コロナウイルス感染への日本の対応のやり方は世界でも特異なものなのだろうか?(1)

 与那覇潤氏の「歴史なき時代に 私たちが失ったもの 取り戻すもの」(朝日新書 2021年6月刊)にある、コロナウイルス感染への日本の対応についての氏の見解にいささか納得できないものがあった。コロナの問題についてはまったくの素人ではあるけれども、少し考えるところを書いてみたい。なお与那覇氏この本の帯には《「医療」より先に「社会」が崩壊したこの国の傷を、どう癒すのか いまを正しく読む「歴史感覚」を身につける》とあり、ここにかなり氏の主張は集約されているように思う。
 以下の本や雑誌を参照させていただいた。
1)「新型コロナ19氏の意見 われわれはどこにいて、どこへ向かうのか」農文協ブックレット 2020年5月 
2)「どうする! コロナ危機」 雑誌Voice 2020年5月
3)「新型コロナ対応民間臨時調査会 アジア・パシフィック・イニシアティブ 2020年10月
4)日本内科学会雑誌 「特集 COVID-19」 2020 10月
5)日本内科学会雑誌 「特集 COVID-19パンデミック―二年を振り返る」 2021 10月
6)鴻上尚史 佐藤直樹同調圧力 日本社会はなぜ息苦しいのか」講談社現代新書 2020年8月
7)及川順「非科学主義信仰 揺れるアメリカ社会の現場から」集英社新書 2022 10月
8)阿倍謹也「日本人はいかに生きるべきか」朝日新聞社 2001
9)阿倍謹也「「世間」への旅 西洋中世から日本社会へ」筑摩書房 2005

 与那覇氏の「歴史なき時代に」のp11には以下のようなことが書かれている。「新型コロナウィルスへの対策と称して、自粛への同調圧力が異常な統制社会-あたかも戦時体制が再来したかのような、私権の制限の当然視を眼前にもたらしているのに、過去を扱う専門家であるはずの歴史学者だけが、なにもしない。」 わたくしにはこの文章自体が、少し文脈がたどりにくかった。「私権の制限」をもたらしているのは何なのか? あるいは誰なのか? コロナ対策自体なのか? それともコロナ対策を策定した誰かなのか? 同調圧力は自然発生的にできてしまったものなのか? 誰かが意図して醸成しようとしたものなのか?
 ここで与那覇氏が問題にしているのは、「他人に共感する能力」ということで、それを涵養していくことこそが人文学の主たる役割であるはずなのに、同調圧力が人々を委縮させる事態がおきているのに、人文学の側からはそれに対して何も声が上ってこない。それを与那覇氏は慨嘆していて、そんなことなら人文学などはもはや不要なのではないか?とまで言っている。
 日本内科学会雑誌 「特集 COVID-19」 2020 10月をみてみると「ウイルスの病原性」「世界の感染状況」「感染の数理モデル」「コロナの疫学」「臨床象」「集中治療室管理」「診断」「診療」「日本医師会の対応」などの様々な論点の最後に「倫理的法的社会的課題と偏見・差別」という論点もとりあげられている。しかし、ここにははっきりと「公衆衛生上の危機においては、平時の社会で確立されていた秩序や規律を越えた対応が容認され、社会全体による協力が正当化されている」と書かれている。公衆衛生学という学問の立場からは私権の制限は正当化されるということである。
 内科学会の学会誌なのだから仕方がないのかも知れないが、「自粛への同調圧力」の社会への様々な影響といった問題には関心はほとんどよせられていない。そもそもそれはあまり圧力ともとらえられておらず、パンデミック発生時には公衆衛生の観点からみても人々が甘受して然るべきものとされているようである。
 それから1年後に刊行された「日本内科学会雑誌」2021年10月号では、全世界での感染者数2億4千万超、死亡者490万、死亡率2%(日本では170万超の感染者数で、死亡率は1%超)と書かれていて、ウイルス対応についてのこの間の最大の成果はワクチンの極めて速いスピードでの開発とされている。個々にみるともちろんいろいろな問題はあったとしても、全体としてはまあまあの対応であったという感じの総括である
 そういう狭い医学からの観点ではないもっと包括的な観点からの議論は、当然一般誌などで論じられたわけで、例えば、20年5月号の「Voice」誌では、野口悠紀雄%氏の「連鎖倒産を助長する政府の愚」とか、日本にもCDCを作れとか、緊急事態宣言を出すのをためらうなとか、「自由と幸福の相克 集団と個人の問題」をどう考えるかなど、様々ななことが論じられている。養老孟司さんなんかは「日本はすでに「絶滅」状態」などと気炎をあげ、「都会の密閉空間が異常、日本の伝統家屋はすきまだらけ、これが感染を少なくする」とか、「長生きしてもやることがない」というのも問題で、多くのひとが自分の人生をコントロール出来ると思っているのがおかしい、とかのいつもの「都市主義批判」路線の養老節の後、日本では「世間」の束縛がきつく、周囲から浮いた行動がしづらいということも言われている。また、すべては状況によるのであって、共同体があるところでは必ず「穢れ」というみかたもでてくるなどと述べた後、コロナウイルスより少子化のほうがはるかに問題といって論を終わっている。
 与那覇氏はまた、「コロナ感染による直接の被害は比較的軽微だった日本が社会的な共感の不足のため蒙った損害は世界屈指にのぼる」ともいっている。
 この「社会的な共感の不足のため蒙った損害は世界屈指にのぼる」ということには特にその根拠は示されておらず、わたくしの実感とも合わない。
 コロナの感染の当初、中国で武漢市のロックダウンがおこなわれた時、いやー凄いな。中国という強権国家だからできるのだな、日本ではこんなことはとてもできないな、と思った。つまり、日本では社会の雰囲気を何となく変えていくというまだるっこしい方法でしかいろいろなことに対応できないとわたくしは思っているので、かりに日本の対応が結果的にはうまくいったとしても、そもそもその方法しかなかった結果であると思っていた。
 与那覇氏は「日本が社会的な共感の不足のため蒙った損害は世界屈指にのぼる」というが、「社会的な共感の不足のため蒙った損害」を各国のあいだで客観的に比較することができるのだろうか? たとえば、アメリカなどはどうなのだろう? 共感どころかほとんど国が二分されている状態で、きわめて深刻な感染状況であるにもかかわらずワクチンの中にはマイクロチップが入っていて、接種を受けると、その後は権力者から監視されるようになると信じるひとが少なからずいる状況では、「社会的な共感」など望むべくもない。
 ここに記されていることのかなりは与那覇氏のいう「日本人の歴史感覚がどんどんと鈍麻してきていること」に歴史学者たちが気がついていない、あるいはそのことに手をこまねいていることへの与那覇氏の強い慨嘆と批判があり、その批判の系としてコロナの問題も出て来たもののように思う。
 コロナの流行への対応をどうするか?というのはきわめて多くの学問分野にまたがる学際的な議論を必要とするものであり、そもそも「ひとの命は地球より重い。コロナ感染死もゼロにすべき」派から、「ゼロコロナなんていっていると社会が止まる。大きな声では言えないが、月に〇〇人くらいの死は許容してもいいのでは?」派、さらに「むしろ、老人にさっさと死んでもらうのは、これからの日本のためにもなるのではないか」派まで、コロナ感染という事実よりも、それをどう見るかについての見解がもともと論者の間で根底から違っているのだから、一つの結論に収斂していくことなどはまずありえないように思う。
 パンデミックが来るぞという話はこの20年くらいの間、時々出ていて、それでわたくしはと言えば、大分以前(2004年)に刊行されたクロスビーの「史上最悪のインフルエンザ 忘れられたパンデミック」(みすず書房 2004)を読み返して、「ふーん、ひょっとすると昔々読んだ武者小路実篤の小説で主人公がインフルエンザで死ぬというのはこれだったのか? インフルエンザで死ぬなんてどうも昔の医療のレベルは低かったという感想は間違っていたのか?」などと呑気なことを思ったくらいで、それっきりパンデミックのことは忘れていた。
 「ウイルス感染の世界的流行が来るぞ」という話が何度かでたがいつもたいしたことなく終わっていたので、今回もまたそうなるのだろうと多寡を括っていた。あれ?これは何か違うと思ったのは、2020年2月のダイアモンド・プリンセス号をめぐる極めてものものしい防疫体制の報道を見たときだったと思う。
 「新型コロナ19氏の意見」には、コロナウイルス自体よりも、中国が事実上の国境封鎖をしたことで、世界経済が中国経済に強く依存していることが明らかになったことのインパクトのほうが大きかったという指摘があった(マスクさえ8割が中国製)。(内山節氏:哲学者)
 内山氏は、各国の指導者がみな強い指導者を演じるようになった。それを支えるのが国家の権威と「科学」の権威なのであるとしているのだが、氏はこういう雰囲気に「気持ち悪さ」を感じるという。
那覇氏もそれと同様の「気持ち悪さ」を感じているわけで、それが氏の今回のコロナ騒動への見方のベースになっているのだと思う。
 「19氏の意見」にはそれ以外にも、①ウイルスとはどういうものか?(患者さんには細菌とウイルスとの区別がわからないひとも多く、抗生物質はウイルスには効かないことも理解していない人もある。) ②パンデミックの歴史(過去数千年で4回のコロナのパンデミックがあったが、過去20で3回。またウイルスではないが、ペストの流行がヨーロッパ社会に与えたきわめて深刻な影響。その根底にある都市化の問題。日本には感染防御の専門家が極めて少なかったという指摘。③日本経済はこれから大不況になるという予言。④この感染流行により「多様な社会」などどこかにいってしまったという指摘。⑤ドイツのメルケル首相のスピーチとそこでのソーシャル・ディスタンスの必要性の強調の背景など様々なことが論じられている。
 一方、20年11月の「日本内科学会雑誌」では「COVID-19の倫理的法的社会的課題」をあつかった論考が一つだけあり、そこには「公衆衛生上の危機においては、平時の社会で確立されていた秩序や規律を超えた対応が容認され、社会全体による協力が正当化される」と書かれている。日本赤十字社が「病気」「不安・恐れ」「嫌悪・偏見・差別」のスパイラルに注意喚起したことも指摘されている。「専門家会議」が「前のめり」になりすぎたのではという指摘もある。
 鴻上氏と佐藤氏の「同調圧力」では、「自粛警察」の問題が論じられているが、「世間」の同調圧力については、わたくしはこれは嫉妬の問題だと思っている。「自分は我慢しているのに、あいつは楽しんでいやがって許せない!」 戦時中であれば、「わたしは質素な格好で我慢しているのに、あの娘、ちゃらちゃらした格好をしてやがって、許せない!」
 谷沢永一氏に「人間通」(新潮選書 1995)という実にいやーな本がある。全編、人間というのはこんなにいやしい浅ましいものなのだということがこれでもかこれでもかと書き連ねてある本である。「隣の貧乏、鴨の味 ことほど左様に隣人の不幸は喜ばしい」とか、「人間は何時でも僻んでいる。・・ゆえに性の次元で自由を享受している奴は許せない。性的放縦に対する弾劾が何よりの憂さ晴らしとなる」とか・・。最近の芸能人の恋愛スキャンダルへの執拗な弾劾などまさにこれであろう。「他人がなにしてようと関係ない」とはなかなかならないらしい。
 さて、わたくしはずっと吉田健一氏に私淑してきた。山崎正和丸谷才一木村尚三郎三氏による「鼎談書評」(文藝春秋 1979)に吉田氏を論じたところがあって、そこで丸谷氏が「吉田健一にとって、人の足を引っ張るという日本社会の風習は不思議でしょうがないものだったんですね。吉田さんという人が一種の奇蹟的存在であったいちばん大きな特色は、こういう現代日本の村落共同体的性格に対する、ほとんど先天的な理解の欠如ではないでしょうか。」といっている。わたくしも日本の村落共同体的性格というものへの共感が いたって乏しいらしい。「人の足を引っ張る」という感覚がどうもピンと来ない。
 与那覇氏が問題にする、日本の「社会的な共感の不足」というのは日本の「村落共同体的性格」に起因するもので、明治以降の日本の知識人は「個人」の確立という方向、あるいは「自立」という方向を目指すことでそれを乗り越えようと頑張ってきたはずなのだが、与那覇氏がこの本で描いている大学人の姿は、大学というきわめて小さな共同体の中での足の引っ張りあいに励んでいるまことに情けないものであり(SNSでちくりあったりしているらしい)、確かにこれならこの方々が消えてしまっても誰も少しも困ることはないと思うが、日本史の研究者が自分達が江戸以来の共同体的枠内で行動していることにあまり気づいておらず、それにいささかでも反省の目をむけていないようなのは不思議である。
 話がどんどんとコロナから離れてくるが、もう少し続けて「村落共同体」の延長にある「世間」の話を考えていきたい。それで阿倍謹也氏の本を見ていくことにするが、長くなったので稿を改める。