、日本での今までの医療習慣の多くが本当に必要なものであったのかについての見直しの機運がおきることになることは避けられないと思う。そしてかなりの開業医の経営が破綻する可能性さえあるのではないかと思う。
 多くの(少なくとも)大企業において、こんどの新型コロナウイルス流行を機に、在宅勤務の方向に舵がきられている。今オフィスにたまたまいくことがあっても、がらがらでほとんどひとはいない。わたくしも在宅勤務などということが一朝一夕にできるはずはないと思っていた一人なのだが、感染症流行という外圧におされて見切り発車せざるをえなかったということはあるとしても、予想外に仕事はなんとかまわっているようである。
 従来、在宅勤務は産休明けの女性がまだ小さいお子さんの子育て期間中にする例外的な勤務のやりかたというように思われていた側面が強かったと思うが、これがかなり普通の勤務形態ということになると、日本の仕事のやりかたは大きくかわっていうのではないかと思う。いやおうなしにメンバーシップ型からジョブ型へと転換がすすむであろうし、セクハラ、パワハラといった問題も様変わりするのではないだろうか?
 そしてそのような勤務形態が普通になってくると、あるいは日本の世間というものも大きくかわってくるのかもしれない。「向う三軒両隣りにちらちらする人間」が見えなくなるからである。
 最近ある保健師さんに聞いた話。その保健師さんの勤務する会社は知的障害者を多く雇用しているのだが、その人たちの情緒が不安定であることが従来大きな問題となっていた。それが在宅勤務になった後、非常におちついているというのである。他人のことをきにせず、自分のペースで仕事ができるということは精神衛生上、非常にいいらしい。
 岩田氏は近著「ぼくが見つけた いじめを克服する方法」で、小学校から高校まで自分がいじめられっ子だったこと、その間、自分が「本当に「空気が読めない」人だった」ということをいっている。それを「コミュ障」というような言葉でいうのだが、要するに「世間」というものへのアンテナの感度が日本人としてはいささか微弱であるところがあるひとなのだろうと思う。
 2015年の日本化学療法学会総会での書店コーナーから氏の著書が排除されたということ、あるいは今度のダイヤモンド・プリンセス号から乗船2時間で下船させられたことなど、ともに、氏が学会という世間の中では「あいつは世間知らずな奴だ」と思われていて、それで排除の論理が働いたというようなことなのであったのではないかと思う。岩田氏は学会内部の空気を読めず(あるいはあえて「読まず」)、価値中立的(世間中立的、空気中立的)と氏が考える「科学」の場で議論をしようとするのである。
 最終章の第5章「どんな感染症にも向き合える心構えとは」には、科学というものについての岩田氏の見方が表れているように思うので、それについては、稿をあらためて考えてみたい。

新型コロナウイルスの真実 (ベスト新書)

新型コロナウイルスの真実 (ベスト新書)

運のつき 死からはじめる逆向き人生論

運のつき 死からはじめる逆向き人生論

宗教なんかこわくない! (ちくま文庫)

宗教なんかこわくない! (ちくま文庫)